フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。
リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○時代を反映した新しい書体

1948年 (昭和23) 6月に石井茂吉が東京印書館の借棟を出たのには、手ぜまになっていたことのほかにも理由があった。茂吉は、1947年 (昭和22) はじめごろから、写真植字機の製造再開と並行して、新しい明朝体の原字制作に着手していたのだ。

工場に出かけない日はもっぱら大塚の自宅でペンをとり、原字制作にいそしむことが多くなっていた。だからこそ、自宅に電話のなかったこの当時、成増の東京印書館工場とのひんぱんな連絡に不都合を感じており、すこしでも自宅からの連絡に便利なように、巣鴨新田への移転を経て、大塚に写真植字機研究所を復帰させたのだった。[注1]

茂吉はなぜ、新しい明朝体の原字制作に取り組んでいたのだろうか。

それは、戦前の1933年 (昭和8) に制作した明朝体 (のちの中明朝体/石井中明朝オールドスタイル小がな MM-A-OKS) は18級 (4.5mm角) ぐらいまでの大きさで使うぶんにはよかったが、9級 (2.25mm角) や10級 (2.5mm角) などの小さな文字ではオフセット印刷した際につぶれがちだったからだ。

活版印刷でもちいられる活字は、凸状の活字にインキをつけて圧をかけて印刷した際に線が太ることを見越して、細めにつくられていた。茂吉が戦前につくった書体は、明朝体にしてもゴシック体にしても、活字の書体に比べれば細かったのだが、当時のオフセット印刷にとっては肉太だった。

というのも戦後、端物 (ペラともいう。チラシなどの1枚もの) にオフセット印刷が使われることが増えたが、多くの場合、紙は仙花紙 (古紙などを原料にした粗悪なザラ紙) 、インキも質の悪いものを使用していた。だから写植の書体もつぶれ気味で、当時のオフセット印刷向きとはいえず、より細い書体が必要とされたのである。


急ぎ求められているのは、細い明朝体だ。茂吉は、この制作にのめり込んだ。彼がつくろうとしたのは、戦前の明朝体を単に細くしたものではなかった。戦前の明朝体が格調の高さを重んじて制作したものならば、これから制作する書体は、戦後生まれ変わった日本の世相にふさわしい、優雅な繊細さを重んじた明るい書体でなければならないと考えた。

茂吉はこの細い明朝体の制作に精魂をかたむけて取り組み、3年以上の歳月を費やした。そして1951年 (昭和26) 、ついに「細明朝体」が完成したのである (のちの石井細明朝ニュースタイル小がな LM-NKS) 。[注2] なお、細明朝体の登場にともない、それまで「明朝体」と呼ばれていた1933年制作の書体は、「中明朝体」と名称を変更した。[注3]

○活字が1本もない印刷工場

茂吉がこの細明朝体を完成させるのを、待ちわびていた人物がいた。平凡社および東京印書館の創設者、下中彌三郎である。

戦後最初に写真植字機を注文した会社が平凡社だったことは、本連載第82回 で述べたとおりだ。1946年 (昭和21) 7月、下中が新たに設立する印刷会社・東京印書館の準備を任されていた和田栄吉が茂吉のもとを訪ね、一気に5台の注文をおこなった。

そして1948年 (昭和23) 2月を皮切りに、東京印書館にはこの年だけでA型写真植字機が3台導入された。
これに先駆け、1947年 (昭和22) に東京印書館を立ち上げた際、下中は社員を集めてこう語った。

〈君らは職人であってはならない。技師として、こん後仕事をして貰いたい〉[注4]

下中はこの工場を「活字のない印刷工場」にしようと考えていた。写真植字機は画期的な発明であり、30年以上前に発明されたにもかかわらず、まだ普及していなかった。下中はその理由を、従来の活版工が生活をおびやかされることを恐れ、写植の普及をはばんでいたことも一因であるとおもっていた。

だから彼は、戦後あたらしく立ち上げる東京印書館を写植専門工場として出発させようと決意した。そうすれば、10年後には日本の印刷界における写植の割合は5割に達するだろう、と考えたのである。

下中は当時、東京印書館の工場を間借りして写植機の再組み立てをおこなっていた茂吉とも相談し、〈われわれの手で作り上あげようじゃないか。こん後の印刷術の隆盛は、写植によって行なえる (後略) 〉と語った。[注5]
○写真植字による初の本格的な出版物

東京印書館はさっそく写真植字機をもちいて組版をおこない、書籍を制作した。1948年 (昭和23) 11月から1949年 (昭和24) 10月にかけて全10巻が刊行された『社会科事典』(齋藤道太郎 編集兼発行、平凡社刊) である。

本文書体は戦前の明朝体 (のちの中明朝体/石井中明朝MM-A-OKS) 、本文は10級、縦組み、20字詰め37行の4段組、B5判320ページ。
東京印書館にとって初めて活字を1本も使わない、写植組版による大量ページのオフセット印刷物、出版元の平凡社にとっても、戦後の出発点として記念碑的な事業となった。

平凡社はその後も、東京印書館の写植組版とオフセット印刷によって、『世界美術全集』(全29巻、1950~57)、『世界地名事典』(全6巻、1950~52) 、『理科事典』(全19巻、1950~53)をつぎつぎに出版した。本文には、いずれも明朝体 (中明朝体) を使用。しかし、戦後の劣悪な用紙では、この明朝体はつぶれて読みづらい。そんななかで下中は、こうした用紙でも美しく印字できる新しい明朝体の制作に茂吉が取り組んでいると知り、茂吉を督励した。下中は、なんとしても新書体を1951年 (昭和26)から 刊行する『児童百科事典』で使いたいと考えたのだ。

かくして茂吉による新しい書体「細明朝体 (のちの石井細明朝LM-NKS)」は1951年 (昭和26) に完成し、すぐさま平凡社の『児童百科事典』 (1951~56、全24巻、印刷:東京印書館) で本格的な出版物に使用されて、その優雅な姿を世にあらわしたのだった。[注6]

○「福音」という評価

この書体について、『下中彌三郎事典』(下中彌三郎伝刊行会編、平凡社刊、1965) では、和田栄吉によってこんなふうに述べられている。

〈平凡社の『児童百科事典』に用いられている写真植字の文字は、それまでのものよりもずっとスマートな書体である。この書体は今日「石井文字」と呼ばれているものだが、これは石井茂吉によって作られたもので石井にこの計画のあることを知った下中が、石井を督励して『児童百科事典』の出版に間に合うよう製作させたものだ。だから「石井文字」の第一回の作品は『児童百科事典』によって世上に出たことになる〉[注7]

また、『東京印書館の50年』でも高い評価が寄せられている。
〈石井細明朝体は用紙事情の劣悪さを乗り越える精度と美しさを兼ね備え、まさに写真植字の発展に対する福音となった〉〈昭和26 (1951) 年2月、当社が印刷を開始した『児童百科事典』(全24巻) は、初めてこの石井細明朝体を使用した2色刷りの本格的事典である。
写真植字文字組版による新しい文字の本格的出版印刷物として、業界内外から高く評価された〉 [注8]

まさに時代のニーズに合致した書体を、茂吉がつくりあげたことがうかがえる。

なお、この時期ほかにも写真植字機をもちいた出版物が刊行された。ひとつは、縦組みに平体3番の変形レンズを用いて1ページの収容文字数を大幅に増やし、読みやすくかつ総ページ数の削減を実現した有斐閣の『六法全書』昭和25年版 (1950)。もうひとつは、自社書体を文字盤化し、写真植字で組版した三省堂出版の『新百科辞典』(三省堂編修所 編、1953) だ。とくに『新百科辞典』は注目を集めた。写真植字を活用しようとかんがえたのが、当時の日本印刷学会会長で「活字の神様」とも称された今井直一だったからだ。[注9] ただし今井は写真植字の本格的な導入には慎重だったようで、1957年のインタビューではまだ〈写真植字機は大変に便利なものだが、これはページものなど本格的な組版には使わぬ方がいい〉という見解を示している。[注10]
○中ゴシック体の誕生

細明朝体の明るく優美なデザインが評価され、辞典や書籍の本文に使われるようになると、小見出しや本文強調の際に細明朝体に組み合わせるゴシック体が、戦前のものでは合わなくなってきた。あまりに太く、強すぎてしまうからだ。

ユーザーからも細いゴシック体の要望が寄せられるようになり、茂吉は細明朝体に合うゴシック体として、中ゴシック体の原字制作を始めた。

こうして1954年 (昭和29) に「中ゴシック体 (のちの石井中ゴシックMG-A-KS)」として文字盤が完成。それにともない、戦前のゴシック体は「太ゴシック体 (のちの石井太ゴシックBG-A-KL)」に名称を変更した。


書風そのものも変えた明朝体と異なり、新しい中ゴシック体は、太ゴシック体と書風はおなじで、縦横の線を太ゴシック体の約4分の3の太さにしたものだった。11級、12級という本文サイズでもつぶれることがなく、印刷効果のたいへんよい書体で、発売されるや写真植字機を設置している各社がその文字盤を導入し、やがて小見出しや本文の強調部分によく使われる書体になっていった。[注11]

(つづく)

※次回は7月21日更新予定です。

[注1] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.190-191、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.52-54

[注2] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.190、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.54

[注3] この時点ではまだ、書体名に「石井」は冠していない。「石井」を冠するのは、1975年に本蘭細明朝LHMが発売されたとき。

[注4][注5] 下中彌三郎「士魂商才その二 印刷業と私」『月刊印刷時報』昭和34年1月号 (第176号) 、印刷時報社、1959 pp.56-57

[注6] 東京印書館50周年社史編纂委員会『東京印書館の50年』、東京印書館、1998 pp.39-40、下中彌三郎伝刊行会編『下中彌三郎事典』平凡社、1965 p.266、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.54-55

[注7]『下中彌三郎事典』下中彌三郎伝刊行会編、平凡社刊、1965 p.266
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2983112 (参照:2026年6月12日)

[注8] 東京印書館50周年社史編纂委員会『東京印書館の50年』、東京印書館、1998 pp.39-40 なお、平凡社は1931年 (昭和6) に刊行を開始した『世界大百科事典』で単式印刷による出版をおこなっている。単式印刷とは、特殊なタイプライターで印字・校正し、それが項目順にそろった段階でページ単位に大貼をして、製版カメラでネガフィルムに製版し、オフセット印刷をする方式。 (前掲『東京印書館の50年』p.39)

[注9] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.55

[注10] 橘弘一郎「活字と共に三十五年―今井直一氏に聞く―」『印刷界』1957年3月号、日本印刷新聞社 p.18

[注11] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.55-56

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
東京印書館50周年社史編纂委員会『東京印書館の50年』、東京印書館、1998
下中彌三郎伝刊行会編『下中彌三郎事典』平凡社、1965
下中彌三郎「士魂商才その二 印刷業と私」『月刊印刷時報』昭和34年1月号 (第176号) 、印刷時報社、1959
写研アーカイブサイト https://archive.sha-ken.co.jp/ (2026年6月7日参照)
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
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