仕事をしていても、転職を考えていても、SNSを眺めていても、その感覚がふと頭をよぎることがある。
今の若い世代は、他者と自分を比較しやすい環境に置かれている。
こうした意識は、成長を促す原動力になる一方で、「まだ何者にもなれていない」という感覚を生み出すこともある。
もし、その競争から降りたらどうなるのだろう。もし、積み上げてきたものが崩れた場合、自分には何が残るのだろうか。
全部うまくいかなくなった人が、“作ること”に戻った
イギリスのクリエイティブ業界向けメディア「Creative Boom」が紹介したRob Draper(ロブ・ドレイパー)氏の人生は、その問いを考えさせる。彼はキャリアや経済的な基盤を失い、人生が大きく揺らぐ経験をした。多くの人なら、「もう一度成功しなければ」と考えるかもしれない。しかし彼が戻ったのは、もっと静かな場所だった。
それは「ひたすら作ること」だった。捨てられたコーヒーカップや廃材など、誰かにとっては不要になったものを使いながら、彼は作品を作り始めた。
興味深いのは、それが成功のためではなかったことだ。有名になるためでもなければ、キャリアを立て直すためでもない。
人生が崩れても、残る感覚があった。だから手を動かした。この話が示しているのは、サクセスストーリーではない。むしろ、「全部なくなったあと、何が残るのか」という話だ。
私たちは、“成果”で自分を測りすぎているのかもしれない
今の社会には、自分の価値を測る指標があふれている。年収、フォロワー数、肩書き、評価、資格、成果。それらはわかりやすく、比較しやすい。だからこそ、人は無意識のうちに、「どれだけ結果を出したか」で自分を判断するようになる。SNSは、その感覚をさらに強める。誰かの成功は可視化される一方で、迷っている時間や失敗している時間、何も生み出せていない時間は見えにくい。その結果、「役に立っているか」「成長しているか」「市場価値があるか」といった物差しで、自分自身を測り続けるようになる。
しかし本来、人の価値はそれだけで決まるものではないはずだ。
興味深いのは、「何者かになりたい」という感覚そのものが、現代特有のものでもあることだ。かつては、地域や家族、職場といった共同体の中で、自分の役割が比較的明確だった。良い親になること、家族を支えること、地域で生きること。そのこと自体が、自分の存在意義につながる側面もあった。
しかし現代では、「自分は何者なのか」を自分自身で証明することが求められる。どんな仕事をしているのか。どんな実績があるのか。どんな価値を生み出しているのか。SNSはその傾向をさらに強める。
つまり私たちは今、「生きること」だけでなく、「自分を証明すること」にも多くのエネルギーを使っているのかもしれない。
だからこそ、「何者にもなれていない」という不安は、単なるキャリアの問題ではない。それは、自分の存在価値そのものへの不安にもつながりやすい。
ドレイパー氏の物語が響くのは、そのためだ。彼の話は、「成功したアーティストの話」ではない。むしろ、何かを証明できなくなったあと、それでも残るものはあるのかという問いを私たちに投げかけている。
「好き」は、人生が壊れたあとに残る
自己啓発の世界では、「好きなことを仕事にしよう」という言葉がよく語られる。しかしドレイパー氏の話は、少し違う。彼にとって「作ること」は武器ではなかった。成功戦略でもなかった。むしろ、「それしか残っていなかった」という感覚に近い。だからこそ、ドレイパー氏の姿は示唆的だ。人生が順調なとき、人は多くのものを持っている。肩書き、収入、評価、人間関係。
意味があるから続けるのではない。役に立つから続けるのでもない。ただ気づけばやってしまう。そんな感覚が、人を支えることもある。
もしかすると「好き」とは、人生を前に進めるための武器ではなく、人生が止まりそうになったときに残る感覚なのかもしれない。
それは特別な才能や情熱である必要もない。散歩をすること、本を読むこと、写真を撮ること、料理をすること。誰にも評価されなくても続けてしまうものの中に、自分を支える感覚が残っていることもある。
「ちゃんと成功しなくても、生きていていい」
AIによって仕事は変わり続ける。キャリアの正解も見えにくくなっている。どんなスキルが必要になるのか。だからこそ今、人は「役に立つこと」に価値を求めやすくなっている。しかし、人は本当に「役に立つこと」だけで生きているのだろうか。もし肩書きを失った場合、もし仕事を失った場合、もし成功できなかった場合、自分には何が残るのだろうか。
ドレイパー氏の物語が教えてくれるのは、「頑張れば成功する」という話ではない。むしろ、「全部うまくいかなくなっても、残るものがある」という話だ。何者かになれなくても、思い描いた人生にならなくても、それでも人は自分の感覚を頼りにもう一度何かを作り始めることができる。
私たちはつい、「何を成し遂げたか」で人生を測ろうとする。しかし本当に大切なのは、「何が残ったか」なのかもしれない。
もし今、「このままでいいのだろうか」という不安を抱えているとしても、すぐに答えを見つける必要はない。すべてうまくいかなくなったあとにも残るものがあるとしたら、それは肩書きや成果ではなく、自分だけの感覚なのかもしれない。
文:中井 千尋(Livit)








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