【前編のあらすじ】中部地方出身の安藤鈴太郎さん(仮名・30代)は、海辺の田舎町で魚屋を営む両親のもとに生まれた。両親も安藤さんも3歳下の妹も無口で、父方の伯母からは「あなたたちの家族関係は、何だか情が薄いよね」と言われた。やがて小学校に上がった安藤さんは、授業中じっとしていることができず、隣の子に話しかけたり、立ち歩いたり。成長とともに座っていられるようになり、大学へ入学。一人暮らしとアルバイトを始めたが、作業をしながら会話することができない自分に気づく。テレビで知った「ADHD」を疑って発達検査を受けると、精神科医から「境界知能」と告げられた――。
■就職して1カ月で退職
知能検査を受けた後、大学の同級生たちの姿が「境界知能」と告げられた自分とは異なり、眩しく映るようになってしまった安藤鈴太郎さんは、友人・知人たちを避けるようになり、卒業できる単位を取るだけのために大学にひっそり通う、“半引きこもり”のような状態になってしまった。
そして大学4年性になっても、就職活動に身が入らなかった。すると5月頃、大学の就職センターは、一向に就職先が決まらない安藤さんに、地元のIT企業を勧めた。
子どもの頃から「理系が不得意だった」と語っていた安藤さん。IT企業でSEとして働くよりも英語力を活かす仕事のほうが良かったのではないか。
「全教科の中では英語が一番得意だったので入った大学でしたが、いざ通ってみると、自分より英語ができる人はいっぱいいて、『僕なんて全然英語ができる方でもなんでもないな。もう英語はいいかな』ってぱたっと興味がなくなっちゃったんです」
採用先のIT企業では、入社後1~2年は東京の関連会社で研修を受けることになっていた。そのため安藤さんは、大学を卒業すると、東京に出て一人暮らしをしながら、関連会社での研修を受け始めた。
田舎育ちの安藤さんにとって、約1時間の通勤、他人との距離が近すぎる満員電車だけでも、かなりのストレスだった。
「同期の人たちは、当然ながらみんなIT関係の勉強をしてきた人ばかりでした。中国からの研修生もいました。先輩社員が先生になって、イチからITの基礎をみっちり教え込まれるのですが、まずは基礎の基礎である二進数(2進法)の計算を教わったり、パソコンの内部をいじったりという日もありました。毎回1日の終わりにテストがあるのですが、だんだんついていくのがしんどくなってきいきました。たぶん、精神的ストレスからくる多汗症だったんだと思うんですけど、1カ月経つ頃には手汗がすごくて、もう、『ちょっと無理かな』って思うようになっていました」
■社長と専務が来た
体調にも変化が現れ始めた。
「最初は軽いめまいでしたが、だんだん立っていても歩いていてもふらつくようになり、とても会社に行ける状態ではなくなっていました」
2度目の欠勤をした日、会社の社長と専務が安藤さんのアパートを訪れた。何もする気が起きなかった安藤さんは、目は覚めていたが、布団の中で横になっていた。
「社長と専務が来た日、僕はその場で自分の気持ちを正直に話しました。もう続けるのは難しいこと。そして、その理由の一つに発達障害のことがあるということ。退職したいという意向を話しました。すると社長は、半分怒っているような強い口調で言いました。『そんな大事なこと、なんで面接のときに言わなかったんだ』と。僕は何も言い返せず、ただ謝ることしかできませんでした」
こうして安藤さんの社会人生活は、1カ月を待たずに幕を下ろした。
■「東京でもう一回やり直してみたら?」
退職後、安藤さんは地元に戻った。
間もなくゴールデンウィークが始まり、実家には親戚が集まった。
「このとき、親戚に発達障害のことまで伝えたかどうかは覚えていないのですが、両親には学生時代に診断を受けたことは伝えました。父は、『病院に行けば何かしら診断されるのは当たり前、そんなことを気にしても意味がない。仕事は慣れ。慣れればできるようになる』というような言葉を繰り返すだけで、全く聞く耳を持たれず、『頑固で話にならない』と思ったと同時に、理解してもらえないことにがっかりました」
親戚たちからは、「このあたりじゃ仕事は少ない。これからどうするのか?」とたずねられる。まだ考えていなかった安藤さんが困っていると、東京都内から来ていた伯母(父親の姉)が言った。
「東京でもう一回やり直してみたら?」
「思ってもみない提案でした。もちろん不安はありました。でも、地元で閉塞感を感じながら生きていくよりは、何かが変わるような気がして、その提案を受けることにしました」
その場で両親を説得し、すぐに東京行きが決まる。
■アルバイトが続かない
1カ月くらいで伯母の家を出て一人暮らしを始めると、安藤さんは近所のスーパーの品出しのアルバイトを始めた。配属先は青果部で、バックヤードで商品を仕分けしたり、売り場に出て陳列したり、ラッピングしたりすることが主な仕事内容だった。
ところが3日目のこと。商品のラッピング作業中に、「それ、やり方が違うよ」と社員から注意を受けた。その社員は正しいやり方をやって見せてくれたが、安藤さんは同じようにはできなかった。
「頭の中では理解できるのですが、実際にやってみると同じようにできないのです。その日はなんとか取り繕ってやり過ごしましたが、帰宅してから『なぜこんな簡単なこともすぐにできないんだ』という自己嫌悪に襲われ、『次のシフトでもうまくできないのではないか』という不安が湧いてくるようになりました」
そして安藤さんは、そのままそのアルバイトを辞めてしまった。
「このままではいけない」と思いながら、次は別のスーパーのレジ打ちのアルバイトに応募し、即採用された。
しかし、初出勤日のことを考えると気が重くなり、とうとう初出勤日当日になってもアパートから出ることができなかった。
その次は清掃のアルバイトを始めた。
黙々と作業する時間が長く、安藤さんは「これなら続けられるかもしれない」と思った。
「仕事のやり方や細かいことで注意されるたびに、だんだんと気持ちが重くなっていきました。決定的だったのは、汚れた手を洗おうとした瞬間、『手を洗うのは後にしろ』と強めに言われたことでした。僕は内心『手を洗うくらいすぐ終わるんだからいいだろ』と毒づきながら、『すいません』と謝って手を洗うのは後にしました」
結局、清掃の仕事は3カ月ほどで辞めてしまった。
■止められた仕送り
それからというもの、安藤さんはアパートから出ずにライブチャットを見て過ごすようになった。父親からは電話があるたびに「ちゃんと仕事をしろ!」と怒られる。生活費は、親からの仕送りが頼りだった。
「親に申し訳ない。働かなければいけない……頭では分かっているのに、次の仕事を探す気力が湧きませんでした」
気づけばライブチャットに使った支払いで、クレジットカードの利用額が30万円近くにまで膨れ上がっていた。何とか親に頭を下げて支払ってもらったものの、呆れ果てた親からは「仕送りを止める」と言われてしまう。
「伯母からも、金使いの荒さを注意されました。情けない気持ちと申し訳なさでいっぱいでしたが、ただ一つだけ『普通に働ければそうしている』と言い返したかった。
困り果てた安藤さんは、ハローワークへ行き、これまでの経緯を話した。すると、障害者支援センターを紹介された。
そして障害者支援センターの担当者に、より詳しくこれまでのことを話すと、
「障害者雇用という働き方もありますよ」
と教えてくれた。
同時に、経済的なことも相談すると、
「生活保護を受けてはどうでしょう」
と提案された。
2011年冬。安藤さんは24歳の時に生活保護受給を認められた。扶養照会があったが、魚屋を営んでいた両親は不漁続きのため、とても援助ができる状況ではなかった。
■障害者雇用と一般雇用との差
同じ頃、倉庫内作業の仕事に障害者雇用で働き始めた。
初日は就労支援のサポーターが付き添ってくれたが、仕事中、安藤さんはサポーターの視線を感じ、恥ずかしくて仕方がなかった。しかし「何か作業で困ったことがあれば教えてください」との声掛けには心が軽くなった。
その一方で、他の作業員たちから「なんであの人、スーツの人と一緒にいるんだろう」と思われていそうな気がして落ち着かなかった。
安藤さんは、週に3、4日出勤する生活を送った。1年経ってもやはり周囲の視線が気になり、他の人とうまくコミュニケーションが取れない。「自分はおかしいのではないか?」と感じてしまうことは変わらなかった。
「障害者枠と一般枠の差を意識してしまい、頭から離れなくなっていたと思います。そして周囲に気を取られると、目の前の作業に集中できなくなるんです。勤務期間が長くなるにつれ、どう思われているかが気になり出して、自滅していきました」
結局、障害者雇用の仕事も1年3カ月ほどで辞めてしまった。
■不安定な生活ではモチベーション上がらず
現在38歳になった安藤さん。すでに生活保護を卒業し、同じ歳の女性とその息子と3人で暮らしている。
「7年間くらいは働かずに生活保護を利用しながら心療内科に通い、ときどき就労移行プログラムを受けたりしていたのですが、ある時、鏡を見たら『体型がやばいな』って……。『運動しないと健康にも悪いし、見栄えもよくないな』と思って、市の体育館で筋トレとランニングを始めたら、モチベーションが上がることに気づきました。再び障害者雇用で働き始めたところ、今一緒に暮らしている女性と知り合い、同居することになりました」
ケースワーカーに事情を話し、2021年春、33歳の時に生活保護を卒業した。
「生活保護には救われました。やっぱり、安定した収入があるのとないのとでは精神的な落ち着きが違いますよね。多少、病院にかかる時には他人の目が気になりましたが、定期的にお金が入ってくるだけでもありがたいなと思いました」
■31歳からの日記も再生のきっかけ
現在も安藤さんは、他人の目が気になりすぎることを克服できたわけでも、一度に複数のことができるようになったわけでもない。だが、31歳頃から日記をつけ始め、今年3月からその日記をもとにnoteを書くことで、過去を振り返り、自分の得意や不得意を知り、その対策を考えられるようになった。そうした積み重ねが功を奏し、働く時間を長くしていくことができるようになっていった。
こうした自分と向き合うための落ち着いた時間が持てたのも、生活保護で安定した生活が送れたからに他ならない。
これまで本連載で7人の生活保護経験者の事例を紹介してきたが、どの人も生活保護の存在に救われ、一度は詰みかけた人生の「再スタート」が切れた。
安藤さんも、「生活保護」がなければ精神的に安定した生活を送ることができず、安定した生活が送れなければ、「自分を改革しよう」というモチベーションが湧き上がってくることもなかっただろう。
「生活保護」は、利用したことがない人にとっては、自分とは無関係の遠い世界のもののように感じられる。筆者も、一度利用したら2度と戻れないのではないかという恐怖を感じていた。しかし実際に利用し、卒業した人は存在する。自分とは無関係の遠い世界のもののように感じるのは、その実態を捉え切れていないからに他ならない。
賃金は上がらず、物価が異常に高騰する昨今、生活が困窮する人の増加が予想される。
生活保護とはどんなものなのか。どんな人が利用し、どんな生活をして、どんな人が卒業し、再び社会に戻っていくのか。
生活保護の実態を明確にすることで、生活保護に対する批判や恐怖を減らし、救われる人や機会を増やしていきたい。
----------
旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。
----------
(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)







![NHKラジオ ラジオビジネス英語 2024年 9月号 [雑誌] (NHKテキスト)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Ku32P5LhL._SL500_.jpg)
