近藤弘樹インタビュー(前編)
2021年5月26日、神宮球場。ヤクルトの近藤弘樹がマウンドで仁王立ちしていた。
「自分の体の切れる音とか、すべて耳に残っています。今もあの日のことは覚えていますし、たぶん一生、忘れないと思います」(近藤)
右肩甲下筋肉離れ、肩関節亜脱臼、前方関節包靭帯断裂、棘下筋と棘上筋の損傷──大阪のスポーツ専門医院で受けた診断結果は選手生命を脅かすものだった。その後は、二軍の戸田球場(埼玉)で、3年半に及ぶリハビリとトレーニング。復活を信じ、最後の最後まで不撓不屈の精神で汗を流したが、一軍復帰はかなうことなく、2024年をもって現役引退した。
【楽天での3年間で1勝もできず】
2025年9月、楽天モバイルパーク宮城。
近藤は「在籍した3年間(2018~20年)、一軍の戦力にならなかったヤツをまた戻してくれるのは率直にありがたいと思いました」と、今年からもうひとつの古巣である楽天のスカウトとして再出発。戸田での長く苦しい時間を消化できたのか。じつにすっきりした表情をしていた。
「一度地獄を見て、あとは上がるだけだと思っていたんですけど......地獄が二度あるとは思っていませんでした(苦笑)」
そう語る近藤に、過去の記憶と取材メモをたどりながら、壮絶なプロ野球人生を振り返ってもらった。
近藤は岡山商科大4年の2017年、楽天からドラフト1位指名を受けてプロ入りを果たした。
「真っすぐに自信があったので、いわゆる本格派を目指してプロの世界に入りました。でも、最初のブルペンで一緒に入ったのが則本(昂大)さんや松井裕樹(現・パドレス)といった錚々たる面々で、彼らに圧倒されて『大変なところに来ちゃったな』と率直に思いましたね」
楽天に在籍した3年間は17試合で0勝4敗と、期待に応えられなかった。
「いろいろ見失ってしまったというか、自分のなかに柱がなかったですね。悪いまま、ずっとどうしようと。いろいろ試行錯誤しましたが、その場しのぎにしかならなくて、結果が出なかったという感じです」
楽天を戦力外となり、ヤクルトに育成選手として入団。そこで近藤は、「正直、投げたくなかった球種」というシュートを習得することで、活路を開いた。
「それまでにも投げてはいたんです。楽天2年目の秋季キャンプで、伊藤智仁コーチ(現・ヤクルトコーチ)から『シュートを投げてみたら?』と助言をいただいて。で、一軍に上がってソフトバンク戦で152キロのシュートを投げると、面白いように打ち取れたんです。ただ、コントロールはつかないし、曲がっているかどうかわからなかったので、なんかしっくりこないというか......」
楽天での最終登板となった試合では、シュートのサインに首を横に振り続けた。
「いわゆる真っすぐとか、あまり使えない球種を投げて、ホームランを2本打たれました。そこで抹消されて、それから一度も一軍に上がることなく戦力外だったので、あまり好きな球種ではなかったんですけど、ちょっと悔いが残るところもあったんです」
【シュートを解禁し飛躍】
ヤクルトに入団すると、春のキャンプは一軍スタート。そこには同じく楽天を退団し、一軍投手コーチに就任した伊藤コーチの姿があった。
「この時、トモさん(伊藤コーチ)から『ここで変わらなかったら、もう来年はないぞ』と言われました。一度クビになった身なので、何も怖くないですし、変わる決心がついたというか、もうシュートを投げることに抵抗はなかったです。どれだけできるかわからないけど、シュートを軸にしていこうと。伊藤コーチに出会えたことで、自分の生きる道をもらったかなという感じですね」
開幕一軍をつかみ取ると、150キロのシュートを武器に大車輪の活躍。髙津臣吾監督(当時)をして「近藤の22試合がなかったら、2021年の優勝はなかったでしょうね」と言わしめるほど、"火消し役"として見事な活躍ぶりだった。
当時を振り返り、近藤は「投げていて、正直、手応えはありました」と語る。
「ある程度のところに投げれば打たれないというマインドでした。もともと引いたら負けだという思いはあったのですが、抑えていくことでさらに自信がついていったというか」
22試合の登板のなかでは、3連投することも二度あった。
「戦力外から拾っていただいているんで、痛いとか言っていられないというか、多少は無理をしていたのかもしれません。でも、一軍であんなに続けて登板したことはなかったので、充実していましたね」
【保存療法を選択するも...】
そうしたなかでの、冒頭にあった5月26日の試合での大ケガ。8カ月から1年くらいをメドとして保存療法を選択した。
「手術はしたくなかった。肩は手術したら難しいと聞いていましたし、そこから逃げていたんです。
池山隆寛二軍監督(当時)は、近藤の戸田でのリバビリを見守ったひとりだ。
「楽天にドラ1で入って、なかなか芽が出なかったんだけど......。ヤクルトに来て、えぐるシュートを持ち味に芽が出かかった矢先のことだったのでね。あの容姿を見ているだけで、もう一度復活という思いが伝わってくるから。もう一度と願ったんだけど......。でも、この間あいさつに来てくれましたね。元気そうだったのでよかったなと」
保存療法を選択してから8カ月目、近藤はキャッチボールをするなかで「もう埒(らち)が明かない」と悟ったという。
「自分では6割くらい力で投げてるつもりでも、周りの方からは4割くらいにしか見えない。もう靭帯が切れているので、保存療法では無理だったんだと思います。
結局、自分の野球人生なので悔いは残したくないと、いくつかの病院を訪ねさせてもらいました。自分で納得して手術を受ける、それでダメなら仕方ないと思えるところで受けさせてくださいと、球団には無理なお願いをしました」
2022年2月25日に手術。この年、戸田球場はコロナ禍により制限されていた取材規制が解除。近藤は誰よりも早く自転車で球場入りして、リハビリメニューを黙々とこなしていた。5月28日には「自分の肩じゃないみたい」と語っていたが、理学療法士の伊東優多トレーナーとキャッチボールをするところまで回復した。
【地獄の日々から逃げなかった理由】
2023年6月7日、ライブBP(実戦形式の打撃練習)で、若手相手に27球を投じた。同24日、独立リーグのBC福島との練習試合に登板。27日には「古巣が相手でしたので、復帰戦のシナリオとしてはよかった」と楽天戦に登板し、最速こそ145キロだったが、3人の打者を9球で片づけた。
「この時は正直、手応えはなかったですね。投げはしましたが、思い描く球では全然なかったので。元気だった頃を思い起こすと、スピードも変化球もすべて微妙でした。
このシーズン、最終的にファームで16試合に登板(16イニング)し防御率1.13。与えた四球はわずかに1つだった。
「投げ始めた頃は『肩、大丈夫かな』と、肩と戦う割合が8から9だったものが、4から5くらいに減りました。ただ、夏場になると、肩と戦う割合がちょっと高くなった感じでした。支配下登録期限の7月31日あたりは、出力も球速も落ちて、肩の痛みもけっこうありました」
10月のフェニックスリーグ(宮崎)では、予定していた3試合、トータル3イニングを三者凡退に抑えた。
「肩が温まるのに時間はかかりましたけど、痛みはなかったですね。痛み止めは手放せなかったですけど、これはおまじないのようなものでした(笑)。イメージはよくて、3、4カ月で球速を2、3キロアップしていって、2024年の二軍戦で150キロまで持っていきたという感じでした」
12月、1月のオフシーズンは、戸田で今野龍太や尾仲祐哉らと毎日のように走り込みやキャッチボールで大粒の汗を流した。
今野は近藤と過ごした時間について、「ドラフト同期ではないですけど、同じ楽天からプロ野球人生をスタートさせて......」と言って続けた。
「同い年ということあり仲良くなって、ヤクルトでも一緒になった。近藤はしんどい時も表に出さないタイプの人間で、弱音を聞いた記憶がないですね。復帰後、徐々にスピードが上がってきて、復活も近づいてきたかなと思っていたのですが......」
近藤は2月のキャンプを無事完走し、「今年はいけるかも」と幸先のいいスタートだった。
「春先は肩の調子がよく、4、5月あたりから状態を上げていき、夏までに支配下登録を目指そうという感じでした」
地獄のような日々から逃げ出さなかった理由について、近藤はこう話した。
「球団が待ってくれている以上、やめるわけにはいかない。家族も養わないといけないですし。この2つが原動力だったと思います。野球が好きとか、また投げたいとかは二の次でした」
2024年3月9日、近藤は春季教育リーグのロッテ戦にシーズン初登板。1回を2安打、1失点で終えた。
「試合後はなんともなかったんですけど、翌日か翌々日ですね。キャッチボールをしていて、40球か50球くらい投げた時に『あれ、力が弱いかな』と感じたんです」
さらなる試練が、近藤を襲うことになる。
つづく>>










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