本連載記事では、江戸の司法機関「奉行所」の組織、役割、そしてそこで働く人や関わりのある人々の日常を解説。ドラマでは語られることのないリアルな江戸の姿に迫る。
今回は、江戸時代における奉行所の基本的な役割について解説する。(本文:小林明)
江戸時代は行政・警察・司法が奉行所に一本化されていた
2025年大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』の第1回放送(1月5日)で、主人公の蔦屋重三郎が売春街の岡場所に「警動(けいどう)」を発してもらうべく、奉行所に赴くシーンがありました。警動とは、取り締まりのことです。重三郎は幕府が公認していた遊廓・吉原の関係者でしたが、岡場所は非公認、つまり違法。しかも吉原より安い揚代(料金)で性的サービスを提供しているため、横行しては吉原の客は減るばかりだから検挙してください——と申し出たのです。
重三郎が訴え出た江戸の奉行所は、今でいえば東京都庁・警視庁・東京地方裁判所および高等裁判所・家庭裁判所を兼ねた機関でした。現代は行政・警察・司法が分かれていますが、江戸時代は奉行所に一本化されていたのです。
時代劇で与力(よりき)や同心(どうしん)といった男たちが、下手人(犯人)と渡り合い、チャンバラする場面を見たことがあるでしょう。彼らが奉行所に属していた警察官です。
一方、下手人に刑を言い渡す奉行所のトップが町奉行——裁判官であると同時に、行政・治安維持の最高責任者でもありました。
「大岡越前」「遠山の金さん」は、実在した裁判官です。そして、被告たちが正座し、判決を申し渡される法廷が「お白洲(おしらす)」。白い砂利や小石が敷き詰められていたことから、こう呼ばれました。
ただし、町奉行はドラマのように捜査・捕物に参加することは、ほとんどなかったと考えられます。
江戸の町奉行は京都・大坂・駿府(静岡県)・長崎など、地方都市の「遠国奉行」を経験した者がのぼり詰める高級官僚が多く、幕府が大名や旗本など上級武士の裁判や評議をするため設けた、最高裁判所に相当する評定所の一員でもありました。
評定所のメンバーは幕府の実質的な指導者・老中をはじめ、監察役の大目付と目付、財政担当の勘定奉行2人、寺院と神社を統括する寺社奉行4人、さらに町奉行2人で、これを「評定所一座」、3つの奉行職を「三奉行」といいます。ほかに審理を進める留役と呼ばれる書記官がいました。
そうした要職にいる人物が、江戸の町中で抜刀して戦うなど、あり得ません。時代劇における町奉行の勇敢な姿は、あくまで脚色なのです。
北町奉行所と南町奉行所
江戸の奉行所の歴史は古く、1590(天正18)年に徳川家康が領地を江戸に移した翌年には早くも開設され、その後、4代家綱が将軍だった明暦年間(1655~1658)までにもう1カ所が増え、計2つがありました。一時、3つ目を設けますが1718(享保3)年に廃止され、2つの奉行所は移転を重ねながら、最終的には1806(文化3)年、呉服橋御門付近(千代田区丸の内1丁目)に北町奉行所、数寄屋橋御門付近(同有楽町2丁目)に南町奉行所が定着し、明治維新後に廃止されるまで存続しました。
2つの奉行所は月番制で業務を行っていました。例えば4月に北町奉行所が訴訟を受け付けた場合、5月は受け付け窓口を閉めて審理に集中し、代わりに5月の訴訟は南町奉行所が受け付けるわけです。
こうしたシステムを採用したのは、訴訟の数が膨大だったからです。
江戸時代の法典は、1742(寛保2)年に8代将軍・吉宗の命で編纂された「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」が知られています。上下2巻からなり、上巻は刑法などの基本法令、下巻は旧来の判例を条文化していました。下巻は別名『御定書百箇条』(おさだめがきひゃっかじょう)ともいわれます。当時は門外不出の秘密法典だったそうです。
現在では詳細な研究が進み、「捨て子」「密通」(不倫)、「窃盗」「放火」「殺人」「傷害」「売春」「幼年者の刑事責任」などに対する、刑罰の規定が明らかになっています。
その法典と照合すると、訴訟には「出入筋(でいりすじ)」「吟味筋(ぎんみすじ)」の2つがあったことが分かっています。
前者は原告が訴状を提出し、奉行所が原告と被告を呼んで意見を聞く、いわば民事と位置づけられる訴訟で、貸したカネを返してもらえないといった金銭トラブルや、密通などが主なものでした。
一方、後者は訴状がなくても奉行所が捜査して捕縛し、自白させて裁判にかける刑事訴訟です。吟味筋であっても傷害などは出入筋として取り扱う場合があったようですが、おおむねこのように分類できます。
ところが、出入筋の数は膨大でした。1718(享保3)年に奉行所が3つだった時代でさえ、年間の件数が約3万5000に及んだという記録があります。
効率的・合理的に審理を進めるシステムを構築
月番制に加え、出入筋は私人同士の紛争なのだから、「民」のもめ事は「民」に委ねよう——つまり、民事訴訟自体を減らへ方向へと舵を切ります。キーマンとなったのが、町の有力者だった「名主」です。名主は町人から選ばれ奉行所の配下にあった役人で、彼らが「民」のトラブルの調停を担うようになります。奉行所より身近な存在の「顔役」が乗り出してきた以上、大半の「民」は従わざるを得ないからです。
そして、名主では解決できない難題、例えば原告と被告が離れた場所に住んでいて話し合いに時間を要するとか、お互いにどうしても譲れない場合とかに限り、奉行所が審理するようになりました。こうして、出入筋を裁くケースはめっきり減少しました。
また刑事事件でも、中追放(ちょうついほう)以下の刑は奉行所に専決が許されていました。これを「手限(てぎり)吟味」といい、いちいち評定所の指図を得ずとも奉行所単独で判決を下すことができました。
手限をスムーズに進めるため、奉行所の事務方に過去の判例に精通した例操方(れいくりかた)という人材も配置し、審理のスピード化もはかりました。
なお、中追放とは重追放と軽追放の中間にある刑罰で、犯罪者を江戸から十里四方外に追い出すというものです。また、武蔵国(東京・埼玉・神奈川の一部)・山城国(京都)・摂津・和泉(大阪と兵庫の一部)・大和(奈良)、さらに東海道沿道など、主要な地にも近寄ってはなりませんでした。
半面、重大犯罪で遠島(島流し)や死罪など、手限を超えた判決を下す場合は、老中の決裁をあおぐ必要があるなど、厳密でした。そうした過程でも、中心にいたのは奉行所です。江戸時代は一審制です。ごくまれに町奉行が交代した際、審理をやり直すこともあったようですが、一度下した判決を被告は控訴できません。奉行所の裁きは、それだけ重要だったのです。
次回は町奉行以下、奉行所で働くさまざまな職種の人々の実像に迫りたいと思います。
【参考図書】
- 『江戸の組織人』山本博文/朝日新書
- 『江戸町奉行 支配のシステム』佐藤友之/三一書房
- 『江戸の町奉行』南和男 /吉川弘文館
- 『江戸の町奉行』石井良助/明石書店
- 『考証 江戸町奉行の世界』稲垣史生/新人物往来社