ワールドカップ戦士が語る(1)
駒野友一インタビュー@中編
「2006年・ドイツ」「2010年・南アフリカ」

◆駒野友一・前編>>2006年ドイツ大会は「ジーコ監督の信頼を得られなかった」

 イビチャ・オシムから岡田武史へ──。激動の指揮官交代を乗り越え、チーム一丸となってワールドカップ・ベスト16へと躍進した2010年の南アフリカ大会。

 直前のシステム変更でスタメンに返り咲き、不屈の精神で全試合フル出場を果たした駒野友一は、あの熱狂の裏で何を感じていたのか。

 大会直前の仲間の檄(げき)、カメルーン戦で掴んだ自信、そして運命のパラグアイ戦──。今なお脳裏に残る「全員守備の真実」を振り返る。

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【サッカー日本代表】駒野友一「このタイミングで変えるのか」 ...の画像はこちら >>
 イビチャ・オシム監督が就任した新たな日本代表にも継続的に招集された駒野だったが、オシム監督が病に倒れ、岡田武史監督が就任すると、若手の台頭もあって次第に序列が下がってしまう。それでも駒野は心折れることなく、起用されれば最大限のパフォーマンスを発揮し続けた。

「Jリーグでも、日本代表でも、若い選手が出てくれば入れ替わるのは当然のこと。日本代表であればウッチー(内田篤人鹿島アントラーズ)であったり、長友(佑都/FC東京)であったり、勢いのある若手が出てきたなかで、お互いに刺激し合いながらやることができたと思います。ポジション争いを勝ち抜くためにプレーしましたし、いい相乗効果はあったと思いますね」

 スタメン起用は減ったとはいえ、両サイドをこなせる汎用性の高さを備えた駒野は、2大会連続でワールドカップメンバーに選出されることとなった。

「2006年の時とは違って、それなりに代表で経験も積みましたし、4年間、継続的に選ばれてきたので、メンバー発表の時もそんなに緊張はしなかったです」

 4年前と同じ背番号3を託された駒野は、悔しさを味わったドイツ大会のリベンジを果たすべく、南アフリカの地に乗り込んでいった。

「行く前は治安が悪いっていうことを聞いていたんですけど、行ってみたらキャンプ地も塀に囲まれていて、敷地内で安全に日々を過ごせたので、南アフリカ大会の時はメンタル的にもすごく充実していましたね」

【俺たちは下手くそなんだから】

 もっとも日本代表は、2010年に入ってなかなか結果を出せず、大会直前に4-1-2-3の布陣による守備的な戦いへと大きく舵(かじ)を切ることとなった。

「圧倒されたわけではないですけど、結果がついてこなかったので、岡田さんが勝つためにシステムとメンバーを変える決断をしたんだと思います。選手からすれば、『このタイミングで変えるのか』と驚いた部分はありましたけど、それぞれの選手がそれぞれの役割をしっかりと果たすことで、一体感を生み出すことはできます。

 あの時は危機感もありましたから、ピッチ内でもピッチ外でも、みんながそれぞれの役割を全うしようとしていました。

その意味では、それまで以上に団結力というものは高まったんじゃないかなと思います」

 新たにキャプテンに就任した長谷部誠(ヴォルフスブルク)を中心に、選手ミーティングも開かれた。その時に発せられた田中マルクス闘莉王名古屋グランパス)の熱い檄(げき)が、チームをまとめるひとつのきっかけとなったという。

「悪い流れだったので、選手だけでミーティングをしたんですが、どうしても戦術の話になるんですよね。僕も発言を求められた時には戦術の話をしたと思います。でも、闘莉王は戦術うんぬんよりも、気持ちのところの話をしたんですよね。『俺たちは下手くそなんだから、下手なりのサッカーをやるべきだ』って。

 やっぱり個人のところで、日本人らしく、泥臭く、粘り強く、相手よりも走らないと勝てないってことを闘莉王は強く主張していました。原点にもう1回戻ろうっていう話をしてくれたんですが、実際に次の日の練習から激しさが生まれましたし、チームの雰囲気は変わっていったと思います」

 戦術変更やキャプテン変更など、大会直前に大きな変化があったなか、日本代表は小さくない不安を抱えたまま、初戦のカメルーン戦に臨むこととなった。駒野もポジションを取り返し、右サイドバックとしてスタメンに名を連ねた。

【内容よりも勝つことだけを重視】

「メンバーも変わって、システムも変わって、非公開で練習試合までしたんですが、どうなるかわからないという気持ちでしたね。今まで公式戦ではやったことのない形でしたから、不安がなかったと言えば嘘になります。

 でも試合が始まると、(本田)圭佑(CSKAモスクワ)のところでボールは収まるし、守備のところでも全員がミーティングで言ったように、泥臭く、粘り強く、最後まであきらめないところを表現できていた。なので『意外といけるかも』という感覚はありました」

 そして前半39分、歓喜の瞬間が訪れる。

本田がワンチャンスをものにして、先制ゴールを奪ったのだ。

「あの1点で勝てるとは思わなかったですけど、得点が生まれたことで勢いづいたところはあったと思います。とにかく失点を与えないようにみんな泥臭く戦っていましたし、最後までゼロに抑えられたことが本当に大きかった。不安があるなかで勝ちきれたことは自信にもなりましたし、その後の試合にもいい流れが生まれていったと思います」

 守備陣だけではなく、両ウイングの大久保嘉人ヴィッセル神戸)と松井大輔(グルノーブル)も、まるでサイドバックのようにライン際を走り続けた。まさに全員が献身性を保ち、守り勝った一戦だった。

「そうですね。やっぱり短期決戦では初戦の勝敗がすごく大事になってくるというのは、ドイツ大会でも痛感したこと。内容よりも勝つことだけを重視して、実際に勝利を手にすることができた。だから、あのカメルーン戦は本当に大きかったと思います」

 先発フル出場を果たした駒野にとっても、充実した試合となった。大会前はサブの立場だったが、この大会では全試合にフル出場することとなったのだ。

「大会前のイングランドとのテストマッチは出られませんでしたし、コートジボワール戦も途中からちょっと出ただけでした。でも、ドイツ大会の経験が生きたと思います。

 出られない時に、どれだけコンディションを保てるか。メンタルもそうですし、パフォーマンスもそう。そこを維持することが本当に重要なんです。ドイツの時も、南アフリカの時も、いつ出番が来てもいいように準備してきたからこそ、突然の出番にも対応できたんだと思います」

【攻め上がりを自重して快勝】

 続くオランダ戦では0-1で敗れた日本は、決勝トーナメント進出をかけ、第3戦でデンマークと対戦した。

「初戦の勝利で気持ちの余裕はありましたけど、余裕を持ちすぎてしまうのもいけないですし、常にチャレンジャーの気持ちでデンマーク戦にも臨むことができました。早い段階で圭佑のフリーキックが決まってペースを握れましたし、その後に少し悪い時間帯になったんですが、そこでも守りきることができた。

 その流れでヤット(遠藤保仁ガンバ大阪)さんが決めてくれてラクになったし、終盤に1点を返されましたけど、すぐに突き放すことができた。展開としては理想的だったと思います」

 快勝に思えた試合でも、日本のベースとなったのは徹底した守備意識だ。

「戦い方を変えるというのは難しいですし、攻撃的にやりたいっていう思いは選手も持っていたと思いますけど、この大会ではやっぱり『まずは守備から』という意識で戦いました。そこがブレなかったからこそ、デンマーク戦の勝利にもつながったと思います」

 高精度クロスに定評がある駒野自身も、攻め上がりを自重していたという。

「本当にタイミングが合えば上がろうかなと思っていましたけど、あまりそういう機会もなかったですし、あくまで守備に軸足を置いていましたね。リスク管理をしながら、同サイドにボールがあれば高い位置を取る意識はありましたけど、その際も守備のことは頭に入れていました」

 デンマークに快勝を収め、自国開催以外では初の決勝トーナメント進出。日本はラウンド16でパラグアイと対戦することになった。

「デンマークに勝った瞬間は喜びましたけど、チームのなかではすぐに切り替えて、次に行こうという雰囲気になっていました。グループリーグを突破したことは、あくまで通過点という感覚でした。

 パラグアイはグループリーグで1失点と手堅いチームという印象で、決勝トーナメントではさらに点を与えたくない意識が働くので、点を取るのは難しい相手だなと感じていました。日本もこの大会では守備的だったので、お互いに戦い方が似ているという意味では、ロースコアで試合が進むというのは想定していました。

 負けたら終わりですから。まずは失点しないっていうことを意識しながら、ワンチャンスをモノにできればという狙いがありました」

【3人目のキッカーを任された】

 堅守のチーム同士の戦いは、予想どおり互いに一瞬の隙も与えない緊迫した展開となった。90分をスコアレスで終えると、延長戦でもゴールは生まれず、0-0のまま運命のPK戦に突入した。

 後攻の日本は遠藤と長谷部が成功し、3人目のキッカーを任されたのが駒野だった。しかし、渾身の右足キックは無情にもバーを叩いてしまう。一方のパラグアイは5人全員が成功。日本はベスト8を前に涙を呑んだ。

 悲劇の主人公となった駒野は敗退が決まると、ピッチに崩れ落ちて涙を流し続けた。

(文中敬称略/つづく)

◆駒野友一・後編>>先輩・森保一監督から聞いたワールドカップ攻略法


【profile】
駒野友一(こまの・ゆういち)
1981年7月25日生まれ、和歌山県海南市出身。中学3年時に広島に転校し、サンフレッチェ広島ユースから2000年にトップチームへ昇格。プロ2年目からサイドバックで活躍したのち、2008年にジュビロ磐田へ移籍。その後、FC東京→アビスパ福岡→FC今治でプレーし、2022年に現役を引退する。現在は広島のジュニアチームのコーチを務める。2004年アテネ五輪、2006年&2010年ワールドカップ出場。日本代表・通算78試合1得点。ポジション=DF。身長173cm。

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