連載第104回
サッカー観戦7700試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7700試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
北中米大会でじつに14大会連続のW杯観戦になる後藤氏が、今回は日本の対戦国、オランダの歴史を振り返ります。
【1974年西ドイツ大会。前評判は高くなかったオランダ】
僕が初めてW杯を現地観戦したのは1974年の西ドイツ大会だった。キャプテンのフランツ・ベッケンバウアー率いる西ドイツが地元優勝を果たした大会だったが、主役はむしろ準優勝に終わったヨハン・クライフのオランダのほうだった。
オランダのプレーは、いろいろな意味で新鮮で驚きだった。
この大会、「優勝候補」として挙げられていたのは開催国の西ドイツとイタリア、ブラジルだった。
西ドイツは1972年に行なわれた欧州選手権(現在のEURO)で圧勝。とくに、ウェンブリーでの準々決勝ではギュンター・ネッツァーのロングレンジのパスが有効で、西ドイツがイングランドに完勝して世界に衝撃を与えた。4年前のメキシコ大会で準優勝したイタリアは、W杯欧州予選を6試合無失点で勝ち抜いた。そして、メキシコ大会で3度目の優勝を遂げたブラジルはペレが抜けて戦力ダウンしたとはいえ、やはり候補のひとつだった。
それに対してオランダはあくまでもダークホース扱いだった。1969-70シーズンにフェイエノールトがチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)で優勝し、翌シーズンからアヤックスが3連覇していたのに、である。
1965年にリヌス・ミケルスが監督に就任して以来、クライフらとともに築き上げてきた革新的なアヤックスのサッカー。
【極めて斬新だったトータルフットボール】
大会前にオランダの評価が高くなかったのは「日本で」という意味ではない。
当時、僕は英国の雑誌『ワールドサッカー』を定期購読していたが、欧州を中心に世界のサッカーを扱っていた同誌でも、やはりオランダはダークホース扱いだった。
「クラブと代表は違う」という考え方だったのだろう。
現在はメガクラブには世界各国のトップ・オブ・トップの選手が集まり、しかも戦術的完成度が高いので、強豪クラブは代表チームよりも強い。だが、1970年代には各国リーグに外国人選手の制限があったので、ひとつの国の優秀な選手たちが自国の各クラブに分かれてリーグ戦を戦っていた。
だから、彼らが集まった代表チームがクラブチームより強いのは当然と思われていた。
それで、クラブレベルでアヤックスがどんなに強くても「代表は別」と思われたのだろう。
だいいち、オランダは第2次世界大戦前の1934年のイタリア、1938年のフランスの両大会に出場していたものの(ともに1回戦敗退)、戦後は一度もW杯に出場したことがなかった。
人口が少なく経済力も小さいために、クラブの財政規模も小さくプロ化も遅れていた。たとえば、オフサイドトラップのために押し上げた守備ライン後方の広大なスペースをカバーするスイーパー的役割を果たしたGKのヤン・ヨングブルート(FCアムステルダム)は、たばこ店を経営するセミプロだった。
アヤックスにしても、ビッグネームを移籍で獲得したりせずに、生え抜きの選手だけを使ってミケルス監督とクライフが作り上げてきたチームだった。
それが、「トータルフットボール」と呼ばれる革新的なサッカーだった。
チャンスと見ればDFでも攻め上がり、それで空いたスペースは前の選手がきっちりと埋める。相手ボールには集中してプレスをかけて奪いに行く......。現代サッカーでは当たり前のことかもしれないが、当時のそれはきわめて斬新なものだった。
僕は、オランダの試合は2次リーグの東ドイツ戦で初めて見た(クライフのマークを命じられたコンラート・ヴァイゼはクライフがシューズを履き替えている間も雨のなかでタッチライン際に立ってクライフを見張っていた)。
【3大会で決勝へ行き、いずれも準優勝】
そんな、まだ世界の評価も高くなく、セミプロ的な状態に置かれていたオランダの選手たちはミケルス監督(バルセロナ監督と兼任)の下、その革新的なサッカーで世界の強豪国を倒そうと団結して、ひたむきに戦っていた。
2次リーグでブラジルを破ったオランダは、決勝戦で西ドイツと対戦することになったのだが、その頃には世界の見る眼も変わって「オランダ有利」の下馬評が高くなっていた。
しかし、決勝戦の舞台はミュンヘンのオリンピアシュタディオンだった。そして、西ドイツの先発メンバーのうち、ベッケンバウアーやGKのゼップ・マイヤー、ストライカーのゲルト・ミュラーなど6人がバイエルンの選手。オランダは文字通り、完全アウェー状態だった。
さらに、開始早々にヨハン・ニースケンスのPKで先制ゴールを決めたことがメンタル的にも悪影響を及ぼし、さらにクライフがベルティ・フォクツの厳しいマークを受けて孤立。前半のうちに逆転を許したオランダは、自らのアイデンティティーでもある戦術的優位を失って敗れ去ってしまった。
4年後のアルゼンチン大会では、クライフが出場を辞退したにもかかわらずオランダは再び決勝に進出してその実力を証明したが、決勝の対戦相手はまたしても開催国のアルゼンチン。試合終盤にディック・ナニンハのゴールで追いついて延長に持ち込んだものの1対3で敗れてしまった。
オランダは、さらに2010年の南アフリカ大会でも決勝進出を果たしたが、ティキタカ全盛時代のスペインの軍門に下った。
半世紀の間に3大会で決勝進出を果たしたことは、オランダサッカーの底力を示している。ただ、そのすべてで敗れているのだ。"美しいサッカー"を追求するものの、勝負強さに欠けていると言わざるを得ない......。
そのあたりは、過去7大会連続でW杯に出場して4大会でグループリーグを突破しながら、すべて決勝トーナメント1回戦で敗退している日本と何かが共通しているような気もする(決勝とラウンド16ではレベルは大きく違うが......)。
【日本はかつてのオランダに似ている!?】
最近のオランダはサッカー強国としての地位を確立しており、代表選手の大半がイングランド・プレミアリーグなどのいわゆる5大リーグの強豪で活躍。功成り名を遂げた選手ばかりだ。そして、そんなオランダには、かつてのようなひたむきさが感じられなくなっている。
6月3日のアルジェリアに敗れた親善試合を見ても、オランダ人選手の個々のレベルの高さは明らかだが、チームとしての一体感のようなものには欠けていた。クライフの下で世界の強豪にひと泡吹かせようと、一致団結してひたむきに戦っていた頃とは、いろいろな意味で違いが感じられる。
まあ、何よりもの違いは、そのオランダに対して日本が本気で勝負を挑もうとしているところだろうか......。1974年当時にはまったく想像することもできなかった。
そして、「世界を驚かせよう」と結束している日本が、1974年のオランダの姿とダブって見えることがある。
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