火野正平さんの役を受け継ぐ
7月10日からTOHOシネマズ 日比谷ほかで全国ロードショーされる特別先行版『鬼平犯科帳 本所の銕/密告』。5月26日、東京・浅草公会堂で開催された「第2回『鬼平犯科帳祭』」で、密偵・相模の彦十役として尾美としのりが新たに加わることがサプライズ発表された。


中村吉右衛門主演シリーズでうさ忠の愛称で親しまれる同心・木村忠吾を長年演じてきた尾美が、今度は松本幸四郎主演のシリーズで、火野正平さんが演じた彦十役を受け継ぐ。二代の『鬼平犯科帳』を異なる役で支えることになった尾美に、その重圧と覚悟、そして『鬼平犯科帳』への思いをたっぷりと語ってもらった。

○猫八さんと火野正平さん…2人の彦十が重くのしかかる

マネージャーから『鬼平犯科帳』と告げられた瞬間、尾美の口から出たのは本心の言葉だった。

「大河ドラマの撮影を終え、控え室にいた時に、マネージャーから“『鬼平犯科帳』が…”と言われて。もう、“いや、ないないない。ダメダメダメ。怖い怖い怖い”って」

役の内容を聞く前から、『鬼平犯科帳』というタイトルだけで全身が強張った。それほどまでにこの作品は、尾美にとって特別な重みを持つ。

続けて、オファーの経緯を聞くと、「その後いろいろなお話をしていただいて、“池波(正太郎)先生の事務所、山下智彦監督、松本幸四郎さんをはじめ皆さん、尾美さんを希望してくださっています”と言われたんです。こちらとしてはもう、ぐうの音も出ないというか、二の句が継げないというか」と苦笑い。「尾美さんが“いい”と返事をくれないと、京都から山下監督が説得に来ます、と言われて。完全に詰められてしまった形ですね(笑)」

なぜここまで躊躇したのか。
そこには、この役に刻まれた先人たちの記憶があった。吉右衛門主演『鬼平犯科帳』では、三代目・江戸家猫八さんが彦十役を演じ、尾美とは現場でも舞台でも長年ともに歩んだ。

「猫八師匠の彦十をずっと見ていましたから。舞台も一緒にやっていたので、やはりイメージが猫八師匠の彦十だったんです。“いや、どうしようどうしよう…”という感じで。できるなら触れたくないという思いでした」

○「心配なのは尾美としのりだけ」と名指しされた記憶

さらに、幸四郎主演シリーズで演じていたのは、火野正平さん。オファーを受けてからDVDで初めて火野さんの彦十を見た尾美は、こう語る。

「面白かったですね。面白かったけど、もう本当に怖いなぁ…って。絶対比べられる、と思ったんですよ」

木村忠吾役を演じた頃を振り返っても、記者会見の場で小野田嘉幹監督から「心配なのは木村忠吾役の尾美としのりだけ」と名指しされた記憶が、今も脳裏に焼き付いているという。

「別に言わなくてもいいでしょ、そんなこと、と思いながら(笑)。今回も、自分が出演することで皆さんに余計な思いをさせてしまうのではないか、と本当に思っていました」

木村忠吾役を演じる際には、「先代である(古今亭)志ん朝さんの忠吾を一切見なかった」という尾美だが、前述の通り、今回は火野さんの彦十を見た。
その心境の違いとは何か。

「忠吾を演じる際は、先代の映像を見なかったから思いのままに演じることができた。でも今回は、猫八師匠の彦十を現場で見てしまっているんです。彦十役を引き継ぐ上で、腹を決めて火野さんの彦十を見ないとな、と思いました」

●クランクインがラストシーン、幸四郎と2人芝居
今回の撮影に入ってからも、思いもよらない事態に追い詰められた。

「実は『密告』のラストシーンがクランクインだったんです。しかも松本幸四郎さんと2人きりのシーンで。こちらはガッチガチに緊張しているのに、いきなりラストかい!と思いました(笑)」

あまりの緊張に、「そのシーンは何をしたか全然覚えていないです」と笑うほど。撮影後は監督やカメラマンたちと「反省会」と称して和やかな時間を過ごした。

「特に何かを反省するということはなかったのですが、“早く慣れてくださいね”という感じだったのだと思います。そういう時間を設けていただけてありがたかったですね」

一方、幸四郎の芝居には心を揺さぶられる瞬間があった。

「『密告』で、幸四郎さんが瞬きを2回パパッとされたシーンがあって、それで泣かされましたね。幸四郎さんのお芝居なのか、監督がリクエストしたのかは分かりませんが、僕が観て勝手にやられてしまいました。
ぜひ劇場の大きなスクリーンで観ていただきたいと思います」

○「他人とは思えねえんだよな」アドリブで生まれた忠吾と彦十の邂逅

今回の『密告』には、自身がかつて演じた木村忠吾役で浅利陽介が登場し、2人が絡む場面もある。そこでの思わせぶりなセリフは、元々は台本にはなかったものだという。

「現場で監督と記録の方から、“ここで彦十に、他人とは思えねえんだよな、なんでだろう、って言ってください”と言われて、“なんでそんなこと言うの”ってなりましたよ(笑)。そうしたら“それは『鬼平犯科帳』ファンが喜ぶから”と」

自分は彦十役でありながら、忠吾を思い出させるセリフは、尾美にとって「少し重たいアドリブ」だったが、最終的には「ファンの方に喜んでいただけるならば、やらせていただきます」と受け入れた。

浅利とは事前にほとんど会話をしなかったという。「浅利さんも僕も、あえて近寄ろうとしなかった。お互いに余計なことを持ち込まない方がいいという、無言の了解みたいなものがあったのかもしれません」

●若い頃から温めてきた“スパイス”
吉右衛門主演シリーズでの長い経験は、今回の現場でも息づいていた。

「着物の着方から歩き方まで、吉右衛門さんは小道具を使うのがとてもうまくて、いろいろなことを知っていらっしゃったんです。具体的には、手ぬぐいの持ち方を教えていただきました。腰に下げるか、懐に入れるかで、職業が出せると。あとは“刀は重たいものだ”など、演技に説得力を出すための様々なことを教わって、時代劇を演じる際に生かされています」

また、母親が江戸っ子だったことも、彦十の江戸弁への取り組みを後押しした。「うちの母親が“猫八師匠はちゃんとした江戸弁だ”と言っていまして。
猫八師匠と現場で長く一緒にいたことで、自然と身についていったものもあると思います。去年の大河ドラマ『べらぼう』でも江戸弁を使った経験があって、それが今回も役に立ちました」

年老いた彦十役を演じるにあたって、尾美は形から丁寧に役を作っていった。

「京都の現場では自分でメイクをすることもあるんですよ。かつらと色を合わせるように白髪をちょっと塗ったり、眉毛に白を足したり。あとは膝を折る、ですかね。歩いたり立ったりする時に、じじいっぽくなるかなと。まぁ、それなりの年齢なんですけどね(笑)」

若い頃から、年齢を重ねた役を演じる時に使える“スパイス”を温めてきたという。

「昔から、お年寄りが新聞をめくる時や、お札を数える時に指を舐めたりする仕草など、そういうのをやってみたいとずっと思っていたんです。紙を渡された時にあえて離してみることで“この人、老眼なんだな”と思っていただける、そうした細かい調味料は振っていきたいと思っています」

「『密告』の中で若い時の彦十も演じているんですが、昔、草野球をやっていたので、石を投げるシーンで見事にいいところに当てられて…あれはうれしかったですね。草野球はもう引退したつもりなんですけど、まだいけるかなと一瞬思いました(笑)」

ちなみに、時代劇の撮影では下着にもこだわりがある。「ふんどしを履いてるのですが、いいですよ、すごく」と言い切る尾美。今回も現場ではふんどし持参だったというが、彦十は着流しの役柄のため、忠吾のようにめくれて見えるシーンがない。


「だから今回は、縫い目のないシームレスのパンツも試してみようかなと思って。黒いインナーの襟を切って、影で見えないように着るのは衣装さんに前から教わってたんですが、さらにアジャストしていこうと。ふんどしは一応持っていきますが、何かの時のために(笑)」と、次の撮影に向けて抜かりなく準備を進めているようだ。なお、自宅では妻から「物干しに干すのがちょっと恥ずかしい」と言われているとのこと。
○幸四郎に感じる「ゾクッとする瞬間」

中村吉右衛門さんと松本幸四郎という、二代の『鬼平犯科帳』を近くで見てきた尾美。その違いと共通点をこう語る。

「発声の仕方や間の取り方など、やはり“あれ?”っていう感覚のような、ゾクッとする瞬間があります。幸四郎さんと(市川)染五郎さんにも、同じようなものを感じました。歌舞伎俳優の方ならではの、細かいところでの間の取り方とか、声の落とし方とか、染五郎さんは本当にしっかりされていると思いましたね」

「関わりたくないなと思いながらも、ちょっと関わりたい…その葛藤です。面白いんですよ、この作品は。面白い作品はやはりやりたい。でも現場に行くと緊張させられちゃう(笑)」

さらに、『鬼平犯科帳』が長く愛される理由について、「ちゃんと人を描いてることではないでしょうか。
事象にスポットライトを当てるドラマもありますが、『鬼平犯科帳』はすごく人を掘り下げる。そういうところが皆さんに刺さるのではないかと思います」と分析する。

そして最後に、自分について笑いながらこう語った。

「気持ちはまだ彦十よりも、うさ忠(木村忠吾)寄りですね。全然成長してないですよ(笑)。知識はつきましたけど、性格ですね、これは」

渡邊玲子 映画配給会社、新聞社、WEB編集部勤務を経て、フリーランスの編集・ライターとして活動中。国内外で活躍する俳優・映画監督・クリエイターのインタビュー記事やレビュー、コラムを中心に、WEB、雑誌、劇場パンフレットなどで執筆するほか、書家として、映画タイトルや商品ロゴの筆文字デザインを手掛けている。イベントMC、ラジオ出演なども。 この著者の記事一覧はこちら
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