トランプ大統領は多数のデマを批判されているにもかかわらず、根強い人気がある。それはなぜか。
岩手県立大学総合政策学部准教授の杉谷和哉さんは「物語(ナラティヴ)は社会をいいほうへ変えるためにも使えるが、トランプ大統領のように使うこともできるので注意が必要だ」という――。
※本稿は、杉谷和哉『エビデンスの罠 数字と物語に囚われない思考法』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
■数字が感じさせる「冷たさ」「酷薄さ」
「一人の死は悲劇だが、数百人の死は統計に過ぎない」という有名な言葉がある。
個々人の人生が途絶え、その物語が終わるという悲劇に我々は思いを馳(は)せることができるものの、その数が膨大になった時には、それらは表情を持たない統計数字の羅列になってしまうことをうまく言い表したフレーズだ。この言葉を発した人物については諸説あるのだが、独裁者や虐殺者の冷酷さを表す言葉として今日でもよく見かける。
数値が有するこの冷たさ、酷薄さを踏まえ、個々人の「語り」に注目して、その複雑さを取り出すアプローチをとった村上靖彦の『客観性の落とし穴』がそうであったように、「エビデンス」にしばしば対置されるのが「ナラティヴ」である。ここで言う「ナラティヴ」は主として個々人の体験に依拠しており、ある種のストーリーを有している。個々人の経験は明確な情報にはならないかもしれないが、そこには確かに顔の見える個々人の息遣いがある。
もちろん、幅広い人間に対処しなければならない公共政策は、マクロな統計数字に則る必要がある。個々の状況に応じた政策の機動的な対応は膨大なコストが必要で、現場への負担が限りなく大きくなるからである。時折、学会などで個々のケーススタディとして、そうした実践が報告されることがあるが、それらの多くは全国的な展開に適していない。
■政策そのものがある種のナラティブ
ただし、障害者政策のように、個別ニーズを把握しなければならない政策領域も現実にあり、ナラティヴが政策において無用であるわけでは決してない。

それどころか、政策そのものがある種のストーリーラインを有したナラティヴであると見る立場すらある。単純化して言えば政策とは、ある特定の問題を解決するための手立てを指している。政策形成にあたっては、客観的なデータや根拠、政策の因果関係である「エビデンス」を活用した分析が必要とされているが、それを社会において実装する際に必要になるのがナラティヴである。
たとえば、富裕層への減税が、結果として経済全体を改善させ、富裕層でない社会層の人々も潤うという発想がある。「トリクルダウン理論」として知られるこの理屈は、シャンパンタワーに喩えられ、上のグラスに水を注げば、下に置いてあるグラスにも行き渡るというあらすじで描かれる。
■トリクルダウンが受け入れられた理由
トリクルダウンについてはすでに多くの批判がある。一部の実証研究では逆に、貧困層の所得を向上させるほうが経済全体を上向きにさせるとの指摘があり、その有効性には疑問符がついている(※1)。だが、トリクルダウンは話としては極めてわかりやすく、因果関係の喩えも巧みなため、多くの人々に受け入れられた。このように、政策が持つナラティヴ的な側面は、人々にイメージを喚起させ、その支持の調達に資するのだ(※2)。
なお、トリクルダウンの提示するストーリーに対しては、「上のグラスは底なしに大きく、いつまで経っても下に滴り落ちない」などといった、相手のストーリーに則ったうえでの反駁がありうる。実証的な検証はもちろん必要だが、わかりやすいストーリーに対して、別のわかりやすいストーリーを打ち出して、相手側のナラティヴを打ち消すといった方策もありうる。こう考えれば、政策をめぐる支持派、不支持派の争いは、エビデンスのみならず、ナラティヴの戦いだとも言えるのである。

このようにナラティヴは、政策とも分かちがたく結びついており、我々が物事を理解するうえで無くてはならないものだと言える。

※1 Akinci(2017)

※2 Fischer(2024:111-113)
■社会を変えるためにはストーリーが必要
また、ナラティヴは社会を変えるうえで極めて重要な働きを有していることも強調しておかなければならない。
たとえば、米国の公民権活動家のローザ・パークスが1955年、黒人差別の激しい時代において、バスの白人専用の席に座って席を譲らなかったというエピソードがある。このエピソードは、間違った差別的なルールに対して不服従を貫き、社会を変える機運をつくったものとして、米国のみならず多くの世界の抵抗者たちへ勇気を与えるナラティヴとして語り継がれている。一人の黒人女性が、当時は当たり前だとされていた規範やルールに異を唱えたという一連のストーリーは、多くの人にとってわかりやすく、受け入れられやすいものだ。
ナラティヴとは元来、個々人の語りであるとされてきた。そうした語りは、個々人の経験を中核としたものであるから、時に支離滅裂なものでもありうる。当然、個々人の経験や想いはかけがえのないもので、その語りに何の意味もないということは決してない。だが、人口に膾炙し、多くの人々に影響を与えるナラティヴたりうるためには、ある程度、首尾一貫したストーリーラインが必要とされており、それを備えたものが、社会の変革に貢献する。
■陰謀論や差別を広める危険な力にもなる
ところで、ローザ・パークスが登場する物語は、反差別、人種主義への批判といった要素を含んだものであるが、逆に、差別を煽り、事実を捻じ曲げて伝えて極端な政治勢力に支持を集めさせるようなものもあることを指摘しておかなければならない。
文学者のジョナサン・ゴットシャルは、こうした事態に警鐘を鳴らす(※3)。
人々を動かす力としてのストーリーに着目するゴットシャルは次のように言う。

科学的根拠や統計的な数字だけでは人々の心は動かない。人々は昔からストーリーに愛着を抱き、ストーリーによって世界を解釈してきた。社会を変えるような大きなうねりを生み出すには、ストーリーの力が必要である、と。この立場は本書とも同じである。
だからこそ、ストーリーが危険なものになりうるとゴットシャルは続ける。巷(ちまた)に蔓延る陰謀論に目をやれば、その危うさはすぐにわかるだろう。ある特定の民族を差別するレイシズムもまた、このようなストーリーによって伝播する。

※3 ゴットシャル(2022)
■ルワンダのフツ族によるツチ族の虐殺
ゴットシャルは、ストーリーがよりよい社会のための連帯の兆しになると同時に、それが虐殺にまでつながる事態を招くと論じる(※4)。
ゴットシャルが挙げている事例は、かつてルワンダで起きたフツ族によるツチ族の虐殺である。ここにおいては、ツチ族はフツ族を脅かす害虫として描かれ、それを駆除しなければならないという宣伝がラジオを通じてなされ、悲惨な大虐殺につながった。
巷に溢れる陰謀論にも同様の構造を見出すゴットシャルは、その威力に対する注意を喚起する。陰謀論もまた、邪悪な勢力によって社会が支配されていると想定するが、これもまた多くの人々にとって受け入れられやすいストーリーである。

はっきりした物語の筋、わかりやすい敵役を備えた陰謀論は、「そういえば私の周りにも似たような話が……」、「あの政治家のバックにも怪しい勢力が……」、といった形で、個々人の語るナラティヴへと落とし込まれ、人口に膾炙し、多くの人々に受容されるのである。
なお、敵対する相手を「害虫」だとか「病原菌」などとし、相手が我々の生活や生存を脅かす存在であると規定して攻撃を加える姿勢は、レイシズムに依拠する政治勢力の常套(じょうとう)手段であり、ナチス・ドイツをはじめとした多くの事例において見られた事象であることも明記しておかねばならない。

※4 ゴットシャル(2022:175-181)
■フェイク時代のナラティヴ
二回目の大統領選に出馬したドナルド・トランプが選挙戦の最中、「移民が隣人のペットを食べている」などという発言をして批判されたが、意識的にせよ無意識的にせよ、トランプはナラティヴの力を最大限に活用して選挙戦を戦った。具体的なストーリーを伴う、個々人から語られる経験に基づいたナラティヴは、人々に想像力を喚起させる。それは時に人々の連帯を育み、時に人々の悪意や憎悪をたきつける。
フェイクニュースが溢れる時代において、ナラティヴが持つ力や意義をエビデンスに対比させるにあたっては、こうした事情を鑑みる必要がある。
フェイクに彩られたナラティヴを我々は簡単に受け入れるわけにはいかない。だが、参政党の例を見ればわかるように、「エビデンス」を掲げる勢力もまた、そこに嘘を織り交ぜている時がある。ナラティヴもエビデンスも簡単に信用してはならない……いかにもありきたりな結論だが、我々はナラティヴとエビデンスを駆使して他者を意のままに操ろうとする力に囲まれていることを、認識しておくに越したことはなさそうだ。

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杉谷 和哉(すぎたに・かずや)

岩手県立大学総合政策学部准教授

1990年、大阪府生まれ。専門は公共政策学。京都府立大学公共政策学部卒業。

京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。博士(人間・環境学)。京都文教大学非常勤講師などを経て現職。

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(岩手県立大学総合政策学部准教授 杉谷 和哉)
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