連載 怪物・江川卓伝~攻略法を見つけた谷沢健一の執念(後編)
前編:江川卓と谷沢健一の真剣勝負 ストレート4球に込められた意地とプライドはこちら>>
数々の勲章があるなかで、谷沢健一の野球人生のエポックメイキングと言えば、1980年にアキレス腱痛からカムバックし、2度目の首位打者を獲得したことではないだろうか。
「80年にカムバックしているけど、江川はその前の年に巨人に入っているでしょ。
【契約を無視して他メーカーのバットを新調】
谷沢は1978年シーズン前半にアキレス腱痛で戦線離脱し、79年シーズンはほとんど治療にあてていたため、江川卓との対決は80年に持ち越された。80年の江川は16勝で最多勝を獲ったシーズンであり、翌年の全盛期へと上り詰める前段階のシーズンでもあった。
谷沢が復活した年から江川のピッチングはより勢いを増していったため、通算の対戦成績(116打数33安打、打率.284、9本塁打、13打点)よりも、谷沢には抑えられた記憶しかない。
江川がプロでもようやく"怪物"の片鱗を見せつけたのが、1981年の20勝を挙げたシーズン。史上6人目(当時)となる投手五冠(最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封)に輝くなど、無双状態だった。
翌82年も、シーズン序盤から快調なピッチングを続け、前年を超えるハイペースで勝ち星を積み重ねていく。
まず4月10日のナゴヤ球場での中日戦では、谷沢の3三振を含む14奪三振で完封勝利。同22日の平和台での中日戦は、谷沢に一発を浴びるも1失点完投。5月25日の中日戦では再び完封勝利と、完全に中日をカモにしていた。
「82年の春先の江川は完封、完封ですよ。
この年、江川の勝ち星に比例するように、ペナントレースは巨人が首位をがっちりキープしていた。なんとか2位につけていた中日は、8月24日からの首位決戦で巨人に3タテ(3連敗)を食らい4ゲーム差をつけられ、巨人の2年連続優勝は揺るぎないものと思えた。
「9月に横浜スタジアムでの大洋戦(現・DeNA)が雨で3日間中止となった。次が後楽園での巨人戦。そこで江川対策の練習を3日間やったの。まずバッティングピッチャーを3メートル手前から投げさせた。監督の近藤(貞雄)さんとコーチの黒江(透修)さんの発案で、3メートル手前から力いっぱい投げれば、江川の150キロを超えるストレートを再現できるということでやったけど、まったく打てない。
練習3日目になって、どうも自分のバットが合わないから後輩の石井昭男にバットを借りたんですよ。僕のバットだと、ヘッドが重くて振り遅れる。でも昭男のバットは、グリップが太いタイカップ式でヘッドは軽い。それで打つと、3メートル前から投げるボールでもタイミングが合うんですよ」
谷沢はミズノの専属アドバイザーとなっていたにもかかわらず、早稲田大学時代に慣れ親しんでいた早稲田鶴巻町にある玉澤スポーツのバット工場に行った。そこで石井昭男のバットを差し出し、「これと同じ型のバットを3本つくってください」と、腕のいい職人に頼み込み、色を塗らない白焼きのバットを3本つくってもらった。
【執念で見つけた江川攻略法】
翌週の後楽園での巨人戦。先発は天敵・江川。この江川を攻略しない限り、中日の優勝の芽はない。この日、5番に下げられた谷沢は6回表、1対2と1点リードされた二死一塁の場面で3打席目を迎えた。
それまで2三振の谷沢は、よりコンパクトに振り抜くことを意識し、玉澤スポーツで造ったバットのグリップを固く握りしめて打席に入った。
3球目の外角のストレートをうまく左中間に弾き返し、同点タイムリー二塁打。後続の大島康徳もタイムリーを放ち、3対2で勝った。
大事なペナントの優勝がかかっている時に、バットがどうのこうのと悠長なことは言っていられない。谷沢は江川と対戦する時だけ、玉澤でつくったバットを使用することにしたのだ。
「なんとか江川を攻略したくて......凡打するたび、気づいたことを手帳に書き記していた。江川に関しては、失敗しかない。でも、多くの失敗のなかから何かチャンスがあると思って、何度も手帳を読み返してみた。そして、打ち方、狙い球の定め方、捉え方を見つけた。
まず、江川の顔を凝視する。ただひたすら睨みつけて、ボールがどう出てくるかとか、そんなことは無視して、とにかく狙いを定めて江川の顔を睨みつける。次に、テイクバックをしない。江川の150キロ超のボールは、テイクバックを取っただけで差し込まれてしまうから、テイクバックすることなく構えたところからすぐ出す。最後にポイントを前に置いて、思い切り引っ張る。
首位打者を2回獲得した安打製造機、谷沢健一が行き着いた"江川攻略法"だ。谷沢は江川から打つためにプライドを捨てて、愛用しているバットの型まで変えて挑んだ。
その執念が9月14日の同点タイムリー二塁打、そして9月28日の試合でのヒットにつながった。この9月28日の試合、中日は4点差の9回に同点に追いつき、延長10回サヨナラ勝利を飾り、2位ながらマジック12が点灯。ファンの間では今も語り継がれる"伝説の一戦"である。
この試合、9回無死一、二塁で打席に入った谷沢は、江川からヒットを放ち、チャンスを広げた。
「9回、カーブを打ったという意識はありません。真っすぐという感覚で引っ張って捉えたつもりが、打球はレフトに飛んでいった。江川攻略の秘訣が、ちょっとわかった時だったからね。
全盛期の江川と力と力の勝負ができたことで、谷沢は一点の曇りもなく、バットマンとしての意地と誇りを示すことができた。
(文中敬称略)
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している