現役引退インタビュー(前編)
キャリアの最後は、生まれ育った群馬の地で締めくくると決めていた。プロキャリアをスタートした時から、だ。
「僕は前橋育英高校を卒業する18歳まで、群馬で育ち、サッカーをしてきました。群馬のサッカーを引っ張ってきた母校の先輩方や、前橋商業高校などでプレーする高校生を見て、サッカーがうまくなりたいという思いを強くし、プロになることを目指しました。
その過程において、僕がプロになった2005年に同じタイミングでJリーグに加盟したザスパクサツ群馬(現ザスパ群馬)のことはある意味、同期のような気持ちで見てきたし、海外にいる時期もずっと結果を追っていました。いつかこのクラブでプレーしたい、という夢が失われたことは一度もなかったです」
だからこそ、ザスパ群馬のエンブレムを胸に、現役最後の公式戦出場となった10月27日のJ2リーグ第36節、徳島ヴォルティス戦を戦えたことが誇らしく、幸せだった。
「2021年に群馬に戻ってきた時に驚いたのが、自分が思っていた以上に群馬の方が僕を知ってくれていることでした。サッカーをまったく知らないおじいちゃんやおばあちゃんをはじめ、街中やショッピングモールでは年代を問わず、本当にいろんな人が声を掛けてくれた。もちろん、これまで在籍したチームでもそういうことはありましたけど、自分の生まれ育った地元でいろんな人の愛情を感じられたのは特別な時間でしたし、プレーするうえでの大きな力になっていました。
結果的にこの4シーズンで、みなさんの期待に応えられるプレーができたのかといえば、そうじゃないと思います。でも、僕自身は心から群馬に帰ってきてよかったと思っていますし、ここでサッカー選手としてのキャリアを終えられて、最高なサッカー人生だったと思っています」
そんな熱のある言葉に触れた取材の帰り道。ザスパの練習場、GCCザスパークから乗ったタクシーで運転手さんに話し掛けられる。歳の頃は、60歳すぎだろうか。前橋市育ちの野球少年だったという運転手さんは、「サッカーは詳しくないんだが」と言いつつ、「そういや、細貝選手が引退するんだってね」と話していた――。
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細貝萌が通った前橋市立山王小学校の卒業アルバムをめくると、小学6年生だった彼が描いた人生設計がしたためられている。
「高校3年で全国大会に出て、見事優勝する」「Jリーグの柏レイソルに入る」から始まって、「10年後、22歳で日本代表になり、がんばっているだろう」、「23歳でスペインリーグに行き、レアル・マドリードに入団」とある。
「懐かしいですね。当時は、群馬県出身で前橋商業高校からレイソルでプロになった大野敏隆さんが僕にとってのスーパースターだったんです。群馬のサッカー界では知らない人がいないというくらい有名な方で、僕が小学生の時に所属していたFC前橋ジュニアの指導者、小林勉さんの教え子だったことから、よく話を聞いていました。
大野さんがプロになられたあとも、シーズンオフにはよく前橋ジュニアに顔を出してくださったので、一緒にサッカーをしてもらったこともあります。その大野さんと同じユニフォームを着たい、という憧れからレイソルに入りたいと書いたんだと思います」
もっとも「26年後、38歳で引退」と描いたとおりに引退を決めたのは、まったくもって偶然だったという。
「38歳という年齢がどこからきたのか覚えていないですが、結果的にその言葉どおりに、20年ものプロキャリアを続けられたのは、いいサッカー人生だったと思います。ただ、悔いはあります。もっとこうしておけばよかった、もっとできたな、と思うこともたくさんあるし、レアル・マドリード入りも実現できていない(笑)。また、本田圭佑や岡崎慎司、長友佑都(FC東京)ら、すごい同世代が重ねてきた代表キャップ数とか、残してきた結果に比べたら、僕の(Aマッチ出場)30試合なんて足もとにも及ばないですしね。
彼ら以外にも、今もバリバリプレーをしている西川周作(浦和レッズ)や、今シーズン限りでの引退を発表した興梠慎三(浦和)をはじめ、年下ながら香川真司(セレッソ大阪)、吉田麻也(ロサンゼルス・ギャラクシー)ら本当にすばらしい選手と同じ時代を生きてきて、いつも刺激をもらっていたからこそ、自分ももっと結果を残したかった。
でも一方で、僕くらいの選手が『よくもまぁ、20年もやれたな』というのも正直な気持ちで......。技術が秀でているわけでもない、体もたいして大きくない、特別なパワーがあるわけでもない自分が、こんなにも長くプロとして戦ってこられたのはやっぱり幸せだったと思います」
そのキャリアを語るうえで、細貝が「外せない」と振り返るのは、FC前橋ジュニアユースに所属していた中学生時代だ。初めてU-15日本代表に選出され、同世代の猛者たちと世界を戦えた経験は大きな刺激となり、本格的にプロサッカー選手を志すきっかけになった。
「テレビで見ていた日本代表の選手と同じ日の丸のユニフォームを着て戦えて素直にうれしかったし、世界の同世代のレベルを知って、よりせき立てられるような感覚もあった。高校サッカーで勝負しようと前橋育英高校に進学してからも、継続的に世代別代表に呼んでもらったことで、単なる憧れだった"プロ"がより現実的になっていく感じがしたし、サッカーで生きていく覚悟を固めたのもこの頃だった気がします」
もちろん、世代別代表での活動と並行して、高校2年生の時に浦和のキャンプに参加したり、その後に特別指定選手として練習やサテライトリーグに出場した経験も、プロへの思いを強くした出来事だ。間近で見た浦和の選手たちのプレーも、ロッカールーム等で耳にする会話も、すべてが刺激でしかなく、そこで感じた自分との大きな差が2005年、浦和でプロキャリアをスタートする選択につながった。
「ありがたいことに、プロになるにあたって、いろんなJクラブから声をかけていただきましたが、最終的には、2004年の1stステージの上位3チーム、レッズ、ジュビロ磐田、横浜F・マリノスに絞りました。最終的にレッズを選んだのは練習参加を通して、鈴木啓太さん、長谷部誠さん、坪井慶介さん、田中マルクス闘莉王さんをはじめとする、すばらしい選手たちと自分とのとんでもない差を感じたから。
正直、周りは『これから世代交代が起きそうなチームに行ったほうが試合に出られるんじゃないか』という意見がほとんどでしたけど、僕自身は彼らと毎日練習できることに価値を見出していました。試合は毎週1試合、フルで出場できたとしても90分だけど、練習は毎日1時間強ありますからね。日本を代表する選手たちと毎日、ボールを蹴る時間はとんでもない経験値になると考えていました。あとは、レッズサポーター。
ハイレベルの選手に揉まれながら、カップ戦等で試合経験を積み上げていた細貝が、コンスタントに公式戦に絡めるようになったのは4年目、2008年以降だ。それまでは、監督の意向でセンターバックやサイドバック、ウイングバックなどでプレーすることが多かったが、2008年は本職であるボランチに定着。以降は、ケガ人などのチーム事情で他のポジションを預かることはあっても、基本的にはボランチを定位置に存在感を際立たせていく。その過程において、2008年に戦った北京五輪での3戦全敗という屈辱は将来を改めて考える転機になった。
「今になって振り返っても、当時のU-23日本代表には、本田圭佑、長友佑都、岡崎慎司、香川真司、内田篤人、西川周作ら、いい選手がそろっていたんです。でも、まったく勝てなかった。あの時、世界との差を突きつけられたことで、海外に出て少しでもレベルアップしなくちゃいけないという気持ちにさせられました。
ただ、当時は今と違って、日本代表で活躍した選手が海外へ、という時代だったので。僕のなかにも日本代表にならなければヨーロッパに行くべきじゃないという考えがあったので、レッズで活躍して日本代表に選ばれてから海外へ、と思っていました」
その言葉が現実になったのは、北京五輪から2年後の2010年8月だ。浦和の主軸として活躍を続けていた細貝は、同年のワールドカップ南アフリカ大会後に再始動した日本代表に初選出。9月4日の国際親善試合、パラグアイ戦で国際Aマッチデビューを果たしたのを機に、コンスタントに日本代表に名を連ねるようになる。海を渡る決断をしたのは、その年の12月だ。
その海外移籍に先駆け、「細貝萌」の名を一躍世に知らしめたのは2011年1月、日本代表として戦ったカタールでのアジアカップ準決勝、韓国戦だろう。1-1の状況下、87分からピッチに立った細貝は延長前半7分、本田圭佑が蹴ったPKのこぼれ球に素早く詰めてゴールを奪う。結果的に、延長後半15分に再び失点して追いつかれたものの、最後はPK戦を制して決勝進出を決めた。
「PKの時にこぼれ球に詰めること自体は、浦和時代もずっとやっていたことなんです。ほぼほぼこぼれてきたことはないし、なんならサッカー人生でもあの1回きりなんですけど(笑)。そういう意味では、僕自身はそこまで珍しいプレーとは思っていなかったし、ましてやその後、同点に追いつかれて、PK戦に突入しましたから。もっと言えば、決勝のオーストラリア戦では延長の末にチュンくん(李忠成)のえげつないボレーが決まっての優勝ですから。そっちのほうがすごいでしょって思っていました。
ただ、いまだにあの韓国戦のゴールについて、いろんな人から話をされますから。そんなふうにひとつのプレーのことを繰り返し言ってもらった経験は、あとにも先にもあのゴールだけだと考えても、たくさんのサッカーファンに僕を知ってもらった、自分のキャリアを代表する大きなゴールだったと思っています」
(つづく)◆大病も患った細貝萌が振り返る20年間のプロ生活>>
細貝萌(ほそがい・はじめ)
1986年6月10日生まれ。群馬県出身。