『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』などの著書を持つ、「令和エッセイの名手」スズキナオによる、待望の、初の小説連載。
仕事が休みの平日、フリーデザイナーの木田さんから連絡がきて、昼ご飯を食べた。
1番線のホームに電車が来て停まって、ドアが開いてたくさんの人が降りてきた。降りてきた人たちはそれぞれが進みたい方向に歩いていくから、電車に乗ろうとして並んでいる自分たちは、その邪魔にならぬよう、列の前の人とのあいだを少し空けてその隙間に人を通したり、また詰めたり、ぶつかるすれすれの位置を歩いてくる人を、体を横に動かしてかわしたりする必要があった。「難しいゲームだ」と自分が言うと、後ろに立っている木田さんが「ね。あはは」と小さく笑う声が聞こえた。
ようやく自分たちが電車に乗り込んだところで、意外だったのが、座席がほぼ埋まっていることだった。関空/紀州路快速は途中まで大阪環状線の線内を走っていくので、関西空港や和歌山のほうに行きたい人だけが乗るわけではない。大阪駅から隣の福島駅まで行きたい人も乗るし、西九条駅で乗り換えてUSJに向かおうとする人だって乗る。だからしばらく混んでいるのは当然で、天王寺駅あたりで乗客がたくさん降りて空くのではないかと思った。
木田さんも自分も、発泡酒や缶チューハイや、つまみ代わりに買ったプリッツなどが入ったビニール袋を片手にぶら下げていて、それは少なくとも今の車内では場違いな感じだ。車内の座席は、進行方向に向かって左側に2席並んだシートが、通路を挟んで右側にはひとり分のシートが配置されている。「2席・通路・2席」じゃなくて「2席・通路・1席」という構成だからか、通路部分の幅には余裕があって、私たちはそこに立っている。ここにいれば、座っている人が立ちあがったときにすぐそこを確保できる。
車内を見渡す。ドアの近くにも多くの人が立っているから見づらいが、私たちがいる車両の後方にはトイレがある。電車のなかでお酒を飲んでトイレに行きたくなっても安心で、その安心感を、前にこの電車に乗ったときにも感じたのを覚えている。「あそこに、トイレもありますから」と私はそっちを向いて言う。「あ、トイレあるんですね。それだけ長い区間を走るということですね」と木田さん。
私は言い訳したい気分になった。「ここの席に座って飲みながら電車に乗ったら楽しいかと思ったんだけど、でもたぶん、少ししたら空くと思います」と言ったのが今座っている人に聞こえていたら「早く降りてくれ」と言われているみたいで気分が悪いかもしれないと、言ってすぐに思い、「まあ、立っているのもこれはこれで、いい」と、我ながら意味のよくわからない言葉を付け足した。
それからしばらく、ふたりとも黙っていた。大きなスーツケースが電車の揺れで動かぬよう、押さえながら立っているふたり連れの乗客が私の近く、進行方向側に立っていた。この電車は関西空港に向かう前の4両と、今私たちがいる和歌山行きの4両とが連結され、1本の電車となって走っているわけだが、この人たちは本当は関西空港行きに乗りたかったんじゃないか(前4両と後ろ4両のあいだは通り抜けできず、一旦電車を降りないと移れない)。アジア圏からの観光客にも見えたそのふたりは、この電車に乗りさえすれば関西空港に行けると勘違いして、こっちに乗ってしまっているのかもしれない。私自身が一度、その勘違いをしたことがあり、途中でそのミスに気がついたからなんとかなったけど、飛行機に乗り遅れかねないようなギリギリの時間帯だったのですごく焦った。
その人たちに「関西空港に行くなら向こうの電車に移らないといけない。このまま乗っていると関西空港ではなく和歌山に行ってしまいます」と伝えたほうがいいんだろうか。スマートフォンの翻訳ツールを使えば伝えられそうだが、急に近づいていったら相手は怖がるか。というか、あのふたりが関西空港に行こうとしているとは限らない。日本を旅行していて、和歌山方面へ観光しに行くところなのかもしれない。まあ、ふたつの電車が切り離される日根野駅まではまだだいぶあるし、しばらく保留だ。
新今宮駅に着いたところで、私が立っているすぐ目の前の2席の、通路側に座っていた人が立ち上がって、私の横をすり抜けて降りていった。
しかし、結局そうはならず、私はそのまま立っていた。気づくといつの間にか、スーツケースのふたりはシートに座っている。1席分のシートが向かい合わせになっているところにふたりで座っていて、それがうらやましく思えた。
電車は堺市駅に停まり、鳳駅に停まり、走っていく。頭のなか、大阪の地図を南へ南へ進んでいく電車を思い浮かべる。乗ったばかりの頃に比べると、車内はだいぶ空いてきたが、木田さんの隣に座っている人はずっとそのままで、私は座席の端に掴まって立っている。「こういうときって、この人はきっと早く降りるはず! と、競馬の馬に賭けるみたいにベットする気分ですよね」と木田さんに伝えたいが、そんなことを話すのは座っている人に失礼だから今は言えない。他に何か話すべきことも思い浮かばず、「先に飲んでください」と木田さんの膝の上にあるビニール袋に手のひらを差し向けて言ったが、「はい。
東岸和田という駅で木田さんの隣の人が電車を降りていって、ついにふたり並んで座ることができた。木田さんが窓側にずれて、私は通路側に座る。ずっと腕にぶら下げていたビニール袋から発泡酒を取り出して、右手の人差し指に力を込めてプルタブを起こす。鈍い音がして、泡がこぼれそうになったので、急いで口を近づけた。泡はぬるく感じられて、期待した爽快感はなかった。腕時計を見ると、電車に乗ってからもう50分も経っているのだった。「ぬるくなっている」と私が言うと「保冷バッグが必要でしたね」と木田さんがつぶやく。
中身はぬるいが、しかし、やっと乾杯できて、それだけで気分がよくなった。窓際には缶を置くスペースがあるが、新幹線や特急電車と違って私の席にはテーブルも何もない。木田さんがそれに気づいて「こっちに置きます?」と言ってくれたので一旦そこに置かせてもらったが、そうすると、飲もうとするたびに木田さんの前に腕をにゅっと突き出すことになる。それはそれで気まずいなと思い、あとはずっと自分で缶を持っていることにした。
それからすぐに日根野駅に着いて、そこで前の4両と私たちのいる後ろ4両が切り離される。大きなスーツケースを手から離さぬように座っていたふたりは慌てて降りていって、どうやら関西空港行きの電車に移ったようだった。
「あ、やっぱり、あの人たちは関西空港行きに乗りたかったんだ」と私は言い、以前、自分が関西空港行きと間違ってこっち側に乗ってしまっていたことを木田さんに話した。「ああ、それ! 私も前にやったことがある! よくわからなくて、同じ車両にいる人に聞いたら丁寧に教えてくれたんです。思い出した! あの電車だ。ここから切り離されるんですね」
大きな音が鳴って少し電車が振動し、切り離しの作業が終わったらしい。さっきまで誰もいなかった運転席に運転士が乗ってきて、なるほど、今まではこの電車は前の4両に引っ張られる形で進んでいたが、ここからは自立して、この電車単独で進んでいくわけである。
「あ! 前の電車に置いていかれた。ここから道が別々になるんだ。面白いですね、この電車」と木田さんが楽しそうに言うからうれしくなった。
「そうそう、今、この電車が自分の意志を持って、ここからは自分だけの道を行く。ここから和歌山方面に行くんですけど、どうします? どこまで行きますか?」
「ここから和歌山ってどれぐらいで着くんだろう」
スマートフォンの乗り換え検索アプリで調べてみたら、もう30分で終点の和歌山駅に着いてしまうらしい。
日根野駅を出ると、車窓からの景色が急に広くなったように感じた。それまで住宅街が続いていたのが、田畑がちらほら見えるようになった。一度はリュックのなかにしまったビニール袋からプリッツの箱を取り出して開き、さらにそのなかに2パックに分けて包装されている中身をあけて、2本つまんで食べた。トマト味の、酸味と塩加減。ポリッとした歯ごたえも好きで、ほとんどのスナック菓子が値上げしている今の時代でも、プリッツだけは相変わらずそれほど高くないし、「やはりこれだ」と思う。「どうぞ」と、パッケージごと木田さんのほうに差し出す。
「ありがとうございます。久々だな。少し細くなってますか」と、言われてみればそんな気がする。
「中身もなんか、量が少なくなった気がします。価格をキープするために中身を減らすみたいなの、今はよくあるみたいですよね」
「最近のプリングルスとか、すごく小さいんですよ。中身を見たときにテンションが上がらないんです。これ、トマト味、いいですね。プリッツといえば、ずっと甘いものだと思ってたんです」
「え、そうですか? 甘いのなんてありましたっけ?」
「バター味だっけ。甘いやつがあるんです。最初に食べたプリッツがその甘いほうで、だから甘いお菓子としてのプリッツしか知らないから、しょっぱいと不思議な感じがします」
電車がゆっくりと停まり、新家という駅のホームでたくさん人が降りた。再び動き出すと、駅前に酒屋があってそこに立ち飲みスペースが併設されているのが見えた。外はまだ明るいが、すでに営業しているようだった。木田さんも同じ店を見ていて、「あれ、絶対いい店ですね」と言う。一旦、和歌山駅まで行って、また引き返してあそこで飲んでいくのもいいかもしれない。
木田さんは窓の外を眺めたまま「同じプリッツ好きでも、甘いのとしょっぱいのを思い浮かべてる人がいるわけじゃないですか」と言った。「たまに取引先の人との飲み会で『立ち飲みとか好きなんですか? 僕も大好きなんですよ! 今度行きましょう』って言われて、でもその人に会って一緒に行った店は、すごいシャレたバルみたいな立ち飲みで、高いワインの種類がいっぱいあるような感じのところで、美味しかったけど、『これは立ち飲みなのか』って思ったんです。たしかに立ち飲みだけど、自分の好きな感じのお店じゃなくて、あれは、高い店でただ立って飲んでるだけ」
高級おしゃれバルで飲んでいる木田さんの姿を思い浮かべながら、私は前々から思っていたポップコーンの話をした。ポップコーンには塩味とキャラメル味があって、もちろん、もっと色々な味があるのだが、映画館なんかに行くとその2種類の味が用意されていることが多い。私はポップコーンと言えば塩味なのだが、キャラメル味しか食べないという人もいるだろう。同じポップコーン好きでも、塩派とキャラメル派は実は話が合わないのではないか。キャラメルポップコーンが好きな人は、美味しいスイーツに詳しい人とのほうが話がはずむはず。
「だからもしポップコーン好きの飲み会があったとしても、塩とキャラメルのふたつのグループのあいだにはすごく距離があるんじゃないかって」と私が言うと「うんうん。でも、その『ポップコーン好きの飲み会』ってなんなんですか」と木田さんが笑った。
窓の外は、山が近くなってきた。木田さんは「現在の気温 38℃」と電光掲示板か何かに表示されていたのが見えたと言った。
山中渓という駅の近くにバーベキュー場が見えて、それから、『ぼくのなつやすみ』というゲームに出てくるような、アニメ映画に出てくるような、田舎で過ごす典型的な夏休みみたいなものを体験したことがないと木田さんが言って、そこら辺でふたりとも、もう発泡酒は空になってしまったが、ビニール袋の中のもうひと缶を空けるにはもう時間の余裕がなく、結局それはしまったまま、和歌山駅に着いてしまった。
改札を出て強い日差しの下を歩くと、とんでもない暑さだった。駅前には日陰がほとんどなく、ふたりで顔を見合わせて、駅ビルの1階の化粧品売り場に涼みに行った。フロアの隅に立ってこれからの流れを話し合うことになった。
15時半を過ぎたばかりだったが、この時間から営業している店を探して飲もうと、私は私でスマートフォンで検索を繰り返し、木田さんは木田さんでスマートフォンの画面をじっと眺め、しばらくそんな時間が続いた。ふと、木田さんが向こうに歩いていった。誰かと電話をしているようだった。
私が候補の店を3つに絞り込んだところで電話を終えた木田さんが近づいてきて、今日は帰って急ぎの仕事の対応をしなければならないことを伝えられた。
「急にごめんなさい。どうしますか?」と言われ、なんとなく、今日はこのまま、また大阪へ引き返すので十分楽しいような気がした。移動式の居酒屋でふたりで飲んだ、そう思えばそれはそれで愉快だ。もともと、何の予定もなく始まったことだったのだ。
駅ビルのなかに和歌山の特産品を販売しているコーナーがあり、そこで私は和歌山ラーメンが4食入りでセットになったのを買って、ついでに帰りに飲むための酒を少し買い足した。
帰りは始発駅の和歌山駅から乗るからふたりで最初から並んで座ることができて、大阪駅までの時間がたっぷりあったはずなのに、私は途中でうとうとしてしまい、気づけばもうだいぶ大阪駅に近づいていた。「魚の生き造りみたいなのが怖くて仕方ない」と木田さんが言い、「ああ、わかる! まだ動いてる、みたいなあれですよね」と、そんな受け答えをしたのは、なんの流れからそんな話になったのだっけ。車内はいつの間にか混み始めていて、窓際に置いてあった酒の缶を手に取って飲むとき、少し気恥ずかしかった。
和歌山に向かっているあいだには旅をしている高揚感がたしかにあったのに、もうその気分はすっかり遠くなり、隣に座っている木田さんもこれから急ぎの仕事があるからか、静かにスマートフォンの画面に目を落としている。
「今度また、あの途中の駅の駅前にあった立ち飲みに行きませんか」と、真っ直ぐ前を向いたまま私は言った。「行きましょう! 今日はごめんなさい。和歌山でも飲みたかったな。この電車にまた乗りたいです」と木田さんは言い「今度は保冷バッグも持ってきますよ」と付け加えた。
大阪駅で電車を降り、改札を出たところでそれぞれの方向へわかれることになった。少し寂しい気分が残り、どこか近くの居酒屋に寄っていこうかとも思ったが、飲むタイミングを失ったぬるい缶チューハイがリュックのなかに残っているのを思い出した。それを家の氷で冷やして飲むことにしようと決め、地下鉄の駅へ歩き出す。
帰宅してすぐに冷たいシャワーを浴びてさっぱりして、チューハイを取り出そうとしたらリュックのなかから和歌山ラーメンが出てきた。それを買ったことをすっかり忘れていたから、お土産をもらったようでうれしくなった。それが夕飯になった。
<つづく>
* * *
スズキナオ『紀州路快速和歌山ゆき』第3回は10月8日(木)17時配信予定
Credit: スズキナオ
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