
三重県鳥羽市、周辺の島への航路のほか、観光船も行き交う鳥羽港の対岸に小さな島がある。株式会社御木本真珠島が運営するミキモト真珠島だ。
島全体がミキモト(御木本真珠島)の所有であり、創業者である御木本幸吉は、鳥羽はもちろん世界の真珠産業において立志伝中の人物だ。この地で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれ、商才に恵まれた祖父と父の姿を見て育ち、養殖真珠の量産から真珠関連事業を鳥羽の一大産業にまで育て上げた。
相島と呼ばれた鳥羽町の島を帝国汽船が買収
明治期、1890年代初頭まで、ミキモト真珠島は地元の人たちに相島(おじま)と呼ばれていた。ちょうど鳥羽港の目と鼻の先に相対するような島だからそう名づけられていたのだろう。その相島で1893年、鳥羽出身の御木本幸吉は真珠の養殖に成功した。
時が経ち1920年前後に、島の利権をめぐり、売却や買い戻しが繰り返された。その主役は帝国汽船という海運会社。帝国汽船は当時、日本最大の商社といわれた鈴木商店の系列で、神戸製鋼所、石原産業などを産み、現在は日通グループの一員である日本海運から、持ち株会社制への移行と「NX」というグループブランドシンボルの導入に伴い、NX海運という社名になっている。
1910年代の半ば、鈴木商店は第一次大戦の終結を見越して海運、造船部門を帝国汽船に集約していった。1918年には傘下の浪華造船所を播磨造船所と合併、続いて播磨造船所、鳥羽造船所を帝国汽船と合併させている。その勢いに気押されるかのように、当時の鳥羽町は相島の先までの埋立て権と使用権を帝国汽船に売却している。この利権をめぐるもう一方の主役は当時、相島を町域としていた鳥羽町だった。
相島を買い戻した鳥羽町
だが、周辺住民、特に真珠産業に期待をかける業者・町民の反対も強かったのかもしれない。もちろん、表向きには鈴木商店の経営が傾き始めた影響が大きかった。10年近くを経た1927年に、鈴木商店が経営破綻した。同年、鳥羽町は帝国汽船から相島を買い戻している。
鈴木商店は1921年、帝国汽船の造船部を神戸製鋼所に合併させ、神鋼造船部として播磨鳥羽両造船所を移管しているが、その矢先の経営破綻。1929年に播磨造船所は神戸製鋼所より分離独立することになった。帝国汽船の海運事業は、いわゆる船主ではなく運行会社、オペレータ専業として業務を続けたという。帝国汽船にもかつての勢いはなった。
島の買収に乗り出した御木本幸吉
鈴木商店の経営破綻の直後、鳥羽町が帝国汽船から相島を買い戻した直後のことだ。1929年4月に御木本幸吉が鳥羽町から相島を買収した。
1878年に家督を相続した御木本幸吉。天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になり得ることを確信し、海産物商人としてアワビ、天然真珠、ナマコ、伊勢海老、牡蠣など多様な商品を扱った。1890年には、神明浦と相島でアコヤ貝を利用した真珠の養殖実験を開始した。地元漁業者や漁業組合との交渉、役所との折衝には大変な労苦を重ねたようだが、実験は身を結び、事業として育っていった。
さらに、地元の産業振興に尽力し、志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員などを務め、地元の名士になっていった。まさに御木本は飛ぶ鳥を落とす勢いで真珠産業を成長させ、その勢いのまま島を購入し、活用の構想を練ったのだろう。
一方の鳥羽町は経済的なゆとりがそれほどにはなかったのかもしれない。しかし、産業が隆盛すれば働き手とその家族が増えていく。鳥羽町は相島を御木本に売った売却益で、当時の鳥羽小学校(鳥羽尋常高等小学校)を建設した。三重県下で最初の鉄筋コンクリート造の校舎として建設された小学校。現在、鳥羽小学校は文化財として保護され、外観も港町らしく、白く塗り直されている。
経営母体としての御木本真珠島
御木本幸吉は相島を真珠ヶ島と称し、真珠の養殖を軌道に乗せていった。そして第二次大戦後の1951年3月、有限会社御木本真珠ヶ島が設立され、レジャー施設として御木本真珠ヶ島がオープンした。その後1954年9月に御木本幸吉は他界する。以後は1958年に御木本幸吉翁記念館を開設し、1970年には鳥羽港から島に渡れるようパールブリッジを完成させた。
会社としては、1971年に商号を有限会社御木本真珠島に改称する。御木本真珠がミキモトに社名変更したのは1972年。

変更後の1985年に真珠博物館を開館し、1993年には御木本幸吉記念館を開館するなど、従来、設置していた博物館や記念館を拡充し、今日に至る。鳥羽港では真珠島の来島を含めた島めぐりツアーなども実施し、一時期、新型コロナ感染症の拡大によって客足が遠のいていたものの、今日は地元の名所の一つとして多くの観光客を迎えている。
会社としてのミキモトには目立ったM&Aはなく、真珠・宝飾品事業のほかは、真珠島の運営や御木本製薬という化粧品事業にも進出したことに多角化が見られる程度で、真珠・宝飾品専業として独自の地位を築いている。化粧品事業は御木本製薬という名称より、ミキモト化粧品、ミキモトコスメティックスのほうが一般には馴染みがあるはずだ。
この専業特化の方針は、御木本幸吉の経営戦略が遺訓として伝えられているのかもしれない。1896年、御木本幸吉は特許第2670号真珠素質被着法の特許権を取得した。業界では半円真珠の特許といったほうがわかりやすい。
1907年には真円真珠の「真珠素質被着法」(特許第13673号)の特許を取得。これらの特許取得によって御木本は当時の真珠事業を独占できるようになり、他の事業を整理し、真珠事業に専念した。
ただし、その販路は日本全国、世界に照準を置いた。真珠の量産体制により、当時、天然真珠の輸出を最大の事業としていた中東諸国が大打撃を受け、その打開策として油田開発に傾注したといわれるほどだった。
日本屈指の私立博物館、鳥羽水族館も発案
現在、日本屈指の規模や集客を誇る鳥羽水族館も御木本幸吉のアイデアから生まれたとされている。きっかけは、ミキモト真珠島を訪れる観光客が船で真珠島に渡る際、対岸に高級魚を扱う海産物問屋の丸幸水産の生け簀が見え、観光客が帰りにその生け簀を見に来ていた。そこで御木本は水族館を立案し、「海洋観光都市」をキャッチフレーズに市制を施行した鳥羽市と共同し、1955年5月に丸幸水産の私立博物館として鳥羽水族館はオープンした。
御木本はその前年に他界しているので鳥羽水族館のオープンを見届けることはなかった。ちなみに、現在の水族館は当初より少し東寄りにあった。現在の用地を提供したのは、当時の神鋼電機(現シンフォニアテクノロジー)だ。同社の旧鳥羽工場用地を譲り受け、1994年4月に全館がオープン。現在は大阪・海遊館に次ぐ来場者を集め、特に生け簀人気の名残か、大人の来場者が多い水族館となっている。
文:菱田秀則(ライター)