■私もささやかながら言葉狩りポリコレに遭遇した



 私は、4月に三作目のエッセイ集『優しいあなたが不幸になりやすいのは世界が悪いからではなく自業自得なのだよ』(大和出版)を上梓する。今は最終的なチェック段階だ。



 その中で、カネのないことで生存の危機にさらされたら、「お金を下さい!」と言って「乞食」をしてもいい、生き延びるほうが大事だという文を書いた。20年前にカナダはバンクーバーの路上で白人の淑女に、丁寧な英語で「いま私は大変に困っている。なにがしかのお金をいただけないだろうか」と話しかけられたことを思い出しながら。



 そうしたら編集者に「乞食は差別用語です。使えません」と指摘された。「物乞い」もダメという。調べてみると、AからCのランクで分類すると「こじき」はCランクの「文脈によっては使わないほうがいい」差別表現、不快語、注意語だそうだ。



 たとえば「興信所」はAランクの差別語。「調査会社」「民間調査機関」と言うべき。「カエルの子はカエル」はCランク。「文盲」はAランク。「精神異常」はAランク。

「愚鈍」はBランク。「醜男」(ぶおとこ)はCランクで、「器量の悪い男」と書くべきだそうだ。なんと「共稼ぎ」は「共働き」としなければならない。なぜ?!



 これでは、私が書いた『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください』(KKベストセラーズ、2019)や『馬鹿ブス貧乏な私たちを待つろくでもない近未来を迎え撃つために書いたので読んでください』(KKベストセラーズ、2020)は、いつの日にか「馬鹿ブス貧乏」と差別用語三連発という理由で出版禁止の憂き目にあうかもしれない。



 そういえば、『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください』を献呈した某高名なフェミニストから「差別用語の使用は感心しない」という御批判が書かれた礼状をいただいた。「馬鹿」や「ブス」や「貧乏」が差別語とは知らなかった私はびっくり仰天したものだった。





■ポリコレの起源確認



 ポリコレとは、言うまでもなく「政治的公正さ」を意味する英語のポリティカル・コレクトネス(political correctness)の略だ。ウイキペディアには、「性別・人種・民族・宗教などにも続く差別・偏見を防ぐ目的で、政治的・社会的に公正・中立とされる言葉や表現を使用することを指す」と定義されている。



 アメリカでポリティカル・コレクトネスという差別的言語是正運動が生まれたのは、1980年代から90年代にかけてだった。それで、IndianをNative Americanと呼ぶようになった。BlackをAfrican Americanと呼ぶようになった。congressman は congress membersとなり、chairman は chairpersonとなった。

policemanはpolice officerとなり、stewardess は flight  attendant となった。



 1980年代から90年代にかけてのアメリカは面白かった。アメリカの経済の悪化に伴い、アメリカ建国の精神に戻ろうという反省心が芽生え、1960年代の市民権運動(Civil Rights Movement)の熱が復活した。多人種と他民族が自由に生きる移民国家多文化社会アメリカを再確認し祝福する運動が起きた。



 西洋白人キリスト教中心主義だった大学のカリキュラムにアフリカや中近東やアジアの歴史や思想に関する科目が増えた。当然、それらを専攻研究する非ヨーロッパ系研究者にも大学教員への道が開けた。







■ポリコレ疲れ



 このアメリカの初期ポリコレ運動に対する反動もあった。「ポリティカル・コレクトネス疲れ」(Political  Correctness    Fatigue)なる空気が生まれた。



 だから、ポリコレ問題を風刺するようなテレビ番組Politically Incorrect Nightなるトークショウまで放映(1993-2002)され人気を博した。



 2001年には、差別ネタ満載のミュージカルThe Producersがブロードウェイで上演され、その年のトニー賞を受賞した。このミュージカルを私は2回見たが、どちらも上演終了後に観客は総立ちし盛大な拍手をしながら喝采をあげていた。



 このミュージカルは1968年に映画化されたものの舞台化だったが、動物虐待に、女性差別、ユダヤ人差別、ドイツ人(ナチス)差別、アイルランド系差別に、老人差別、同性愛者差別などがこってり満載だった。

2005年にあらためて映画化されたが、あのブロードウェイの舞台版の毒気は抜けているように見える。



 しかし、このミュージカルが今のブロードウェイで再演されることはないだろう。ポリコレ運動は、今や単なる差別用語是正運動を通り越して、BLM(Black Lives Matter)運動の例にも見るような、暴力を伴う激しい抗議運動になっているのだから。



 同じ黒人でも上流階級化や中産階級化した黒人たちは、BLM運動に恐怖を抱く。アメリカ社会に人種の対立が激しくなることを危惧している。



 しかし、上流階級化や中産階級化した黒人層は、「差別されたくないなら、努力して勉強し、働き、法を守り、社会に迷惑をかけず、貢献すべきだ」などと本音を言わない。恵まれない黒人たちの怒りを買えば、自宅に放火されるかもしれないのだから。黒人たちの社会内部も階級に分断されている。



 こうして、差別の問題は、公に出すにはより危険になり、語られないままになる。差別を糾弾し、差別のない理想社会の早急の実現を声高に言い募る人々の過激さに眉をしかめつつ、彼らや彼女たちと関わらないようにするのが身の安全だと考える人々が増える。人々は信頼できる仲間内にしか、その気持ちを打ち明けない。差別問題の真実は、こうしてもっと地下に潜る。



 親は子どもに本音は言えない。子どもや若い人々は、社会の現実を知らないので、メディアや教育機関が唱える理想に水を差すような言動は親のそれといえども軽蔑し非難する。



同じく夫婦は配偶者に本音を言えない。夫婦にだって政治的見解の対立はある。政治的立場の違いがこじれて離婚に至る事例もある。



 まさに、今のアメリカ合衆国で起きている差別是正運動は、21世紀の「文化大革命」だ。中国のかつての文化大革命は不毛なものに終わったが、アメリカではどうなるのだろう。







■アメリカの「i世代」のポリコレ過敏症



 アメリカでは反ポリコレ的学説(人種間の知能格差を肯定したり、環境の影響より生物学的差異の大きさを指摘したりなど)を唱える学者が、所属学会から除名されそうになる。反ポリコレ的見解を披露した大学教授などの講演が学生の抗議運動によりキャンセルされたりする。



 この状況について、日本語で評論活動しているアメリカ人のベンジャミン・クリッツアー(Benjamin Kritzer:1989-)が「現代ビジネスオンライン」(gendai.ismeda.jp)において紹介している。





 ◆「世界的知性」スティーブン・ピンカーが、米国「リベラル」から嫌われる理由「学会除名騒動」の背景」2020年8月16日



 ◆「一つの「失言」で発言の場を奪われる…「キャンセルカルチャー」の危うい実態 「ピンカー除名騒動」の背景」2020年8月18日





 スティーブン・ピンカー(Steven Arthur Pinker, 1954-)とは、アメリカ合衆国の実験心理学者、認知心理学者である。「人は、個々の長所や資質で評価されるべきであって、人種は極力無視されるべきです。

つまりキング牧師の主張と同じで、人はその肌の色ではなく、その人格で判断されるべきなのです」と至極まっとうなことを発言しているのだが。



 さらに、クリッツアーは、憲法学者のグレッグ・ルキアノフ(Greg Lukianoff,1974-)と社会心理学者のジョナサン・ハイト(Jonathan Haidt,1963-)の『アメリカン・マインドの甘やかし:善い意図と悪い理念は、いかにしてひとつの世代を台無しにしているか』(未邦訳)(The Coddling of the American Mind: How Good Intentions and Bar Ideas Are Setting Up a Generation for Failure, Penguin Books, 2018)を紹介しつつ、以下の4つの記事でアメリカのアカデミズムや大学でこのような反ポリコレ言論に対する抗議活動が生まれる理由について説明している。





◆「アメリカの大学でなぜ「ポリコレ」が重視されるようになったか、その「世代」的な理由 『アメリカン・マインドの甘やかし』(1)」2020年11月28日



「「ポリコレ」を重視する風潮は「感情的な被害者意識」が生んだものなのか? 『アメリカン・マインドの甘やかし』(2)」2020年11月29日



「アメリカでの「ポリコレ」の加熱のウラにいる「i世代」の正体『アメリカン・マインドの甘やかし』(3)」2020年12月5日



「ポリティカル・コレクトネスの拡大と「2010年代のアメリカ社会」の深い関係『アメリカン・マインドの甘やかし』(4)」2020年12月6日





 上記のクリッツアーの四つの記事を要約してみる(要約部分はイタリックにした)。





 アメリカの大学生たちは、以下の誤った3つの考え方に囚われているようだ。「人は傷つくことで弱くなる」と「常に自分の感情に従え」と「人生は善い人々と悪い人々との闘いである」である。



  なぜ、このような被害者意識が強く自己検証能力が希薄で、かつ善悪二元論のような幼稚な世界観を今のアメリカ人の大学生が持っているかと言えば、彼らが「i世代」だから。



  「i世代」とは、1995年から2012年頃までにアメリカで生まれ育った人々を意味する。彼らや彼女たちは、過去の若者世代より突出してうつ病や不安障害の罹患率が高く、自殺者数も自殺未遂者数も多い。



  その理由として、「i世代」の脆弱さが挙げられる。彼らや彼女たちは、思春期以降の時間を電子機器(スマートフォン、パソコン、タブレット)やソーシャルメディア(SNS)とともに過ごしてきて、家族以外の人間関係に直接さらされる機会が少なかった。大学に子どもを送る中産階級以上の親の過保護傾向の影響もあり、「i世代」は安定志向であり、安全運転であり、冒険を好まず、飲酒率や喫煙率が低く、性の初体験年齢が遅く、アルバイトの経験年齢も遅い。



  つまり、過去の同世代のアメリカ人と比較すると、「i世代」は精神的に幼く社会を知らない。

だから、「人は傷つくことで弱くなる」とか、「常に自分の感情に従え」とか、「人生は善い人々と悪い人々との闘いである」という誤った考え方に囚われている。、



  彼らや彼女たちが大学に入学した2013年から2014年あたりから、大学での反ポリコレ言論への抗議活動が盛んになってきた。それに呼応して、大学側は学生たちの虚弱性に留意して、学生を刺激しないようにしてきた。



  つまり、「i世代」の精神的幼さや傷つきやすさは、昨今の高等教育機関の過度なリベラル教育の弊害ではない。「i世代」は、大学入学前から精神的問題を抱えやすい状態だった。だから、大学はそれに対処せざるをえなくなり、「事なかれ主義」(safetyism)となり、学生というお客様(とその保護者)の意向を汲んだ。大学も一種の経営体、企業であるからだ。



  学生たちは、大学教員の講義内容や見解に関して不快に思うと、傷ついたと騒ぎ、「被害者」となり、クレームをつける。たとえば、美術史の講義でスライドでヌード像を見せられると性的嫌がらせと騒いで、大学側に対処を求める。



  大学側は、そのクレームの妥当性を吟味することなく、教員の処分をすることで問題を鎮静化する。かくして、アメリカの大学は言論の自由や学問的中立性を守ることを放棄しつつある。



  しかし、このような現象は「進歩の副作用」(problems of progress)かもしれないと『アメリカン・マインドの甘やかし』は指摘している。ポリティカル・コレクトネスを常に意識することで差別を許さない姿勢が社会により強く根づくこと自体は良いことであり、そうなっていく過程において、ひ弱さにも見えかねない超神経過敏な道徳的志向も生まれるのかもしれない。ポリティカル・コレクトネスの拡大は、今のところ、いろいろな問題を引き起こしているが、これは社会が進化し、より成熟するために通過すべきことなのかもしれない。





 クリッツアーの記事はここで終わっているが、『アメリカン・マインドの甘やかし』において、著者のルキアノフとハイトは、結論として、若い人々に成熟した道を教えるべきであり、自分自身の思い込みほど自分を傷つけるものはないし、人生は善と悪の戦いという単純なものではないことを伝えるべきだとして、次の4つのことに留意すべきだと説いている      ( The   Coddling of the American Mind,263-69)。





(1)ソーシャルメデア(SNS)は、高まる精神疾患罹患率を高め、政治的に極端な二分化を促すので、ソーシャルメディアのFacebookやTwitterは、集団的健康さ、開放性、公的会話の文明度を高めるために自らのプラットフォームを改善すべき。



(2)親も教育者も過度な保護は子どもに悪影響を与えるので、もっと自由を子どもに与え、子どもの自主性と責任感を育むべき。



(3)自分がどの人種や民族や性に属しているかというアイデンティにこだわるあまり、人間存在は差異を超えて共通するものが多いことを忘れがちになるので、アイデンティティ・ポリティックスに距離を置く教育をすべき。



(4)大学は、学生や学生の保護者からの批判を回避したい事なかれ主義(safetyism)に陥ることなく、学問の府らしくもっと事実や表現の自由に留意すべきだ(シカゴ大学はそれを実践中)。





 上記のように、ただただ社会の分断を促し、人々の単純な敵味方思考や善悪二元論を促進する類のポリコレ騒動に抵抗する動きも、アメリカには出ている。







■日本のネット界のポリコレ騒動もまた「進化」への副作用ならば次にすべきことは?



 さて、日本のポリコレはどうか。アメリカのポリコレ騒動は、大学などが中心になっているが、日本ではもっぱらネット界のソーシャルメディアの中に限定されている。ネットが騒いで、テレビがちょっと言及するという形だ。



 たとえば、





◆お惣菜が「おかあさん食堂」という名称で売られるコンビニのコーナーについて、「料理は母親だけがすると前提している。女性差別だ」と批判された。



◆某俳優が「髪は嫁に切ってもらう」とインタビューで発言し、「嫁」という言葉が女性差別だと批判された。



◆大学のオンライン授業で、zoomに上半身裸の男子学生が映っていたのは性的嫌がらせであると女子学生の親が大学に抗議した。



◆ある研究者がある女性歌手の発言について批判して「夭折すべきだった。醜態をさらすより早く死んだほうがいいと思います。ご本人の名誉のために」とTwitterに投稿したら、その研究者の勤務先の大学に抗議が殺到し、大学が反省文を大学のウェッブサイトの冒頭に掲載した。



◆東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長が、「女性は会議で話が長い」「他の女性が意見を言うと競争意識で自分も意見を言うので会議が長くなる」と発言し、国の内外から抗議され、辞任要求署名運動が起き、辞任した。





 あからさまな女性差別は指摘され非難されるべきである。しかし、ついつい私は思ってしまう。



 そもそも「おかあさん」が食事を作るのが当たり前の日常ならば、コンビニに「おかあさん食堂」という総菜コーナーは設置されない。つまり「おかあさん食堂」は、母親や女だけが食事を作っていない状態をあたりまえに前提としている。「おかあさん食堂」は、すでにオワコンの過ぎてしまった「毎日ご飯を作る女性」への郷愁でしかない。その証拠に、「おかあさん食堂」のキャラクターは、女装した香取慎吾だ。薬師丸ひろ子じゃない。



 それから、自分の妻を「嫁」と呼ぶのは個人の自由ではないだろうか?「嫁」という言葉も差別用語になっているのだろうか?ならば、大昔の流行歌の「瀬戸の花嫁」は差別の歌か?



 それから、大学生にもなって、男子学生の裸の上半身ごときに動揺するなど幼稚すぎないか?見慣れないないからこそ、じろじろと熱心に観察して、今後の参考にすべきではないか?



 Twitterで他人に死んだほうがいいと書いて投稿するようなことは慎むべきであり、その投稿者本人に対して抗議するのはわかるが、投稿者の勤務先に抗議するのは過剰な攻撃ではないだろうか?



 いかにも「日本原人」的な80歳過ぎた男性が、不用心に口に出した女性差別的言葉など、放置で無視でいいのではないのだろうか? 21世紀を生きて行く人間は、憐憫の情をもって、旧態依然とした「日本原人」の退場を生温かく見送ればいいのではないか?



 私自身は、ネットの中のポリコレ騒動に対して「幼稚でヒステリックだなあ」という思いを否定できない。



 しかし、こういう騒ぎが起こり炎上することが反復されれば、日本社会からあからさまな性差別的言動は少なくなっていくであろうとは思う。人々はより一層に言動に気をつけるだろうとは思う。性差別的言動への抑止効果はあると思う。



 だから、日本のネット界のポリコレ騒動もまた、前述のクリッツアーが「進化への副作用」(problems of progress)だと表現したものと同じなのかもしれない。進化にともなう問題なのかもしれない。



 ならば、次にすべきことは、今は幼稚でヒステリックに見える日本のネット界のポリコレ炎上騒動を、より成熟した、より開かれた、より冷静で、社会に対立や二極化や分断をもたらさないような前向きな論争に変化させることなのだ。



 2021年3月15日月曜日に、日本の警察内に初めて設立された(という架空の)「ネット中傷誹謗による殺人事件捜査を専門とする指殺人対策班」を題材にした東京テレビ制作の「アノニマス」という連続テレビドラマの最終回が放映された。このドラマは通常のテレビ視聴率は高くなかったが、見逃し配信「TVer」での視聴率は高かった。それだけ、ネット界の誹謗中傷炎上の問題は視聴者の関心の高いテーマなのだ。



 まずは、日本でもネット界やソーシャルメディア(SNS)での匿名者によるポリコレ・ヒステリーを、より建設的な冷静な議論に変換していくことが課題だろう。



(文:藤森かよこ)



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