学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざま部活動の楽しさや面白さは今も昔も変わらない。
連載:「部活やろうぜ!」
バスケ・篠山竜青インタビュー:2回目(全3回)
1回目:北陸高校に進学を決めた理由「はて? 福井ってどこ?」
【半休はあっても週7日練習 高1は朝5時起床で朝食当番】
前身の東芝時代を含め川崎ブレイブサンダースひと筋、来季でプロ生活15年目を迎える篠山竜青。中学時代に掲げたトップリーグの選手になるという目標を果たすため、神奈川県の横浜市立旭中学から福井県にある全国区の強豪・北陸高校に進学した。
篠山の在籍当時のチームは、県外からの選手を中心に3学年で約50人近くの大所帯。篠山の1学年上の代からは北陸会館という8階建てのビジネスホテルを改装した寮が生活の場となったが、1年生となれば、練習や学校生活以外でも身の回りの仕事にも追われる。
――寮生活はどのようなものでしたか。
篠山 僕らが1年の時の3年生までは、津田(洋道)先生(元監督)のご自宅を改装した一軒家が寮だったのですが、とにかく古くて年季の入った建物だったんです。たまに掃除とかに行っていましたけど、なかなかすごかった、とだけ言っておきます(笑)。
僕らが生活していた北陸会館は綺麗でしたけど、1年生の時は、コート外でやらなきゃいけないことは多かったですね。掃除や洗濯はもちろん、朝5時に起床して寮母さんと朝食を作ることもしていました。味噌汁とか卵焼きですかね。ただ、そこで初めて、中学時代まで洗濯や家事をやってくれていた親への感謝の気持ちは生まれました。
上下関係はそれなりに厳しい部分はありましたが、僕らが1年生の時は3年生がよく気にかけてくれていたので、今でいう理不尽なことはそれほどなかったです。
――普段の学校生活や授業については、いかがですか。
篠山 自分は普通科という名のスポーツクラスだったので、他の部活の子も多く仲良く過ごしていました。勉強はクラスでは上位、10番以内に入っていました。
――おお。
篠山 それが、赤点を取って追試になると、試合でベンチに入れてもらえなくなるんです。それこそ自分が1年生の時に、主力の先輩が赤点を取ったことがあって、それでも試合には出られるだろうと楽観して見ていたら、本当にベンチメンバーにすら入れてもらえなかったんです。それでこれはまずいとなって、最低限の勉強はしました。といっても、あとから振り返れば、そこまで難しい内容ではなかったんですけどね。
テストの時には、寮の食堂とかに集まって、それこそ夜遅くまで必死にやってました。勉強ができる子に教えてもらいながら、3日前ぐらいからもう寝ないでやっていましたね。バスケ部でも同級生の多嶋(朝飛、今季は仙台89ERSでプレー)は勉強ができたので、スポーツ特進クラスにいて、チームメートに教えていました。
――『SLAM DUNK』にも同じようなシーンがありましたね。ちなみに当時読んでいた漫画は? 篠山選手といえば、やっぱり。
篠山 『SLAM DUNK』ですね。自分の場合、歳の離れたきょうだい(8歳上の兄、5歳上の姉)がバスケットをやっていたので、物心ついた頃には家に単行本がありました。高校には持っていかなかったですけど、チームメートやクラスメートの誰かが持っていたので、時折目を通していました。
――この場面がやっぱり印象的とか、気分によってこの辺りを読むみたいな感じだったのでしょうか。
篠山 あげたらキリがないです。日本大学時代にインカレ前には絶対『SLAM DUNK』を1周(コミックス1巻から31巻まで)読むみたいな先輩がいたのを思い出しましたが、自分は疲れている時に手に取って、その時の気分次第で読みたい部分を読んでいた感じですかね。ほかには『みどりのマキバオー』とかも好きでした。
――息抜きとかは?
篠山 これだ! というようなものはなかったですね。当時の練習は土日だけ午前で練習が終わるので、午後は時間がありましたけど、週7日練習(笑)。
でも、半休の時間を使って、たまにみんなでご飯食べに行ったことは思い出ですね。『すたみな太郎』とか、福井県に『サイゼリヤ』が初めてできた時には、自転車で30分ぐらいかけて行ったりしました。あと、プリクラを撮ったこともあったかな。
【1年時のインターハイは「オール」で洗濯】

特に1年時のインターハイで宿泊した離島の公民館では――。
――全国大会や遠征の思い出はいかがですか。
篠山 いろいろありますよ。北陸高ってなかなかホテルに泊まらなかったんですよ(笑)。
すぐに思い出すのは、1年時のインターハイです。島根県の離島の公民館に宿泊。島に唯一ある銭湯まで歩いて15分くらいかかるんですけど、お風呂に入ったはいいけど、帰ってくる頃にはもう汗だくみたいな。
なかでも大変だったのは、洗濯です。それこそ50人分の洗濯物を公民館にたった1台しかない2槽式洗濯機で、毎日洗い終わらせないといけなかったんです。
全学年分の洗濯物を回収するのですが、特にユニホームは試合が毎日あるわけですから絶対乾かさないといけない。それを3年生、2年生、1年生と学年順に洗濯物を洗っていくわけですが、ほぼ毎日徹夜でした。その洗濯機も数日経ったら、酷使されすぎて、脱水槽は使えるけど、洗う側が壊れてしまった。でも洗わなければいけないので、水と洗剤を壊れた洗濯槽に入れて、ほうきでかき回していましたね。
――人力、筋トレですね(笑)。
篠山 1年生が何人か一組でローテーションを組んでやっていましたが、最後は朝4時くらいまでかかっていました。オールです、オール(笑)。
それだけ時間がかかったので、ちょっと抜け出して怒られたこともありました。公民館近くに薄緑の丸っこいやつ(ガスタンク/ガスの貯蔵や供給を安定させるための球体)があって、それにみんなで登って、星を見て気分転換をしていたのですが、先生に見つかって、正座させてられたこともありましたね(笑)、大会期間中なのに。
――アハハ。でも全国大会以外の遠征があったので、全国いろんな場所に行けたのは貴重な経験だったのではないですか。
篠山 そうですね。夏は北信越インターハイ、全国インターハイがあって、秋に国体、冬はウインターカップ。それにウインターカップが終わってすぐに、僕らは1月2日ぐらいから岐阜の招待試合に出向いたり、茨城の土浦カップなどもありました。
それはそれで楽しかったですね。僕自身、移動がそんなに億劫なタイプじゃないので、ずっと車に揺られて外に出るのも好きでした。ただ50人が1台のバスでいくので、1年生は自然と補助席に座っていましたね。
――1年目を終えて、2年生、3年生になっていくなかで変化はありましたか。
篠山 それはもうだって、2年生になったら「平民」に戻れるわけですから(笑)。コート外の仕事がなくなるので、2年生以降は試合に勝つ、うまくなるといったことに集中していきます。なので、ほうきを使って洗濯するようなエピソードが一気に減りますけど。
つづく
Profile
しのやま・りゅうせい/1988年7月20日生まれ、神奈川県出身。ポイントガード。横浜市立旭中(神奈川)−北陸高(福井)−日本大−東芝(JBL)−東芝神奈川(NBL)−川崎ブレイブサンダース(Bリーグ)。身長178cm、体重75kg。左利き。北陸高時代は1年時のウインターカップにベンチ入りし、2年時から主力として活躍。3年時にはインターハイ優勝、ウインターカップ準優勝の原動力となった。卒業後、日本大を経て、2011年に川崎ブレイブサンダースの前身である東芝ブレイブサンダースに加入。以降、同チームひと筋でプレーし、来季で15年目を迎える。これまで世代別の日本代表としても活躍。2016年から2019年はトップの日本代表としてプレーし、東京五輪出場権獲得に大きく貢献した。また明るいキャラクターでオールスターゲームの代名詞的存在となるなど、多くのファンを魅了している。今季は自身初のBリーグ・フリースロー成功率リーダー(91.7%)となった。