人生の転機はいつ訪れるかわからない。鳥取大学医学部附属病院 MEセンター 臨床工学技士長 松上紘生氏は、かつて医師になりたいという気持ちは心の奥底で燻らせながら、大学病院に求められる臨床工学技士をしていた。
だが、同病院に診療科の垣根を越えてロボット支援手術を行う「低侵襲外科センター」が設立され、その立ち上げに関わると状況と心境が一変する――。
※本稿は、鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 22杯目』の一部を再編集したものです。
■教わるつもりで入職したら人員不足で
2004年4月、福岡医科歯科技術専門学校を卒業した松上紘生は、とりだい病院に入職した。それまで鳥取県に縁はなかった。高度医療を実践している国立大学病院ならば臨床工学技士(Clinical Engineer 以下CE)として様々な勉強ができると思ったからだ。ところが現場は違っていた。
「言い方は悪いですけれど、こちらは教わるつもりでした。自分で勉強しながら、実際の手の動かし方を学ぶ。でも、ちょっと違うぞ、これはまずいと思いました」
とりだい病院のCEは計4人。2人の常勤と2人の非常勤。松上の引き継ぎのため1年限定で1人が残っていた。3人のうち2人は手術室、もう1人は高気圧酸素治療室担当。
それ以外の医療機器管理は医師や看護師が行なっていた。専門学校時代の研修で私立大学附属病院などの医療機関を見てきた松上には人数的に手薄だと感じられたのだ。
CE――臨床工学技士は、人工呼吸器や人工心肺装置、透析装置などの医療機器を操作、管理する専門職だ。2000年代以前は、主に機器の操作・保守といった技術職の側面が強かった。それが医療の高度化にともない、カテーテル治療などにもチーム医療の一員として深く関わるようになっていた。
松上が入職した2004年に国立大学は独立法人化している。国立大学には法人として自律的に運営する組織への移行が、大学病院には高度医療を担いながら健全経営が求められていた。松上が入職した時期は、CEの職務と大学病院が変化する直前だったのだ。
■高校2年で視力が落ちてパイロットを断念
松上は1982年に福岡県で生まれた。乗り物が好きな子どもだった。アメリカに住んでいた従兄弟にお土産としてもらった飛行機の模型がきっかけで、小学校2、3年生からパイロットになることを決めたという。
「航空大学校に進むには、大学を卒業、あるいは3年次で編入という道がありました。
両親が小学校のときに離婚していました。中学校のとき先生からお母さんに負担をかけないためにまずは地元の国立大学に進むこと。そこに行きやすい高校を選んだほうがいいと言われました」
しかし――。
「高校2年生のとき黒板の字が見えにくくなったんです。これではパイロットになれないと愕然としました。それまでは(航空大学校受験のための)英語や数学とか頑張っていた。めちゃくちゃショックで落ち込んで、勉強をやめました」
航空大学校の視力検査は裸眼で1.0以上となっているが、矯正も認められている。誰にも相談せず無理だと思い込んで絶望していたんですと頭を掻く。
「その後、テレビで再生医療を見て医学部に行こうと思いました。医学部は国立以外は費用的に無理。自分でハードルを一気に上げてしまった」
高校の教師たちからは、松上は本番に弱いので推薦入試で地元の国立大学工学部に進むことを勧められた。松上の母親にまで電話を入れて説得したという。

「自分のことを親身になって考えてくれた、めちゃくちゃいい先生たちでした。振り返ると、お前、ちゃんと人の話聞けよって。自分は本当に話を聞かない人間でした。すべての失敗の原因でした」
現役で国立大学医学部を受験し不合格。1年の浪人生活を送ったが、またもや不合格。そこで福岡医科歯科技術専門学校に進んだ。
■大学病院では臨床工学技士が足りていない
専門学校入学直後、授業は一般教養が中心で歯ごたえがなかったという。松上は授業中、受験参考書を開いていた。翌年の医学部受験に備える「仮面浪人」である。
「受験勉強していたことが、ばれていたんでしょうね。ある先生が、一つの道を選んだならばよそ見をすることはあっても、きちんと修めたほうがいいとおっしゃったんです。一般論としての話でしたが、自分のことだなと思いました」
医師への思いは脇に置き、CEの国家資格を取ることに専念することにした。
そして卒業後、とりだい病院に入ったのだ。
とりだい病院に限らず、国立大学病院ではCEが足りていない状況だった。
「例えば人工心肺。人工心肺のメンテナンス、点検はメーカーが行います。CEの仕事は人工心肺を動かすこと。ところが、とりだい病院では心臓血管外科の医師がやっていた。ECMOも同じです」
人工心肺は、心臓外科手術の際に心臓と肺の働きを一時的に代行する医療機器である。ECMOは新型コロナ禍でその名を聞いた人も多いかもしれない。
心臓や肺の働きが著しく低下したときに、体の外で血液を循環・酸素化する装置だ。その他、手術に関する機器の点検、管理についてもCEが関与している診療科は限られていた。
■やりたいことだらけで学会にも参加
松上の入職2年後の2006年、とりだい病院にMEセンターが設立されている。MEとは、Medical Engineeringの略だ。
CEを含めた医学工学全般を指す。
「MEセンターの一丁目一番地は、各診療科の医療機器の点検。機器の教科書のようなものはあるんですが、あくまでも最大公約数。メーカーが使っている点検表を取り寄せて、分からないときは担当者に来ていただくこともありました」
そんな松上の力となったのは、病院長だった石部裕一の存在だった。石部はMEセンター長でもあった。
「若気の至りであったんですが、“先生、先生、こういったことがやりたいです”“点検するためにこれがいりますから、買ってください”、みたいな感じで話しかけていました。本当は上司や先輩から話をしてもらうべきだったのかもしれません。もうやりたいことだらけで、一人でタッタカ、タッタカ、動いていました」
とりだい病院の医師たちはそんな松上に協力的だった。
「身体一つしかないのに、あっちゃこっちゃやってみようと。今のようにインターネット上に情報がなかったので、先生たちに教わりながら、本を読み、仕事に関係しそうな学会に行って勉強していました」
当時は学会に行くCEは稀だった。医師でもないのになぜ行くのかと冷ややかな人間もいた。松上は全く気にならなかった。
「このままではやばい」という危機感があったからだ。
やがて松上の頭の中に、もっと上を目指したいという思いが芽生えてきた。大学院の学位を取得すれば、医師やメーカーの開発者ともっと深い議論ができるのではないかと考えたのだ。
背中を押したのはやはり石部だった。
「大学院に行きたいという話をすると、まずは大学だろと言われました。それで(通信制の)放送大学に編入したんです」
業務の傍ら、放送大学教養学部を卒業、2010年4月に鳥取大学大学院医学系研究科に入学する。
■全国的にも異例の29歳の技士長に
2011年2月、とりだい病院に、診療科の垣根を越えてロボット支援手術を行う「低侵襲外科センター」が設立された。ロボット手術において機器が適正に動くことは絶対だ。
有能なCEは不可欠である。松上は低侵襲外科センターの立ち上げから関わることになった。そしてこの年の4月にCEを束ねる「技士長」に昇進した。29歳の技士長は全国的にも異例だ。
「えっ、なるんだって思いました。ぼく、まだ若造ですよって」
まだ医師になりたいという気持ちは心の奥底で燻っていた。それが完全に消えたのはこのときだった。
「まず思ったのは後輩たちをどうしようかということ。まだ20代でしたし、自分の未熟さも分かっていました。まだまだ経験を積みたかった。でも、そんなこと言っていられない。みんなの人生に責任持つには、もう腹くくるしかない。みんなを育てることが患者さんのためになる」
患者のためにという思いは松上には強い。その一つの表れが、「人工呼吸器回路カバーFIT」の開発だった。
人工呼吸器は自分で呼吸ができない患者の補助を行う装置である。機器と患者をつなぐ回路は外気との気温差によって結露しやすい。回路内に水が溜まると誤作動を起こしやすくなるため、約2時間おきに水を抜かねばならない。
在宅療養の場合、家族への負担は大きい。そこで松上たちは、地元メーカーと試行錯誤しながら、回路を覆う布製のカバーを製作した。
■「話を聞く=言われた通りにやる」ではない
カバーの構造自体は複雑ではない。結露しやすいことは現場の人間ならば分かっている。しかし、誰も手をつけなかったのだ。医療には同様の問題がまだまだあると松上は言う。
「医療機器の世界では、高性能な機器を作りました、で終わっているのが多い。その製品をどのように患者さんに役立ていくのかの視点が欠けている気がするんです」
医療機器はデジタル化が進み、多くのデータを蓄積できるようになった。そのデータを生かし切っていないというもどかしさがある。
「記録作業をできるだけ自動化、省力化するのは大前提。一旦すべてのデータを集めた上で、医師や看護師さんに合う情報を出せば、仕事の効率化につながる。そこで問題になるのがソフトウエアが高いこと。すべてをそろえるとすごい値段になるし、どのように(病院という現場に)実装するのか、作る側が意識していない場合も多い」
ソフトウエアについてはAIを駆使することでクリアできるかもしれないと松上は考えている。松上はやりたいことはたくさんあるんですよねと前向きだ。
ふと鳥取に来てから、人との接し方が変わったと思うことがある。
「以前は、完全に耳栓していたような状態でした。話を聞くことと言われた通りにすることを同じだと考えていたんです。いろいろと話を聞いたほうが自分のためになると気がつきました」
遅すぎますよね、と笑う。
■何度かの挫折を経た後の居場所
松上は、患者が退院して自宅に戻ったあとの生活を快適にすることにも目を向けている。その鍵となるのはIoT――あらゆる物がインターネットを通じてつながること――。
「回路カバーの開発で改めて気がついたのは、患者さんのケアをされている方々の負担が大きいこと。体力だけでなくメンタルもすり減らしている。患者さんの社会復帰に加えて、ご家族の生活をできるだけ元に戻してあげたい。
機器が病院とつながっていれば、ご家族の生活に自由度が増す。患者さんもご家族も海外旅行に普通に行くことができるのが理想だと思っています」
それこそ、ぼくたちがやらなければならないことなんですよねと松上は力を込める。
何度かの挫折を経て、彼は本当に必要とされる居場所を見つけたのだ。
松上紘生(まつがみ・ひろみ)1982年福岡県出身。福岡医科歯科技術専門学校臨床工学技士科卒業後、2004年鳥取大学医学部附属病院に入職。2015年、鳥取大学大学院医学系研究科機能再生医科学専攻博士課程を修了。2011年よりM Eセンター臨床工学技士長に就任し、現在に至る。医療機器の操作、保守、管理のスペシャリストとして活躍する一方、患者目線に立った機器の改善提案や、院内外における臨床工学技士のレベル向上を目的とした研修会の開催などにも積極的に取り組んでいる。

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田崎 健太(たざき・けんた)

ノンフィクション作家

1968年3月13日京都市生まれ。『カニジル』編集長。『UmeBoshi』編集長。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『新説・長州力』『新説佐山サトル』『スポーツアイデンティティ』(太田出版)など。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。2021年、(株)カニジルを立ち上げ、とりだい病院1階で『カニジルブックストア』を運営中。

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(ノンフィクション作家 田崎 健太 写真=馬場磨貴)
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