「相手がワルツを踊れば私もワルツを踊り、ジルバを踊れば私もジルバを踊る」
“王者の条件”を語ったこの言葉、実はニック当人ではなく、やはり名レスラーであった父からの教えだというが、ニック自身がこれにふさわしいレスラーであったことは間違いない。
王者として世界各地を転戦する中で、その土地のローカルヒーローの持ち味を存分に引き出し、しっかり持ち上げた上で王座を防衛してみせる。絶対的な強さを誇ったルー・テーズやバーン・ガニアらの時代とは違って、「次にやれば地元選手も勝てる」と各地のファンに思わせるのが、その当時の王者の真骨頂だ。
ただAWA王者として君臨していたころのニックは、同様のスタイルだったNWA王者ハーリー・レイスに比べて「一枚落ちる」というのが日本での一般的な印象ではなかったか。
「レイスが馬場とのタイトル戦を繰り広げていた1980年の前後に、ニックは国際プロレスで大木金太郎やラッシャー木村と闘っていて、大木とは引き分け、ラッシャーとの対戦では反則負けですから、どうしてもニックの評価は低めになりがちでした」(プロレスライター)
あくまでもニックは、最後に反則かリングアウトで逃げる“ダーティーチャンプ”であり、その“強さ”について言及されることはほとんどなかった。だが、その来歴を見れば文句の付けようのない実力派であったことがわかる。
まず、AWA王座を最初に戴冠したのがその証拠だ。ガニアが王座を譲るにあたってはニックとビル・ロビンソンの2人が候補に挙がり、結果選ばれたのがニックだった。「自我の強いロビンソンに比べて王者にふさわしい器量がある」と性格面が考慮されたことも確かだが、しかし欧州仕込みの本格派であるロビンソンと比べて明らかに実力が劣るようならば、選ばれることもなかっただろう。
またその以前、日本においても高評価を得ていた。1970年、日本プロレスへの来日時のことだ。
『NWAタッグリーグ戦』として開催されたこのシリーズ、当初外国人側の目玉とされていたのは初来日となるアーニー・ラッドであった。アメリカン・フットボールのスター選手でフリッツ・フォン・エリックからタイトルを奪ったこともあるラッドは、当然タッグリーグでも優勝候補筆頭とされたが、結果的に決勝に進んだのはニック&ジョニー・クイン組。
「ラッドとロッキー・ジョンソン(元WWE王者ザ・ロックの父)のコンビのチームワークが拙かったのもあるけれど、ニック組が思いのほか良かったからこそ決勝に抜擢されることになった」(当時を知る記者)
後に王者になってからの受けのスタイルではなくテクニカルかつスピーディーな試合ぶりで、アントニオ猪木&星野勘太郎との決勝戦では息をもつかせぬ攻防を繰り広げて60分時間切れ。延長戦でニックは猪木の卍固めに敗れたものの、日本のプロレス史上においてもタッグマッチの名勝負の一つに数えられる激戦となった。
そんなニックの“強さ”が再度クローズアップされることになるのは1984年、ジャンボ鶴田とのAWA王座戦だった。
結果鶴田が戴冠することとなるこの試合で、ニックは序盤から猛攻を仕掛ける。それまでの、のらりくらりと相手の攻めをかわす試合ぶりとはうって変わり、腕関節をメーンに攻め続けるニックに対し、鶴田はなすすべもないといったふうであった。
「そんな強いニックに勝ったからこそ、鶴田の王座奪取も価値あるものになったという面はあるでしょう」(前出のプロレスライター)
このとき、王座戦は2試合組まれていて“いったん鶴田が王座になるも次戦で奪還される”との見方も強かったが、王者鶴田の初防衛戦は両者リングアウトで防衛成功となった。
「この試合後の鶴田はヘロヘロで、後に長州力との60分時間切れの試合での余裕ぶりと比べれば、ニックの力量が推察されるのでは」(同ライター)
実力を裏に秘めながら王者のふるまいに徹した名レスラーであった。
〈ニック・ボックウィンクル〉
1934年、アメリカ出身。名ヒール選手ウォーレン・ボックウィンクルの息子として少年時代から巡業に同行し、15歳でデビュー。'75年にAWA王座初戴冠。以後、AWAの顔として一時代を築く。全日、国際、新日に参戦。
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