「かんちゃん、お昼ごはん、なに食べたい?」

介護者の大坪寧樹さん(58)がこう問いかけると、「かんちゃん」と呼ばれた男性は満面の笑みを浮かべ、元気いっぱいに答えた。

「カキフライ!」

ここは、神奈川県座間市にあるアパート。

その一室で、お気に入りのソファに深々と腰掛け、テレビから流れるアニメを眺めていたのは、この部屋の住人「かんちゃん」こと、尾野一矢さん(53)。

一矢さんには重度の知的障がいと自閉症という特性がある。

食事や着替えなど一人でできることもあるが、調理や入浴、買い物など、誰かの手を借りなければならないことも少なくない。夜間も、予期せぬパニックやトラブルに対処するため、平日に一矢さんが市内の作業所で軽作業に従事する時間以外は、大坪さんら介護者が交代で24時間、常に見守り続けている。

重い障がいがあっても支援を受けて一人暮らしができる国の仕組み「重度訪問介護」の制度を利用し、現在は地域で暮らす一矢さん。

だが、2020年の夏までは県内の障がい者施設で長年、集団生活を送っていた。そして、いまからちょうど10年前。その施設で戦後最悪の大量殺人事件が発生する。そう、一矢さんが暮らしていたのは、あの「津久井やまゆり園」だった。

事件が起きたのは、2016年7月26日。「障がい者は不幸しか作らない──」、そんな偏見と独善的な優生思想に染まった元職員・植松聖(現・死刑囚)が施設に侵入。入所者や職員ら45人を殺傷し、19人の入所者が犠牲になった。

一矢さんも首や腹を刺され、一時は命が危ぶまれる大けがを負った。

今回は、そんな大きな傷を乗り越えた一矢さんとその家族、そして介護者の物語。この10年間の歩みと、彼らが取り戻した笑顔の絶えない暮らし。それこそが、あの男の主張を真っ向から否定する、彼らの結論にほかならない。

座間市のアパートの一室では、一矢さんと大坪さんのほほ笑ましいやりとりが続いている。

「かんちゃん、それじゃドライブして、カキフライ食べに行く?」

一矢さんはドライブが大好き。大坪さんからの提案に、改めて相好を崩し、大きな声で答えた。

「行くー!」

■息子の“終の棲家”と思っていた施設で命の危険にさらされるあの事件が

「言葉が遅かったかんちゃんを連れて、大学病院に通いました。それで、あの子が3歳のころかな、先生から『息子さんは知的障がいがあります』と告げられたんです」

こう振り返ったのは、一矢さんの母・チキ子さん(84)。

1973年、一矢さんはクリーニング店を営む両親の長男として生まれた。7歳上の姉との4人家族。だが、一矢さんが診断を受けて間もなく、実父が事故で急逝。

それでも、チキ子さんに悲嘆に暮れる時間はなかった。2人の子を養うために、必死になって働いていた。そして、1年ほどたったころ、運送業をしていた現夫・剛志さん(82)と出会う。剛志さんは言う。

「この人(チキ子さん)と知り合い、初めて一矢にも会いました。4歳のころの一矢はポチャッとしてて、めちゃくちゃかわいくてね。『俺がこの子をなんとかしてやりたい』って真剣に思ったんだ。トラックを降りて、彼女の弟子になり、必死に仕事も覚えた。そして、

1983年にクリーニング師の資格を取得して、晴れて入籍したんです」

しかし、小学校高学年になった一矢さんは、だんだんと2人の手に負えなくなっていく。剛志さんは悔しそうに顔を曇らせた。

「パニック起こして暴れたり、自傷行為も。私たちは共働きでしたし、店にはむやみに触ればけがするような道具もあった。

お客さんから預かった服を汚すわけにもいかない。一矢とともに暮らしていくには店を畳まなくちゃならないと、追い詰められていたんです」

父母は苦渋の決断を下す。中学生になったばかりの一矢さんを、障がい児施設に入所させたのだ。

「手元で育てたい気持ちはやまやまでしたから、最初は2年と期限を切った。でも、2年たっても一矢の状態は変わらず、施設の先生は『まだダメです』。それで、もう2年、さらに2年と……。何度目のときかな、先生から言われてしまったんです。『一矢くんの障がいは重すぎる。お父さんたちとは暮らせない。大人の入れる施設を探しなさい』と。本当にショックでした」

こうして1996年4月、23歳になった一矢さんは「津久井やまゆり園」に移り住んだ。両親はここが息子の“終の棲家”と思っていた。

同じころ一矢さんの介護リーダー・大坪さんは、生まれて初めて重度の障がい者と向き合っていた。

「僕が介護の仕事に初めて就いたのは、20代後半。先輩から紹介されたんです。四肢まひで発語も難しい、でも、その世界ではとても有名だった新田勲さんの、専従の介護者にならないかと」

新田さんは長年、日本の障がい者運動を牽引してきた。2歳のとき罹患した百日咳がもとで脳性まひになり、1968年に東京都の障がい者施設「府中療育センター」の開設と同時に入所。しかし、当時の施設の人権を無視したような処遇に憤り、都庁前で1年9カ月もの期間、座り込みで抗議。

この「府中療育センター闘争」と呼ばれる一連の運動や粘り強い交渉で、現在の「重度訪問介護」など公的な介護保障の礎を築いた。自身は1973年に施設を出て、地域での自立生活を開始。重い言語障がいもあった新田さんは、足を筆のように動かす「足文字」で介護者に指示を出し、交渉の席などで介護者は、彼の“通訳”にもなった。

「彼の存在感に圧倒され、会った瞬間『引き受けないわけにはいかない』と思いました。

でも、果たして自分に務まるのか、始めたあともなかなか自信が持てなくて。それで『新田さんの求めるものに僕が応じきれていなければ、いつでもクビにしてください』と言ったことがあるんです。

すると新田さんは足文字で『きみがそれを望まない限り、僕からきみを辞めさせることはしない』と。そうまで言われて、放り出すわけにはいかないと、僕も腹をくくりました」

大坪さんは、新田さんが亡くなる2013年まで、およそ15年にわたって介護者を続けた。行政交渉にも同席して彼の言葉を代弁し、深夜まで駅頭でともにビラを配った。いつしか大坪さんは障がい者運動の第一人者の、かけがえのない同志になっていた。

■「お父さん、お父さん」と呼び続ける一矢を見て間違っていたと痛感した

「朝の5時ごろでした。友達から『息子さん、やまゆり園よね? すぐテレビ見て!』と電話があって。慌ててお父さんを起こして、テレビをつけたんです」

10年前のあの朝を、チキ子さんは少し苦しそうに述懐した。テレビには見覚えのある建物、そして、そのとき判明していた被害状況「15名死亡」のテロップも。すでに出頭していた植松の画像も流れたという。剛志さんが続ける。

「びっくりだし、なにがなんだかわからないし、電話してもつながらないし。とにかく行こうと、近くに住んでる孫の車を借りて園に向かいました。

でもね、ニュースが『元職員』と報じた犯人の顔を見ても正直、ピンとこなかった」

事件の前年まで、剛志さんは家族会の会長を18年間、務めた。月に何度も施設まで足を運び、職員は誰もが顔見知りだった。

「だから、ニュースで植松の顔を見ても『こんなやつ、いないよ』と。記憶にあった植松は、はつらつとして、園に就職してきたときも『いい子が入ったな』と思ったぐらい。でも、その面影はまるでなかった。あいつの顔は整形で、まるっきり違ってしまっていた」

規制線が張られるなか、父母は7時30分、やまゆり園に。しかし、息子が暮らす2階に上がろうとする剛志さんを、警察官が引き留めた。「ダメダメ、見られるような状態じゃない」

たしかに、廊下にも血痕があった。その後、奥の部屋に通されると、そこには剛志さんの後任の家族会の会長たちが。そして、テーブルにはA4の紙が8枚。利用者の名簿だった。

当時のやまゆり園には「ホーム」と呼ばれる8つの居住区画があり、それぞれ18人前後が生活していた。剛志さんは一矢さんのいた「いぶきホーム」の名簿に目をやった。

「利用者の氏名がズラッとあって、名前の横に『○×△』のマークが。『これは?』と聞くと『○は被害がなく、いま体育館にいる子、△は救急車で運ばれた子』と。『じゃ、×は?』と重ねて聞くと『亡くなった子です』。一矢のいたホームの名簿には×が4つ、ありました」

一矢さんの名前には「△」の印があり、隣には「立川災害医療センター」と記されていた。その足で病院に駆けつけると、一矢さんは手術を受けていた。術後に医師が状態を説明してくれた。

「先生は人型のイラストを示し『首、喉、それに手の傷はそれぞれ4針、3針、5針縫いました』。さらに、イラストのお腹のところがバツッと切れていて。『お腹の刺し傷は深さ4センチ、大腸がちぎれている状態でした』と」

その3日後。意識の戻った一矢さんとの再会がかなった。

「私の顔を見るなり、一矢が『お父さん、お父さん』と。何度もハッキリと、私を呼んでくれて」

これに両親は驚いたという。チキ子さんが言う。

「長年、施設で暮らすうちに、かんちゃん、しゃべらない人になってたんです。集団生活だから、大声を出すと、職員さんから『ダメ!』って叱られてたんだと思う。しゃべったとしても小声でゴニョゴニョ言うだけだった。それなのに……」

ここで言葉を継いだ剛志さん。その目にはうっすらと光るものが。

「帰るとき、時計を見たから間違いないんだけど、私たちが病室を後にするまでの40分間、一矢はずっと『お父さん、お父さん』と。懸命に私を呼び続ける一矢を見て『ああ、俺は間違ってた』って痛感したんです。『俺は一矢のこと、ちゃんと見てなかったんだ』と」

剛志さんは長年、会長として家族会に尽力した。「少しでもよい施設にすることが、息子の幸せにつながる」と信じたから。だが、会長の仕事は多忙で、足しげく園には通っても、一矢さんとゆっくりとした時間を持つことはなかった。

「それで私ね、『一矢、ごめん!』って、息子の頭を抱きしめて、子どもみたいにわんわん泣いて謝ったんです。妻も同席した孫も、いっしょになってみんなで号泣。それで誓ったんです。これから先は、一矢のためだけに生きようって」

(取材・文:仲本剛)

【後編】「一緒にいて不幸だと思ったこと一度もない」津久井やまゆり事件から10年…施設を離れた生存者・尾野一矢さんの家族が語る“植松死刑囚への回答”へ続く

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