◆社会、その前提になった時間を見つめ直す
人類はいつどうやって言葉を話すようになったのか。この難問に真正面から挑む。
著者スティーヴン・ミズン氏は英国の考古学者。類人猿から現生人類に至るホモ属の進化を見渡し、遺伝学、言語学、心理学、神経科学、動物行動学、コンピュータ科学、…の知見を縦横に参照し、言語の発展の具体像を多面的に考察していく。
基礎になるのは化石人類学だ。チンパンジーとヒトの共通祖先(LCA、八〇〇万年前~)から、アウストラロピテクスなど猿人(四〇〇万年前~)、ホモ・ハビリス(三〇〇万年前~)、ホモ・エレクトス(二〇〇万年前~)、ホモ・ハイデルベルゲンシス(六○万年前~)、ネアンデルタール人(三五万年前~五万年前)、ホモ・サピエンス(三五万年前~)、などが分岐した。骨格が進化し脳の容積も増えていった。最近は遺伝子の解明も進み、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの交雑もあったことがわかっている。
著者は、現生人類の言語を「フルモダン言語」とよぶ。ネアンデルタール人の言語がこれと同じだったかどうかよくわからない。それ以前のさまざまなヒト属は、もっと単純な言語を用いていた可能性が高い。
言語はいつ始まったのか。
チンパンジーの鳴き声は何通りかあるという。
石器も言語と並行する。原石に打撃を反復し剥片をつくる。この技術が出現して、百万年あまり変化しなかった。やがて打撃をもっと高度に組み合わせる技術が生まれる。これもずっと変化しなかった。行動を組み立てる知能はすぐに発達しないのだ。
二足歩行の影響はどうか。骨盤が狭まり胎児が未成熟で出産する。そのあと育児されながら脳が徐々に発達。言語を習得しやすい環境だ。
ネアンデルタール人は現生人類と脳の大きさがほぼ同じ。視覚を司(つかさど)る後頭部が大きい。現生人類はそこが小さく、代わりに言語を担う部分が大きくなっている。言語はブローカ野やウェルニッケ野で担われるとされたが、実は小脳や大脳全体が深く関係しているらしい。四〇万年前、人類は火を使い始めた。知力がそれだけ高まった証拠である。
世界中の言語はみな同じ構造なのか。
言語は、身体の動きである。パターン化されていて、意味がある。意味とは、頭の中の観念のこと。人間は言語を通じてさまざまな観念を抱き、思考し、それを伝達し共有して集団で行動する。社会は、意味(観念)を前提にしなければ理解できない。でも意味は目に見えない。人びとが死に絶えると跡形もなくなる。そして言語も消えてなくなる。
著者ミズン氏は考古学者だからこそ、消えてしまった化石人類の言語の復元に情熱を燃やす。手がかりとなりそうなピースを残らずつなぎ合わせる。石器は残るが木の棒や草のカゴは残らない。遺跡は残るが人びとの生活は残らない。それを知るのに、考古学では不十分だとわかっている。だからふだんから隣接学問をくまなく渉猟している。本書にはその成果がぎっしり詰まっている。
では本書は、数百万年来のヒト属の言語をどこまで明らかにしたか。
八〇〇万年前のLCAは、言語でなく鳴き声を使っていた。
六〇万年前頃に登場したホモ・ハイデルベルゲンシスは脳がなお大きく、語彙(ごい)も増えた。火を使用し、石器の技術も複雑化した。名詞や動詞や、文法語も用いられたろう。
ネアンデルタール人は槍(やり)を作ったが弓矢はなかった。言語は抽象語やメタファーがなかったろう。
一五万年前頃から装身具、のち線刻が現れ、抽象概念が生まれたとわかる。六万年前にはホモ・サピエンスの集団が、アフリカから北に進出した。一万年前に農業が始まる。
この長い期間は、ヒト属の活動や言語が脳を発達させ、脳が発達してヒト属の活動や言語が豊かになる過程だった。人間社会がどれだけの前提の上に築かれているか。それを謙虚に、かつ正確に見つめ直そう。そんな提案が本書にこめられている。
【書き手】
橋爪 大三郎
社会学者。1948年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。執筆活動を経て、1989年より東工大に勤務。現在、東京工業大学名誉教授。著書に『仏教の言説戦略』(勁草書房)、『世界がわかる宗教社会学入門』(ちくま文庫)、『はじめての構造主義』(講談社現代新書)、『社会の不思議』(朝日出版社)など多数。近著に『裁判員の教科書』(ミネルヴァ書房)、『はじめての言語ゲーム』(講談社)がある。
【初出メディア】
毎日新聞 2026年6月13日
【書誌情報】
言語の人類史: 言葉の進化の謎を解く著者:スティーヴン・ミズン
翻訳:岩坂 彰
出版社:河出書房新社
装丁:単行本(544ページ)
発売日:2026-03-27
ISBN-10:4309231837
ISBN-13:978-4309231839