ワールドカップ戦士が語る(1)
駒野友一インタビュー@前編
「2006年・ドイツ」「2010年・南アフリカ」
24歳でメンバー入りした2006年・ドイツ大会。痛恨のPK失敗で悲劇の主人公となった2010年・南アフリカ大会──。
2度のワールドカップに出場した駒野友一は、世界最高の舞台で何を感じたのか。ふたつの大会の経験は、その後のキャリアに小さくない影響を与えていた。
高精度のキックを武器に長く日本代表で活躍したサイドバックが「ワールドカップの重み」を語る。
※ ※ ※ ※ ※
当時サンフレッチェ広島に所属していた駒野友一が初めて日本代表に招集されたのは、2005年8月のことだった。ケガの選手に代わって、韓国で行なわれた東アジア選手権のメンバーに抜擢された。「ジーコジャパンに入ったのは、ドイツワールドカップまで1年を切ったタイミングでした。そこから僕自身も『ワールドカップに出たい』という思いでサッカーを続けていましたし、とにかくJリーグでアピールしなければいけなかったですね。
ただ、初招集以降は継続的に呼ばれるようになりましたけど、本大会のメンバーに選ばれるという確信はありませんでした。だから、メンバー発表会見でジーコ監督に名前を呼ばれた時は、本当にうれしかったですね」
当時、史上最強と呼ばれたジーコジャパンにおいて、同い年の茂庭照幸(FC東京/以下、当時)とともに最年少でメンバー入りを果たした駒野は、まだ主力の位置づけではなかった。駒野が本職とする右サイドバックのポジションには加地亮(ガンバ大阪)が君臨していた。
「サイドバックの一番手は加地さんで、僕はそのバックアップの立場でしたけど、大会が始まれば何が起きるかわからない。とにかく自分のプレーを出していくことだけを考えてやらないといけなかったですし、年齢も一番下だったので、あの時はチームのことよりも自分のことだけで精一杯でした」
もちろん、バックアップだけにとどまるつもりはなかった。
「ただドイツに行くだけではなくて、試合に出られるチャンスは来ると思っていました。だからコンディションもそうですし、試合に出た時にスムーズに入れるように、イメージを膨らませながら日々を過ごしていましたね」
【あっという間に終わった45分】
実際にその"何か"は起きた。大会前のドイツとのテストマッチで加地が負傷し、大会初戦のオーストラリア戦で駒野はスタメン入りを果たしたのだ。
「ドイツ戦では加地さんに代わって前半の途中から出ましたし、次のマルタ戦でもフル出場したので、オーストラリア戦にも出られるかなとは思っていました。ドイツ戦を経験できたのは、自分にとってプラスだったと思います。
自分のストロングをどんどん出していこうとプレーしましたし、オーストラリア戦でも同じようにやろうと思っていました。でも、自分が思っていた以上にワールドカップの舞台は緊張するものだなっていうことを痛感させられましたね」
2004年のアテネオリンピックを経験している駒野だが、ワールドカップの舞台は別物だったと振り返る。
「オリンピックのサッカーは、ほかの競技とは違う場所でやっていたこともあって、盛り上がりみたいなものを感じることがなかった。ですが、ワールドカップの盛り上がりだったり、雰囲気というものは、今まで感じたことがないくらいのものでした。
アップをして、ベンチに下がって、ベンチからロッカーに戻った時まではふだんどおりだったんですけど、入場する時にいつもと違う感覚で、『ああ、緊張しているな』って自分でも思うくらいでした。試合が始まっても、ちょっと浮足立っていたというか、前半の45分がこんなに早かったのかなっていうくらい、あっという間に終わってしまった感覚がありました」
試合は前半26分に中村俊輔(セルティック)のゴールで日本が先制に成功する。「すごく効果的な1点だった」と駒野は振り返ったが、後半にまさかの展開が待ち受けていた。
「僕は守備の選手なんですが、守る展開となってもチームとして混乱はなかったと思います。相手も負けているわけですし、なりふり構わずくることはわかっていましたから。ベンチからの指示もそこまでなかったと思います。実際に押される展開となっても、やばいなという感覚は、それほどなかったですね。
ただ、高さやパワーのある選手が次々に入ってくるなかで、圧がかかっていたのは確か。守る時間が来ることがわかっていながら、同点とされ、逆転され、3点目も奪われてしまった。耐えきることができず、自分たちの力のなさを思い知らされました」
【士気の低いサブ組はいなかった】
屈辱の逆転負けで初戦を落とした日本は、続くクロアチア戦に引き分けると、第3戦ではブラジルに4失点の完敗に終わり、未勝利のまま大会を去ることになった。
「やっぱり、初戦を落としたのが痛かったですね。初戦の結果によって次のステージに上がれる確率がだいぶ変わってきますから。その重要性を理解していたんですが、勝ちきることができなかった。そこが本当に悔しかったです」
結果的に駒野は、オーストラリア戦のみの出場にとどまった。クロアチア戦から加地が復帰し、駒野は残り2試合をベンチから見守ることしかできなかった。
「2試合目から加地さんが復帰して試合に出たということは、監督の信頼を得ることができなかったんだと思います。『ワールドカップに出場したい』という思いでやってきましたけど、世界の舞台で真剣勝負を経験したなかで、自分の力不足を痛感しましたし、もっと強くならないといけない。そういったことを感じさせてもらった大会だったなと思います」
大会後にジーコ監督は、敗因のひとつとしてレギュラー組とサブ組のモチベーションの差を挙げ、チームとしてのまとまりを欠いていたと指摘した。実際にチームのなかにいた駒野は、どう感じていたのか。
「監督によって、選手との接し方であったり、モチベーションの上げ方であったり、スタメン組とサブ組への対応であったり、それぞれ違いがあるとは思います。でも、一番は選手自身がモチベーション高くやり続けること。いつ出番が来てもいいように準備をする。
たとえば紅白戦で、試合に出たいっていう気持ちをプレーで表現していくことも大事だと思います。実際に紅白戦でBチームが試合内容で上回ったり、勝つこともありました。その意味ではみんなモチベーションは高かったと思いますし、サブ組だからといって士気が下がるような選手はいなかったと思います」
【海外移籍の話もあったが......】
大会が終わると駒野は、明らかに意識が変わったという。
「日本に戻ってきてJリーグでプレーするなかで、Jリーグ基準ではなく世界で戦うための基準を持って練習から取り組んでいきました。ただ、ある程度までの基準は設定できるんですけど、プレーの強度などはひとりで(取り組むことが)難しいところもありました。
個人で意識を高くするのはいいですけど、チームスポーツである以上、連動してやらなければいけない。そのあたりに葛藤はありましたけど、個人でも高められる部分──たとえばキックの質であったり、テクニックのところも基準を高く保ちながら、日々やり続けましたね」
海外移籍への思いも、当然湧いてきたという。ただ、いくつか話はあったというが、正式オファーは届かず、駒野は国内で4年後の南アフリカ大会を目指すこととなった。
(文中敬称略/つづく)
◆駒野友一・中編>>2010年ワールドカップ直前のメンバー変更「このタイミングで?」
【profile】
駒野友一(こまの・ゆういち)
1981年7月25日生まれ、和歌山県海南市出身。中学3年時に広島に転校し、サンフレッチェ広島ユースから2000年にトップチームへ昇格。プロ2年目からサイドバックで活躍したのち、2008年にジュビロ磐田へ移籍。その後、FC東京→アビスパ福岡→FC今治でプレーし、2022年に現役を引退する。現在は広島のジュニアチームのコーチを務める。2004年アテネ五輪、2006年&2010年ワールドカップ出場。日本代表・通算78試合1得点。ポジション=DF。

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