田中角栄「怒涛の戦後史」(1)父・田中角次(下)

 新潟県柏崎の二田尋常高等小学校で「開びゃく以来の秀才」と言われた田中角栄は、旧制中学へ進めた能力がありながら、卒業と同時に同小学校高等科へと進んだ。競走馬2、3頭を連れ、各地の地方競馬を転々とする父・角次だったが、満足する勝ち鞍をあげられず、息子を中学へ進学させる資力がなかったのである。

 しかし、角次は田中が高等小学校を卒業した際、なぜか「すぐ働け」とは言わなかった。卒業から10年ほど経って田中がその理由をたずねると、角次はこう答えたと述懐している。

「自分はお前を中学にも大学にもやりたいと思っていた。しかし、事、志と違ってなかなか事業がうまくいかない。勝てそうな馬も、勝てない。心ならずも上級学校にやれなかったので、お前にすぐ働いてもらおうという気は、どうしても起きなかったのだ」(『私の履歴書』日本経済新聞社)

 父親の目から見ても、息子の出来のよさには、惜しんであまりあるものがあったようだ。父親の無念ぶりも知れる。同級生の一人は、当時の田中の明敏ぶりをこう証言している。

 「小学校1年から高等科2年での卒業までの8年間、ずっと組長だった。家畜商だった関係からか、近隣の家より先んじて新聞を取っていた。高等科のときだったか、角栄さんは『新聞を見ても難しいことばかりだが、広告を見るのも楽しいものだ。娑婆の移り変わりが分かるし面白い』と言っていた。時に、昭和5、6年ごろで、頭のいい角栄さんは、すでに田舎で都会のことを知るには新聞しかないと気付いていたようです。ほかの人たちとは、明らかに違っていた=要約」(『私の中の田中角栄』荒川才智・田中角栄記念館編)

 ここでは、昭和初期にして新聞を購読していた、角次の“進取の精神”が浮かび上がってくる。

 結局、田中は高等科卒業後、中学の講義録を取り寄せて向学心を満足させる一方、救農土木工事の仕事についたりしたが、青雲の志やみ難く、上京することになる。昭和9年3月27日、15歳と10カ月の田中は、午前9時、柏崎駅から信越線回り上野行きの鈍行列車の人となったのだった。

 夕方5時すぎ、田中は高崎駅で降りた。高崎競馬に来ていた角次と待ち合わせており、合流して一晩をすごした。久しぶりの父子水入らずの時間であった。このとき、角次は「弥彦山」という競走馬を連れていた。

 一方、母・フメは田中が渡してくれた給料にビタ一文手をつけず、貯めておいた分を含めて85円、上京の時、田中に持たせたのだった。田中はこのうち50円を角次に差し出し、折りから群馬県桐生に嫁いでいた長姉にも、高崎駅へ見送りに来てくれた際に20円を渡した。残りは15円だったが、一応、上京後の仕事先は紹介されており、田中は夜学の授業料があればよしとしていたのだった。ここでは、田中の“なんとかなる精神”と自信がうかがえた。

★「政治家は引き際が大事じゃ」

 上京後の田中は苦学しながら職を転々とした揚げ句、土木建築業で成功、24歳時には立ち上げていた「田中土建工業」が、当年度の年間施工実績で全国50位以内にランクイン。やがて田中は強運と努力で衆院議員として国政に参画、戦後復興に次々と議員立法をつくり上げていくことは、すでに読者ご案内のところとなる。

 昭和21(1946)年の初出馬では、父・角次も牛馬商仲間に、「オラのところのバカが選挙に出ると言っている。よろしく頼みます」などと頭を下げていたものだった。しかし、この初出馬は落選、翌年の衆院解散に再挑戦し、ここで田中は中選挙区〈新潟3区〉で12人中3位で当選を果たすことになる。このときの角次は、“大出世”の息子にご満悦の一方で、田中に「政治家は引き際が大事じゃ」など、クギもまた刺したのだった。

 さらに角次は、田中が代議士の一方で、赤字で廃線寸前だった長岡鉄道を再建するため社長に就任した折りには、田中に「赤字会社の社長になる奴はバカだ」と言いつつも、豪雪でしばしストップして近隣住民を困らすことからの脱却を目指し、路線電化への期待を密かに息子に託したようであった。陰ながら、自分とは違う勢いのある息子の生き方に、拍手を送っていたということである。

 その後、田中は郵政大臣、自民党政調会長、大蔵大臣と着実に出世の階段をのぼっていった。その蔵相3期目の昭和39年4月、角次は死去した。大柄で、若い頃は草相撲の大関を張った頑健な体も、老いとの闘いには勝てなかった。

 時に、蔵相の田中は、IMF(国際通貨基金)の「八条国」移行、OECD(経済協力開発機構)への加盟問題など、わが国の開放経済体制移行への大仕事のさなかであった。父危篤の報に、急きょ新潟へかけつけたが、角次はすでに意識はなかった。

「アニ(角栄)と、男同士の話がしたい」
 それが、角次の田中に対する最後の言葉だったが、もとより田中は、直接、耳にすることはできなかった。

 田中角栄にとって、父・角次とは何だったのか。角次は一時、養鯉業に手を出して失敗、その光景がまぶたに焼き付いていたのか、あの有名だった目白の田中邸の池でのニシキゴイ、そして“ヤマッ気”など、たしかに父親のDNAを受け継いだ部分はあったものの、田中の生きざまを決定づけたとは言えなかった。田中は、後年、こう言っていた。

 「朝から晩までただ黙々と田畑で働いていた母の姿が、あくまでいまの私をつくったと思っている」と。
(本文中敬称略/次号は母・フメ)

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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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