高級ワインの産地として知られるブルゴーニュで、著者が目にしたのは、華やかなイメージとはかけ離れた収穫現場でした。戦争で家族や故郷を失い、正式な身分証を持たずに働く移民たち。
グラスの中だけでは見えないワイン産業の構造と、著者の価値観を揺さぶった出会いを、『エグゼクティブはなぜワインにはまるのか?』(今野有子/クロスメディア・パブリッシング)から抜粋してご紹介します。
○ワインの幻想を解体する

収穫初日の朝は、真っ暗だった。

アラームで目を覚ました瞬間、部屋の空気が湿っているのがわかった。築二百年の小屋
の二階。壁にはひび割れが走り、ところどころ穴があいている。ダウンの上に雨ガッパを着込み、長靴を履く。

ぎしぎし鳴る床板を踏んで外に出た。冷えた空気が肺の奥に刺さる。オーナーは古いトラックの前で待っていた。

「行くぞ」

短い言葉。揺れる荷台の端に腰を下ろすと、ディーゼルの匂いが鼻の奥につんと染みた。畑へ向かうものだと思っていた。
だがトラックは村を抜け、まだ眠っている街を走り、ボーヌ駅へ向かった。

始発が動いたかどうかという時間帯なのに、駅前のロータリーには男たちが集まっていた。黒い肌の男たち。年齢はまちまちで、少年のように見える顔もあれば、疲れを隠せない初老の人もいる。

オーナーは車を降り、彼らのうちのひとりに近づいて短く言葉を交わした。男がうなずき、少し離れた場所に立っていた三人にも声をかける。四人が荷台に乗り込んだ。オーナーが言った。

「彼らはペーパーがない。現金払いで働く」

意味が脳に届いた瞬間、背筋に冷たいものが走る。――不法移民だ。世界最高のワインが生まれるブルゴーニュで、こういう形で労働力が集められている。
私はその事実に、息が詰まった。

車が動き出すと、男たちは身を寄せ合うようにして揺れに耐えた。ボンジュール、と声をかけると、ひとりが自分の名前を言った。アハメッド。私は彼らを見つめた。細い腕。骨ばった膝。擦り減ったスニーカー。乾いた土の匂いがする。

そのうちの一人が、ふっと微笑んだ。頬に薄い傷跡のある青年だった。訛りのあるフランス語で聞かれる。


「ジャポネーズ?」

ウィ、と答えると、青年は少し考えてから言った。

「大変。でも、あなたは大丈夫」

なぜだかわからない。その言葉がまっすぐ胸の奥を射抜いた。畑に着くと、葡萄が一面に広がっていた。霧が薄く漂い、紫の粒が静かに光る。写真や本で見た"神の畑"。

カゴとハサミを渡され、黙々と葡萄の房を切る。腰が痛くなる。指がしびれる。太陽が昇ると汗が噴き出す。アハメッドたちは慣れた手つきで淡々と作業を続けていた。
視界の果てまで広がる葡萄。逃げ場はない。

私はフランスまで来て、いったい何をしているのか。逃げ出したい痛みに耐えながら、同じ問いが何度も胸を叩く。昼前、束の間の休憩。アハメッドが言った。

「自分はチャドから来た」

チャド。国名だということすら、私は曖昧だった。地理は得意だったはずなのに。知らない言葉は、存在していないのと同じになる。

「戦争、知ってる?」

「……少し」

本当は何も知らなかった。アハメッドはうつむき、スニーカーの紐をいじりながら、ぼそぼそと話す。


「家は金持ちだった。牛が百頭以上いた。でも、戦争で全部なくなった。兄は死んだ。母はどこにいるかわからない」

何も言えなかった。どんな言葉も薄っぺらくなると直感した。アハメッドは首を横に振った。

「だいじょうぶ。生きてるから」

その言葉は、陽射しよりまぶしかった。休憩のあと、男たちは畑の端の水道に集まり、靴と靴下を脱いで足を洗った。小さく折りたたんだ布を取り出し、土の上に敷く。同じ方向を向いて膝をつき、額を地面につける。
祈りの時間だ。私は少し離れたところから背中を眺めた。

さっきまで冗談を言い合っていた顔とは別人のように、静かで、集中している。オーナーが小声で言う。

「あんまり見るな。話しかけるな」

私はうなずいた。だが目を逸らせなかった。あの背中には、誰の評価も必要ない"帰る方向"があった。

夜。ワイナリーに戻っても仕事は終わらない。摘み取った葡萄は酸化する。時間勝負で醸造作業が始まる。私はひたすら器具を洗い続けた。冷たい地下水で手が痺れ、立ったまま眠りそうになる。耳鳴りがした。ショウジョウバエの羽音だった。部屋に戻ると、虫の死骸が隅に積もっていた。寝転がったマットレスの上でスマホを開く。

"チャド 紛争"

"チャド 難民"

"チャド 内戦"

検索結果が次々に出てくる。爆撃された村。逃げる人々。砂の大地に並ぶテント。子どもの小さな棺。

震えた。

「知らない」ということが、こんなにも残酷だったのか。私は、洞窟の住人だったのだと思った。

大学の名前。会社の名前。ワインの知識。誰かが作った「正解」。洞窟の壁に映る影だけを本物だと信じてきた。だが洞窟の外に、本物の現実があった。ワインの背後には、祈りと汗と、帰れない人間の人生があった。――私は今日まで、そのことを想像すらしていなかった。

私はこれからも、この液体を「高級」と呼べるのだろうか。

***

あの畑で見た現実は、個別の出来事ではありませんでした。それは、ワインという産業の構造そのものの縮図だったのです。

ワインは、グラスの中だけで完結していない。ラベルの向こう側に、誰かの生活と、国境と、沈黙がある。けれど私たちは、普段そこを見ません。見ないままでも、ワインは飲めてしまうからです。そして、見ないまま飲めてしまうように──ワインの世界は長い時間をかけて「設計」されてきました。

設計とは、見なくても成立してしまう構造のことです。

○『エグゼクティブはなぜワインにはまるのか?』(今野有子/クロスメディア・パブリッシング)

現代のビジネスシーン、特にグローバルな環境や富裕層ビジネスにおいて、ワインは単なるアルコール飲料ではなく、「共通言語」であり「信頼の指標」となっています。しかし、多くの日本企業のリーダーは「知識がないから」と及び腰になるか、単なる「ラベル(値段)重視の消費」に留まっています。本書は、株式会社アルムンド代表として数々のエグゼクティブにワインを供してきた今野氏が、彼らがなぜワインに心酔し、それがどのようにビジネスの成功(人脈・決断力・品格)に直結しているのかを解き明かす1冊です。
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