連載 怪物・江川卓伝~「江川キラー」として生きた豊田誠佑の野球人生(後編)

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 豊田誠佑が大学で初めて江川卓の球を見た時、「そんなに速くないな」と思ったという。

「高校時代の"江川伝説"を聞いていたので、すごいボールをイメージしていたんだけど、想像よりもスピードを感じなかった。

でも、ここぞという場面ではビシッといいボールが来る。おそらく、ピンチの場面以外は手抜きで投げていたんでしょう。プロでもそうだったんじゃないかな」

江川卓から代打安打で1万円ゲット 豊田誠佑は「今日があるのは...の画像はこちら >>

【江川卓は怖さがなかった】

 作新学院時代、ノーヒットノーラン12回、うち完全試合が2回。3年春のセンバツでの4試合で60奪三振など、途方もない記録が先入観としてある以上、豊田はとんでもない異次元なボールが来ると予想していたに違いない。

 ところが大学時代の江川は、1試合のなかで本気で投げるのは10球以下だったと言われている。本気で投げたのは、得点圏に走者を背負った時のみ。それはプロでも同じだった。

 それでも江川の実力は抜けており、安打を放つのは容易なことではない。そのなかで豊田は"江川キラー"の異名をとるほど安打を重ねた。独自の攻略法はあったのだろうか。

「球は速いけど、怖さがなかった。江川さんはコントロールがいいから、近めに抜けてくることがないですから。常に真っすぐ狙いで、高めの速い球だけ手を出さないように注意していました。

高めの真っすぐに手を出して、みんな三振しちゃいますからね。高めの球は抜群に速かったですよ」

 怖さがないことで、ボールに集中できる。それが豊田にとって江川攻略の一番のカギとなった。

「江川さんのボールは、キレのあるきれいなスピンがかかった感じ。オレの時は手を抜いて投げていたと思う。当時は今みたいに100球で交代ではなく、先発完投が当たり前の時代だったから。だから全球全力で投げてこない。ランナーが出て、得点圏に進むとギアを上げて仕留めにくる。外国人なんかみんな三振に打ち取られていましたよ」

 そう冗談めいて語る豊田だが、どこか本音が入り混じっているような気がしてならない。修羅場をくぐってきたプロのバッターならピッチャーが本気で投げているかどうかはすぐに判別がつくだろうし、なによりセカンド塁上から江川の本気の球を見ているからだ。

【代打安打で1万円ゲット】

「江川さんから打ったヒットで、個人的に印象に残っているのは後楽園で打ったホームランかな。昭和59年8月末の巨人戦、8回に真っすぐを思いきり引っ張って、レフトスタンド中段まで飛んだのかな。江川さんが先発の時はけっこうスタメンで使ってもらっていたから、『なんとか結果を出さないと』と必死でやっていました」

 1984年8月27日、後楽園球場での巨人戦。

先発の江川が7回まで中日を1点に抑え、4対1と巨人がリード。ところが、8回に豊田、9回に宇野勝にそれぞれソロホームランを打たれ1点差に。それでも最後はリードを守りきり、巨人が4対3で勝利した試合だ。

 豊田が「個人的」と注釈を入れたのは、やはり江川から放ったヒットで最も印象的なものに、中日が優勝した82年シーズン終盤の天王山での1本があるからだ。江川から最終回に4点差を追いつき同点にし、延長10回裏にサヨナラ勝ちをした試合だ。

「9回裏、先頭打者の(平野)謙さんの代打で出たんだよね。その頃、仏壇の永田屋さんが"代打ヒット賞"と称して1万円の賞金が出ていたんです。だから、ヒットを打った瞬間は『よしよし1万円もらった』と日当を稼いだ思いで一塁を駆け抜けましたよ(笑)。そしたらケン・モッカ、谷沢(健一)さんがヒットでつなぎ、満塁になって、大島(康徳)さんの犠牲フライでオレがホームに還ってきた。

 それでもまだ3点差でしょ。『これだけつながればいいか。今日はヒットも出たし』と喜んでいたら、そのあと宇野(勝)がレフトに、中尾(孝義)がライトに打って『えっ同点になっちゃったよ』と。

延長戦に入って、最後は大島さんが抑えの角盈男からセンター前にヒットを放ってサヨナラ勝ち。この試合、負けていたら優勝はなかったね」

【中日退団後に居酒屋を開業】

 82年の中日優勝のターニングポイントになった試合として、今でも語り継がれる伝説の一戦である。難攻不落と言われていた江川から9回に4点差を追いつくこと自体、奇跡に近い出来事だった。その口火を切ったのが、先頭打者として三遊間にヒットを放った豊田だった。

「カーブなんか狙って打席に立ってない。江川さんの時は変化球など狙わずに、常に真っすぐですよ。真っすぐを弾き返せなかったら、変化球も打てないという考えでした。江川さんのカーブって、カウントを取ってくるものと空振りを狙いにくる二種類あるんです。あの時はカウントを取りにきた緩いカーブでした」

 最終回で4点差、投手は江川。誰もここから逆転なんて考えていない場面で代打に出された豊田は、 "江川キラー"の名に恥じないように積極的なバッティングだけを心がけていた。そのおかげで甘く入ったカーブにうまく反応し、ジャストミートできた。

「いいかげんなものだよね。

こっちは普通に1万円の賞金ほしさに必死に打ちにいっただけなのに......。それがどんどんつながって同点に追いつき、延長でサヨナラ勝ち。そしたら優勝ですよ。面白いよね。だから、人生はひとりじゃ生きていけないってことなんだよね。みんなによくしていただいて、今日があるってこと。なにかっていうと"江川キラー"の名が出てくるから、本当にありがたい。"江川キラー"の冠がなかったら、オレなんて何もないから。『江川さん、ほんとにありがとうございます』ですよ」

"江川キラー"のおかげで36年間中日に在籍することができ、さらに5年前に名古屋市内で居酒屋『おちょうしもん』を開業し、地元の人々に愛され繁盛している。

 豊田の野球人生は、"江川キラー"一色かもしれない。それでも細く長く野球の現場に携われたことに心から感謝している。これが豊田誠佑の生き方だ。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

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