◾️孫正義に「住友銀行だけは付き合わないでください」と言わせたもの
孫正義と住友銀行の逸話がある。
出典は、大下英治『論語と経営 SBI北尾吉孝 上 激闘篇』(エムディエヌコーポレーション、2022年)である。
また、この部分はZUU onlineにも同書からの抜粋として掲載されている。
北尾吉孝がソフトバンクに入った直後、孫正義は北尾にこう言った。
「住友銀行だけは、付き合わないでください」
理由を聞くと、住友銀行のある支店長に、しかも二代にわたって「在日の韓国人とは付き合えない」と言われたことがある、という話だった。
これは融資条件の話ではない。
担保がないとか、決算書が弱いとか、事業計画が粗いとか、そういう話ではない。
入口で人間を見て、商売の相手として認めないという話である。
孫正義のような人間が、そういうことを忘れるはずがない。
普通の日本人なら、こういうとき「まあ昔のことですから」と言う。
それはそれで美徳である。
しかし、商売で本当に怖い人間は、たいてい昔のことを忘れない。
誰が金を貸したか。
誰が門前払いしたか。
誰が助けたか。
誰が笑ったか。
誰が裏切ったか。
商売人は、こういうことを全部覚えている。
藤田田の『ユダヤの商法』が面白いのも、結局はそこだと思う。
あの本の民族論をそのまま今の時代に持ち出すと色々面倒なことになるが、商売人は記憶力で勝つ、という感覚だけはかなり正しい。
◾️北尾吉孝は、そこで孫正義を止めた
この逸話で一番面白いのは、孫正義よりも北尾吉孝かもしれない。
北尾は、住友銀行を全否定する孫正義に対して、たった一人や二人の支店長がそう言ったからといって、住友銀行全体を否定するのはおかしい、という趣旨のことを言った。
そういうところと付き合えないのなら、日本一、世界一になるなどと言うのはやめた方がいい、とも言った。
かなり強い。
普通、入社直後に孫正義にこんなことは言えない。
北尾はそうしなかった。
孫正義の怒りを否定しない。
しかし、その怒りで経営判断を狭めるなと言った。
これは非常に実務家らしい。
怒りは正しい。
しかし、怒りだけでは会社は大きくならない。
屈辱は忘れるな。
しかし、使えるものは使え。
これが北尾吉孝の言っていることだと思う。
翌日、孫正義は考え直し、「北やん、住友銀行のしかるべき人に会いたい」と言った。北尾は住友銀行の営業部門トップに連絡し、ソフトバンクと住友銀行の取引が始まった。
ここで孫正義のすごさも出る。
頑固だが、意固地ではない。
怒るが、修正できる。
恨むが、使う。
これができる経営者は強い。
◾️孫正義は住友銀行を「許した」のではなく「使った」
この話を「孫正義は最後には住友銀行を許した」という美談にすると、少し違うと思う。
許したのではない。
使ったのである。
ここを間違えてはいけない。
普通の人間は、嫌いな相手とは取引しない。
少し賢い人間は、嫌いな気持ちを忘れて取引する。
もっと商売ができる人間は、嫌いな気持ちを覚えたまま取引する。
感情の帳簿と、金の帳簿を分けているのである。
「あのとき、あいつはこう言った」という帳簿は閉じない。
しかし、いま目の前にある金融機能、信用力、ネットワークは使う。
これができない人間は、いつまでも身内だけで商売をすることになる。
身内だけで商売をすると、最初は楽しい。
ウリ、社中協力、同郷、同窓、同胞。
全部大事である。
しかし、会社を大きくするときには、最後は嫌いな相手とも取引しなければならない。
ただし、忘れてはいけない。
忘れたらただの人のいい馬鹿である。
忘れずに、使う。
これが孫正義の商法だと思う。
◾️東大・ハーバードには仲間はいらない
ここで、韓国人と慶應卒の話になる。
韓国人にとっての「ウリ」、慶應卒にとっての「社中協力」は、かなり似ている。
どちらも、単なる仲良しクラブではない。
弱いからつるむのである。
東大・ハーバードには仲間はいらない。
自分が優秀だからである。
東大・ハーバードまで行く人間は、そもそも一人で殴り合える。履歴書がそれ自体で武器だし、どこに行っても「この人はまあ大丈夫だろう」という扱いを受ける。そういう人間にとって、仲間とは人生を豊かにするものであって、生存に必要なものではない。
ところが、慶應卒は違う。
慶應卒というのは、学歴の三回戦ボクサーである。
弱くはない。
しかし、世界王者ではない。
東大・ハーバードのような絶対的な看板ではない。
だから、三田会が必要になる。
社中協力が必要になる。
後輩を引っ張り、先輩に頼り、同級生を使い、大事な情報を流出させたり、恩を仇で返した裏切り者の情報を秒速で共有する。
雛にはとても多くの仲間が必要である。
自分一人では死んでしまうからである。
弱いから仲間が必要なのだ。
韓国人も同じである。
日本社会の中で、在日韓国人はずっと弱い立場に置かれてきた。
だから、誰が助けてくれたかを覚える。
誰が差別したかも覚える。
誰が商売に乗ってくれたかを覚える。
誰が逃げたかも覚える。
これは執念深いというより、生存戦略である。
強者は忘れても生きていける。
弱者は忘れると死ぬ。
だから、韓国人と慶應卒は裏切り者を忘れない。
忘れないことによって、共同体を守っている。
◾️「裏切り者を許さない」と「取引しない」は違う
ただし、ここで大事なのは、「裏切り者を許さない」と「二度と取引しない」は同じではないということだ。
孫正義の住友銀行の話は、まさにそこを教えている。
住友銀行の支店長に差別的なことを言われた。
それは忘れない。
しかし、北尾吉孝に言われて、住友銀行と取引する。
これは矛盾ではない。
むしろ商売としては正しい。
感情としては許さない。
実務としては使う。
共同体の記憶としては残す。
しかし、会社の成長に必要なら相手の力も利用する。
この二重帳簿を持てるかどうかが、商売人としての分かれ目である。
私たちは、つい「好きな人とだけ仕事したい」と思う。
しかし、商売はそれだけでは大きくならない。
嫌いな相手を使う。
かつて自分を軽く見た相手の力を、自分の事業に組み込む。
これができると、商売は一段大きくなる。
◾️住友銀行逸話の本質
だから、この逸話の本質は「孫正義は執念深い」という話ではない。
執念深いのは当然である。
在日韓国人として、起業家として、若い頃から差別や軽視を受けてきた人間が、執念深くないわけがない。
重要なのは、執念を経営判断に変換したことである。
怒りを持つ。
屈辱を覚える。
しかし、それをただの復讐にしない。
会社を大きくするための判断材料にする。
藤田田の『ユダヤの商法』風に言えば、屈辱もまた資本である。
ただし、銀行口座に入っている資本ではない。
記憶の中にある資本である。
それをどう運用するかで、人間の商売の大きさが決まる。
孫正義は、住友銀行を忘れなかった。
しかし、最後には住友銀行を使った。
そこに、この話の一番面白いところがある。
<なお、本稿で扱った住友銀行の逸話は、大下英治『論語と経営 SBI北尾吉孝 上 激闘篇』(エムディエヌコーポレーション、2022年)およびZUU online掲載の同書抜粋に基づいている。>
文:林直人
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