「とてもいい本ができたので、とにかくたくさんの人に読んでほしい」という担当編集からの要望を受け、9月29日に発売するアナウンサー・吉田尚記さんの新刊『ご機嫌の技術 人生を上達させるウェルビーイングと推し活』から、「はじめに」と「第一章 不機嫌のパンデミック」をすべて先行で公開します!
ニッポン放送のアナウンサーとして27年、言葉の最前線で戦い続けてきた吉田尚記さんが、50歳で「社会的安定」という看板を脱ぎ捨て挑んだのは人生最大の人体実験だった――。そして辿り着いた「誰といても、一人でいても、ご機嫌でいられる」ための方法論とは?
第三回は「第一章 不機嫌のパンデミック」の一部を公開。
ウェルドゥーイングはわかりやすい
ウェルビーイングの観点から世の中を眺めると、「この人は全然ウェル(Well)じゃない。イル(Ill)だな」という人が目につくようになりました。
幸せ、という言葉の曖昧さが原因だと思うのですが、ウェルビーイングを目指すのではなく、今の世の中は「ウェルドゥーイング」が幸せにつながる、と思われているせいなのではないか、と思うようになりました。
ウェルドゥーイングは「よく成す」こと、つまり「成績を上げる」ことです。例えばビジネスマンだったらより大きく稼いだ人、スポーツ選手だったらすごい記録を残した人、アイドルだったら売れている人ほどウェルドゥーイングです。ある人がウェルドゥーイングかどうかは、誰にでもすぐ、わかります。そしてウェルドゥーイングが幸せにつながっている、と思ってしまいがちです。
では、ウェルドゥーイングな人は常に、ウェルビーイングなのでしょうか?
会社の社長とかでめちゃくちゃ業績を上げているけれども、家では奥さんともめてて全然「いきいきしていない」人っていますよね。こういう方は、ウェルドゥーイングかもしれませんけど、全然ウェルビーイングじゃない。
ウェルドゥーイングは必ずしもウェルビーイングを導くものじゃないというのは、ちょっと考えれば誰でもわかると思います。でも、会社や学校ではウェルドゥーイングを求められませんか? ウェルビーイングな会社員を求める会社があってもいいのに、「ちょっと性格悪いけど、仕事ができる(ウェルドゥーイング)」みたいな人が評価される時代もあったと思います。
近年はだいぶ変わってきて、「ウェルビーイング経営」とウェルビーイングを経営指標にする会社も現れてはいますが、いまだに、ウェルドゥーイングがウェルビーイングより先行して評価される傾向は、あるんじゃないでしょうか。
ウェルビーイングとウェルドゥーイングは対立ではない
さて、ここでまたちょっと違った視点の話をさせてください。
人間をコンピューターだと、仮に考えてみてください。コンピューターは、大雑把に言って、ハードウェアと、OS(基本ソフト)と、アプリケーション(応用ソフト)でできていますよね。
日本の我々もアメリカ人も熱帯雨林の奥に住んでいる人も、地球上の人類はみんなホモサピエンス、同じハードウェア、身体を持っています。
ただ、それこそアメリカの大都市から熱帯雨林の森の中まで行って思うことですが、どこに行っても考えていることがほぼ共通な部分と、全然違う部分があります。この、どこに行っても変わらない部分がOSで、全然違う部分が、アプリケーションです。
例えば、お腹がすいたら機嫌が悪くなるとか、寝ていないと機嫌が悪くなってパフォーマンスも落ちるとか、周りの人と仲良くすると気分が良くなるとか、あと、あまり良い機能じゃないかもしれないけど勝つとうれしい、独り占めしたい……この辺は世界中ほとんどで共通している、いわばOSです。
それに対して、必ずしも全世界共通じゃない価値観、これがアプリケーションです。
例えばヨーロッパの人からすると、1か月の休みを取ることが当たり前だけれど、日本人が一月休むとなったら職場の人に引け目を感じてしまう、みたいなことは、アプリケーションの話です。
もし、何かトラブルがあった場合。ハードウェアを入れ替えるのが一番大変で、OSもアプリケーションも全部入れ直さなくちゃいけない。次にOSも入れ替えるのはだいぶおおごとです。
こう考えてみると、ウェルビーイングは、どこに根ざしているか。おそらく、OSのレベルで感じるものでしょう。我々も熱帯雨林の民もアメリカの大富豪も、本来「わくわくして目が覚めて、夜、満ち足りて眠りたい」んだと思います。
一方、ウェルドゥーイングはすべて、アプリ内での数値でしかありません。「ホームラン30
本がすごい!」と言っても、野球、というスポーツのルールと相場観を知らない人にはそれはわからないし、お金も「○○円稼いだらすごい!」と言いますが、例えばほかの国で「○○ドル稼いだ!」と言われても、実は我々、自分たちの通貨に一度換算しないと、そのスゴさ、ってあんまり実感できなかったりしますよね。別のアプリケーションから、自分の慣れ親しんだアプリケーションに変換しないと、その数値の価値は、わからないわけです。
で、コンピューター上では、OSなしには、アプリは起動しません。OSのほうが、根本的です。なのに、アプリケーションがOSを巻き込んで、OSはもちろん、時にはハードウェアまでクラッシュさせちゃうこともあるわけです。アプリケーションが誤作動して、本体まで熱を持って壊れる、とかアプリケーションがなければ、効率的にコンピューターは動作させられませんが、OS、本体あってのコンピューターですよね。OSが快適に動作していることが、ウェルビーイングという状態だ、と私は思っています。
OS(存在)とアプリ(成果)の分離
それでは、普段使っているスマートフォンやパソコンを思い浮かべてみてください。
そこには「iOS」や「Windows」などの基本ソフト「OS」が稼働しています。そのOS上で、メールやSNS、ゲームといった個別の「アプリ」が動いていますよね。
もし、使用中のアプリが突然フリーズしたり、バグを起こして強制終了したりしたら、どうしますか? きっと「あ、アプリが落ちたな」と思って、そのアプリを再起動するはずです。どうしようもないときは、スマホやパソコン本体を再起動する、立ち上げ直しますよね。
間違っても、「アプリが動かないから、このスマホ本体はもうゴミだ! 叩き割って捨ててしまおう!」とはならないでしょう。
ところが、こと自分の人生や「ご機嫌」の問題になると、私たちはこの当たり前の切り分けが途端にできなくなってしまうんです。
あなたの社会的役割や成果、つまり「ウェルドゥーイング(よく成すこと)」はアプリ内の数値でしかありません。例えば「アナウンサー」という肩書きも、会社での「KPI(KeyPerformance Indicator =重要業績評価指標)」も、年収も、フォロワー数も、すべてはこの個別のアプリケーションの数値に過ぎません。
現代社会の生きづらさの正体は、この「アプリ(成果)の不具合」は「OS(存在)」に欠陥があるからだと勘違いしてしまうことにあるのではないでしょうか。
営業成績が悪かった、プロジェクトが頓挫した、誰かに叱られた。これらはすべて、OSの上で動いている「仕事アプリ」の一時的なバグ。
ところが、私たちは「仕事が上手くいかない自分には価値がない」と考え、土台であるOSまでフリーズさせてしまう。
職場を覆う「不機嫌」
私の取った「退職」という決断は、現代資本主義のスコアボード――「年収や肩書きを積み上げることこそが幸せである」という価値基準――に照らせば、エラーであり、バグの可能性が高いかもしれません。
ただ、何も背負うものがない状態の今こそが過去最高に心が軽く、世界が面白く見えているというこの体感は、何者にも否定できない事実です。
これは私の認知がおかしくなったのでしょうか? それとも、実は人生における「普遍的な真実」の断片に、私は足を踏み入れてしまったのでしょうか。
ニッポン放送を退職した今でも、私はちょこちょこ局に顔を出して、社内のスタジオでマイクに向かって話させてもらっています。
そんな中、オフィスに行くと、ちょっと「アレ?」と感じるようになりました。
社員はもちろんみな顔見知り。友達と呼べるような社員も何人かいて、みんな親しみのあるいい人です。でも、そんないい人たちが何だか足下がおぼつかない、不機嫌そうな顔を見せていることが、多々あるんです。
会社はもちろん成果を出すべき場所。「ウェルドゥーイング」、成果や数字を求められることになります。
それもどこかで休めるということはなく、働いている限り、結果を出したら「次はその上を」と、ずっとそのプレッシャーから解き放たれることはありません。
果てしなく増え続ける業務に、いつも「時間が足りない」と忙しさに追い立てられている毎日。そりゃ、不機嫌になっても不思議はありません。
おそらくほとんどすべての職場に「不機嫌」は漂っていて、それが会社のみならず学校や家庭など社会全体を覆い尽くしている。だから、私たちは、たとえ安定した場所にいても、どこか息苦しさを感じていて、さらにその本来必要かどうかもわからない安定を壊すものの訪れを、どこか不安に感じていたりしないでしょうか。
猫が棲みやすい隙間は人間に不可欠
この息苦しさはビジネスに限ったことではありません。
今の日本社会、特に対人関係やSNSのタイムラインを眺めていて、感じませんか? どうにも説明のつかない、トゲトゲしい空気が充満していることを。
誰かのちょっとした失言を寄ってたかって叩き続けたり、職場で誰かが常にピリピリと不機嫌を撒き散らしていたり……。
私はこれを、個人の性格の問題ではなく、社会構造そのものが生み出した「不機嫌のパンデミック(感染爆発)」だと思っています。
みんなはどうしてそんなにイライラしているのでしょうか? 一体どうしてそれほどまでに心に余裕がないのでしょうか。
そんな疑問を自分に投げかけていると、ラジオ番組で一緒に仕事をしていた〝街歩きの達人〟が発した「街に猫がいるかどうか」問題に思い当たりました。
散歩にワクワクを加えるコツを知り尽くした方が、こんなことを言っていたんです。
「人が住みやすい街というのは隙間がある街だ。そして、隙間がある街には必ず猫がいる」
例えば、東京に詳しい方なら、再開発で効率化を極限まで追求した新宿の西口や、お台場、六本木ヒルズを思い浮かべてみてください。実際に訪ねてみればわかりますが、それらの街には驚くほど猫がいません。すべてがコンクリートで固められ、死角や無駄なスペースが徹底的に排除されているからです。
人が都合に合わせて作った街がメディアに取り上げられるとブームになって、観光客が集まります。でも、そういう街ってまた新たにスポットが当たる街ができるとそちら光客が流れて、次第に人がいなくなっちゃうんですよね。
事実、お台場が盛り上がった後に六本木ヒルズができたら観光客が全部そっちに行って、今のお台場は最盛期の数割ほどの人出です。その六本木ヒルズにしても、有楽町が再開発されたら昼間の人口密度はだいぶ下がりました。
効率(Doing)を最優先して、街のあらゆる「隙間」を埋め立ててしまった場所からは猫が消え、同時に人間が「ただそこに在る(Being)」ことへの許容度も失われてしまいました。
そこには住みたくて住んでいる、「Being」な人がいません。
一方で、六本木ヒルズのすぐ裏側にある麻布十番には、そこら中に猫がいます。
六本木ヒルズブームで麻布十番を知った人は今も麻布十番から離れず、街は賑わい続けています。
そして、同じく古い路地が残り混沌としている新宿の東口には、今でもひょっこりと猫が顔を出していて、何だかわからないパワーに満ちあふれています。
これ、私たちの「心」のメタファーそのものなんじゃないでしょうか?
私たちの心も今、資本主義の要請によって、心の中にあるはずの「隙間」を、すべて「役に立つこと(ウェルドゥーイング)」で埋め立てるよう強要されているんです。TSUTAYAで立ち尽くしていたときの私は、まさにそうだったと思います。
<次回は9月22日(火)17時配信予定です>
書誌情報
『ご機嫌の技術 人生を上達させるウェルビーイングと推し活』
著=吉田尚記
価格:1800円+税
仕様:四六判/192ページ
下記リンクからご予約いただけます!
書籍情報(太田出版Web)AmazonCredit: 文=吉田尚記
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