【志村けんさん追悼まとめ】過去コント作品や俳優としての活躍や音楽など業績を振り返る

【志村けんさん追悼まとめ】過去コント作品や俳優としての活躍や音楽など業績を振り返る

日本が誇るコメディアンで、ザ・ドリフターズの志村けんさんが2020年3月29日の夜、死去された。まだ70歳であった。

新型コロナウイルスによる肺炎に感染し、発症・入院したという第一報が出た3月25日からわずか4日後の訃報。コロナショックで混乱し、それに輪をかける形で届いた大御所の訃報で世界中が悲しみに暮れる今、追悼の意を込めて彼が残した功績を偲び、まとめていきたい。

志村けんさんの訃報に至る経緯について

まずは今回の訃報について、その経緯を整理していく。

第一報は3月25日、所属事務所であるイザワオフィスから「新型コロナウイルスに感染。検査で陽性と確認され、東京都内の病院で入院・闘病中」という発表である。この時点での容体は発表されなかったが、日本の著名人が新型コロナウイルスへの感染を公表したのは初めてのことだった。

志村さんは、3月17日に倦怠感などの症状を訴えて自宅療養するも、19日に発熱や呼吸困難といった症状が出たため、20日に診察を受けた。医師の判断によって都内の病院に搬送され、重度の肺炎との診断によって入院することとなる。

3日後の23日には新型コロナウイルス検査で陽性であることが判明し、翌24日には保健所によって発症日と濃厚接触者を特定する調査が実施されたが、感染経路は不明だった。

そして志村さんが体調不良を訴えた3月17日からわずか13日後となる3月30日、懸命の治療も虚しく死去されることとなる。はからずも、新型コロナウイルスに対して危機感の薄かった日本人に対して、ウイルスの猛威と重症化に至る脅威的なスピードの恐ろしさを知らしめるきっかけとなってしまった。

参考:所属事務所による志村けんさん訃報のお知らせ
https://izawaoffice.jp/news200330.html

「#志村けん頑張れ」日本中から回復を願うエール

感染したという第一報が出て以降、芸能界に限らず日本中から志村さんに向けてエールが送られている様子が各所で見受けられた。「志村けんのバカ殿様」で家老として“殿”を支えてきたタレントの桑野信義は、ブログに「恩師である志村さんを心から案じております」「一刻も早い回復を祈るばかりです」「負けないでください!」とつづった。

お笑いコンビ「NON STYLE」もイベントにて、僕はドリフターズが大好きで、ドリフターズに憧れてこの世界に入ってきた。早く元気になっていただきたいですし、バカ殿様とか、茶の間を笑顔にするようなパフォーマンスを見せてほしい」とコメントしている。志村さんが生前、どれだけ慕われていたかを知ることができる。


また、Twitterでは「#志村けん頑張れ」のハッシュタグを加えた応援ツイートが多数見受けられている。

志村けんさんの訃報を受けた各著名人の反応や追悼

そして、志村けんさんの訃報に際し、各業界の著名人が続々とTwitter上で哀悼の意を表するコメントを出している。大御所から若手まで、本当に数多くの芸能人やタレントが一斉に哀悼の意を表しており、改めて志村さんの影響力の大きさを思い知る。Twitterに寄せられた一部のコメントを抜粋してご紹介する。




志村けんさんのこれまでのキャリア振り返る

今回の訃報を聞いた人の中には、志村さんのことをあまり知らない世代も多いのではないだろうか。そこで、志村さんのコメディアンとしてのキャリアをまとめていく。故人を偲ぶ意味でも、その功績に目を向けてもらうための一助になれば幸いである。

付き人を経て、ザ・ドリフターズ正式メンバーとして加入するまで

テレビでお茶の間を笑いに包む漫才や落語に感化され、学生の頃からコントを披露するなど、お笑いの世界に惹かれていた志村さん。

1968年2月、18歳のときにいかりや長介さんの家に押し掛けて直談判し、弟子入りを志願する。門前払いだったものの諦めずに食い下がったことで熱意を認められ、欠員を埋める形で付き人として仮採用となり、1週間後に正式採用された。この翌日から各地の巡業へ同行するなど、慌ただしくも華々しい世界へのキャリアをスタートさせる。

22歳となった1972年、同じくザ・ドリフターズの付き人だった井山淳さんとお笑いコンビ『マックボンボン』を結成し、父親の名前の一文字をもらった『志村健』という芸名で芸能界デビューを果たす。志村さんのアクロバティックなツッコミが冴えるネタで話題を呼び、テレビの冠番組を持つほどまでに人気を獲得していく。

しかし知名度の低さやネタの少なさが仇となって人気が低迷し始め、番組の打ち切りや相方の脱退、メンバーチェンジなどを経てコンビが自然消滅してしまう。ただ、幸いにもこれが転機となり、付き人に戻った1973年12月『メンバー見習い』というポジションでザ・ドリフターズに加入することとなる。


このタイミングで、芸名を現在の『志村けん』に改名。翌年1974年3月31日で正式メンバーだった荒井注さんが脱退するのに伴い、4月1日からザ・ドリフターズの正式メンバーに昇格し、コメディアンとしての人生を本格的に歩み始める。

生粋のコメディアンとして活動し続けた『志村けん』の芸人人生

1985年に終了した『8時だョ!全員集合』の後番組として、1986年にスタートした加藤茶さんとの『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を皮切りに『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』、『志村けんのバカ殿様』など、ザ・ドリフターズとして以外のコメディアン活動を活発化させていく。

これらの活動を通してさまざまな芸能人と親交を深めながら、『バカ殿』をはじめ『変なおじさん』『ひとみ婆さん』といった強烈な個性を放つキャラクターを生み出していった。

90年代に入ってから俳優やミュージシャンなど、マルチに活躍していく他のザ・ドリフターズのメンバーとは異なり、一貫してコメディアンとしてコントを続ける姿勢を鮮明に打ち出しているところからも、志村さんのお笑いに対する強い思いを感じることができる。こうして、いかりや長介さんのお笑いに対する精神を継承しつつも、ザ・ドリフターズとは一線を画したコントスタイルで新たな一時代を築いていった。

2000年に入ってからは、今も続く『天才!志村どうぶつ園』や『志村でナイト』などのレギュラー番組だけでなく、『志村けんのだいじょうぶだぁ』や『志村けんのバカ殿様』『志村&所の戦うお正月』『志村&鶴瓶のあぶない交友録』『志村けん聞録』といった特番に出演するなど、多くのバラエティ番組を抱える。


また、2006年からはコントや喜劇、三味線演奏などを組み合わせた舞台演劇『志村魂』の主催・主演を務めるなど、コメディアンを軸にした活動を精力的に続けていた。

表では見せない、ミュージシャンとしての顔も持つ

音楽に対する造詣は非常に深く、ビートルズのファンであることを公言するとともに、ソウル、ファンク、ジャズなど幅広いジャンルの音楽に精通している。

その証拠に、『8時だョ!全員集合』で人気だった『ヒゲダンス』や『ドリフの早口ことば』の元となる楽曲は志村さんの推薦であり、音楽誌『JAM』にて音楽レビューを寄稿していたこともあるほどだ。

楽器演奏でもその才能を発揮しており、ザ・ドリフターズのギター担当であるばかりか、趣味で津軽三味線を演奏するなどしている。津軽三味線は舞台や番組、CMで度々披露しており、その腕前は確かなもの。2005年にビートたけしさんのタップダンスと、2016年には東京スカパラダイスオーケストラとの三味線のコラボレーションが披露された。


ボーカリストとしては、『8時だョ!全員集合』の『東村山音頭』『カラスの勝手でしょ』といったバラエティコーナーだけでなく、研ナオコさんとのデュエットソングをリリースしている。

信念と人情のもと、俳優としても活躍していた『志村けん』

独特の雰囲気を纏い、いぶし銀の俳優として活躍していた志村けんさんは、他のメンバーとは異なり、俳優としての活動には手を出さないことを信条としていた。

60年代にザ・ドリフターズの映画に出演したことはあるものの、それ以降はコメディアンとしての活動に徹している。実際、90年代に大ヒットした刑事ドラマ『古畑任三郎』の犯人役の出演依頼を断るなど、お笑いの世界にいることを貫いていた。

この背景として、以前『バカ殿』で共演した昭和を代表するコメディアン、東八郎から「芸人が本当は利口だと思わせようとしたり、文化人面したりするようになったらおしまい」と言われたことに感銘を受けたことが影響していると思われる。

しかし、1999年に公開された映画『鉄道員(ぽっぽや)』には、高倉健さんからのラブコールに応える形で俳優として出演した。出演した理由について「高倉の申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と語るなど、義理堅い志村さんの人間性が見て取れる。


その後は俳優としての活動はしていなかったが、2020年の4月から放送される朝ドラ『エール』や、同12月公開予定の映画『キネマの神様』への出演が決定するなど、俳優業にも進出しようとしていた矢先の訃報となってしまった。

変なおじさんはここから! 生粋のコメディアンが最高視聴率36.0%をマーク

『8時だョ!全員集合』の後番組として始まったこの番組は、当時としては異例ずくめのの斬新な企画が満載だった。今では当たり前となった特殊撮影や超小型カメラ(CCD)の使用、視聴者が撮影した映像を紹介するコーナーなどがそれに当たる。

さらに最高視聴率36.0%をマーク。平均視聴率18.1%という、今では大健闘にあたる数字を当たり前のように叩きだしていたという功績も見逃せない。


このように、テレビの未来にいち早く反応して取り入れる姿勢を見せつつも、お茶の間で高い人気を誇る番組の顔として活躍していたのだ。

【バラエティ黄金時代】志村けん変なおじさんを生んだ『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』

令和の暗いムードを変わらない笑いで元気付けてくれた

今回の訃報を受ける少し前、2020年3月4日に放送された『志村けんのだいじょうぶだぁ』は令和になっても昭和時代から変わらない笑いを届けてくれ、ネットやお茶の前では絶賛との声が殺到していた。志村さんがドリフ時代から行っている「わんこそば(そうめん)の早食い」や「腰の悪い寿司屋」、「弱いと思っていた相手に入れ墨が入っていた」ネタ、「ひとみばあさん」など、往年の鉄板コントを次々と披露した。これを受けて下記のような声が寄せられている。

「昔から見てるけど『だいじょうぶだぁ』は変わらなくて安心する」
「相変わらず安定のおもしろさ」
「だいたいオチは読めるけど、それがいい」

など、令和の時代になっても変わらない人気ぶりを見せた。コロナショックで日本だけに留まらず世界中が混乱し、悲しみに包まれているタイミングで、日本を温めるメッセージとなった。

最後に


今回、突然の訃報を受け、多くの芸人が追いかけてきた大きな背中が旅立ってしまったことで、大きな悲しみに包まれる日本。数々の功績を挙げれば尽きないが、訃報前の2020年3月4日に放送された『志村けんのだいじょうぶだぁ』で見せてくれた、昭和から続く笑いで令和を元気付けてくれたことは多くの国民に刻まれたのではないだろうか。


新型コロナウイルスは、現在も予断を許さない状況が続くが、志村けんさんの功績が今後も後世に語り継がれ、世界中が快方に向かうことを願ってやまない。

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