昔ながらのパッケージでロングセラーのお菓子がある。紫色のパッケージに黄色いボンタンが描かれたボンタンアメである。
ボンタンアメを製造しているのは明治36年に菓子問屋として創業した鹿児島のセイカ食品株式会社。ボンタンアメが登場したのは大正15年だが、その誕生には実に様々な面白いエピソードがある。
順調だった水あめの卸商売に陰りが出てきた時、工場の職員が水あめをハサミで切り遊んでいるのを見たのがヒントとなってボンタンアメは誕生した。水あめともち菓子をベースにひと口に食べられる形にして当時おしゃれだったキャラメルと同じタテ詰めに。箱の図案は大阪の専門家に頼んだ。ちょっと田舎っぽいという評判もあったが南国らしい色彩でいいかも、と採用。
宣伝の売り込みもすごかった。チンドン屋を編成して全国にくり出したり、昭和3年には、払下げの軍用機を1機5千円で買って空からボンタンアメをまこうと計画。実際にはお金の都合でこの計画は実現しなかったそうだが、「空からボンタンアメが撒かれる」と事前にマスコミが騒いだために「飛行機を飛ばしたのと同じ効果があった」と当時の社長は笑い飛ばしたとか。
そして、昭和6年にボンタンアメの姉妹品として発売されたのが兵六餅。兵六餅の方が先の発売かと思っている人も多いだろうが実は兵六餅は弟分なのである。
こちらの方も実に波乱万丈で面白い。
子どもの頃から知っているお菓子にこんなたくさんの物語があったとは驚きである。ちなみに、セイカ食品は鹿児島名物、名物かき氷の練乳かけにフルーツがいっぱい入った「南国白くま」の製造元でもある。何だかすごいぞ! セイカ食品。
ボンタンアメを製造しているのは明治36年に菓子問屋として創業した鹿児島のセイカ食品株式会社。ボンタンアメが登場したのは大正15年だが、その誕生には実に様々な面白いエピソードがある。
順調だった水あめの卸商売に陰りが出てきた時、工場の職員が水あめをハサミで切り遊んでいるのを見たのがヒントとなってボンタンアメは誕生した。水あめともち菓子をベースにひと口に食べられる形にして当時おしゃれだったキャラメルと同じタテ詰めに。箱の図案は大阪の専門家に頼んだ。ちょっと田舎っぽいという評判もあったが南国らしい色彩でいいかも、と採用。
宣伝の売り込みもすごかった。チンドン屋を編成して全国にくり出したり、昭和3年には、払下げの軍用機を1機5千円で買って空からボンタンアメをまこうと計画。実際にはお金の都合でこの計画は実現しなかったそうだが、「空からボンタンアメが撒かれる」と事前にマスコミが騒いだために「飛行機を飛ばしたのと同じ効果があった」と当時の社長は笑い飛ばしたとか。
そして、昭和6年にボンタンアメの姉妹品として発売されたのが兵六餅。兵六餅の方が先の発売かと思っている人も多いだろうが実は兵六餅は弟分なのである。
こちらの方も実に波乱万丈で面白い。
戦争の痛手から再び商売を開始しようとした昭和24年。当時は米軍政下で士気を鼓舞する映画、遊びも禁じられている時代。発売後に進駐軍から販売禁止などといわれては元も子もなくなると、「兵六餅」を持って担当部署に伺いをたてにいったところ、薩摩武士である兵六のふんどし姿のパッケージが問題に。米軍担当者からは「おしりの丸出しがよくないパンツをはかせろ。その条件で許可する。」などと言われてしまったが、セイカ食品はがんばった。「これはパンツをしているのだ。
“ふんどし”をしている。“ふんどし”はジャパニーズパンツである。隠すべき所はちゃんと被ってある」と何とか相手を説き伏せ発売にこぎつけたのだそうだ。
子どもの頃から知っているお菓子にこんなたくさんの物語があったとは驚きである。ちなみに、セイカ食品は鹿児島名物、名物かき氷の練乳かけにフルーツがいっぱい入った「南国白くま」の製造元でもある。何だかすごいぞ! セイカ食品。
(こや)