※本稿は、菅原道仁『幸せな人は「感じる脳」を持っている』(宝島社)の一部を再編集したものです。
■人間は深く傷つくことで成長する
心理学には、ポストトラウマティック・グロース(PTG)、すなわち心的外傷後成長という考え方があります。
人は深い苦悩や喪失を経験したあと、ただ元の状態に回復するだけでなく、以前とは違う形で成長しうるという知見です。
その過程では、新たな可能性への気づきや他者との絆の深まり、自分の中に眠っていた強さの発見などが生まれることがあります。
もちろん、苦しみそのものを美化したいわけではありません。心の痛みや感情の麻痺は、紛れもなく重くつらいものです。しかし、それは決して人生の行き止まりを意味するものではないということです。
自分の感情に気づき、少し距離を取って眺め、意味づけをほぐし直していく。その営みを通して、人は単に傷を修復するだけでなく、以前とは違う形で心をつくり直していくことができるのです。
いまあなたが感じている痛みも、そこで終わるものとは限りません。それはむしろ、あなたの脳と心が次の段階へ進むための出発点になりうるのです。
■一つ一つの決断で脳は疲弊していく
このように、認知の扱いを整える一方で、次に必要になる視点は、そもそも脳が過剰に疲弊しない環境をつくることです。
私たちは1日のうちに、思っている以上に多くの判断をしています。昼食を何にするか。どのメールから返すか。どの仕事を先に片づけるか。そしてときには、「腹が立っても笑顔で対応する」といった高度な感情の制御まで求められます。
こうした小さな決断が積み重なると、脳は少しずつ疲れていきます。この脳のリソースが枯渇していく状態を「決定疲れ」と呼びます。
■脳の空き容量を減らさないために
かつて心理学の分野では、意志力はバッテリーと同じように消耗していくものだという「自我消耗」の考え方で説明されてきました。
このモデル自体には現在も議論がありますが、少なくとも、余裕のなさが脳の働きを鈍らせるという現象そのものは、別の研究から繰り返し示されています。
経済学者のセンディル・ムッライナタンと心理学者のエルダー・シャフィールは、この現象を「帯域幅税」と呼びました。
ここで言う「帯域幅」とは、もともとコンピュータの通信容量を指す言葉です。
つまり人は、何かに追われていたり、常に気を張っていたりするだけで、脳の空き容量がじわじわと削りとられてしまうのです。
精神的な余裕を失うほど、税金のように脳のリソースが自動的に差し押さえられていく。そんなイメージです。だからこそ、感情を取り戻すためには、まず脳に余白を返す必要があります。
■スマホは存在しているだけで脳に悪影響
そしてその第一歩として、現代人がもっとも取り組みやすいのが、過剰な外部刺激を遮断することです。その最大の対象がスマートフォンです。
テキサス大学の研究者、エイドリアン・ワードらの研究は、極めて示唆に富む事実を明らかにしています。
それは、スマホが脳のリソースを奪うのは、操作している最中だけではないという点です。
彼らの実験では、参加者にスマホを「机の上に置く」「カバンにしまう」「別室に置く」という三つのグループに分け、認知能力を測るテストを行いました。
すると、スマホの電源が切れていても、視界にあるだけで認知テストの成績が有意に下がることが明らかになったのです。
つまりスマホは、「使っている時間」だけでなく、「使わないように意識している時間」にも脳のエネルギーを奪っている可能性があるのです。
ここでの課題は、スマホを生活から完全に排除することではありません。現代社会でそれを実行するのは、ほとんど不可能です。重要なのは、デバイスとの間に「物理的な境界線」を自ら引き直すことです。
■膨大な通知を「緊急度」で分ける
たとえば、帰宅直後の30分間は玄関に置いておく。食事の席には持ち込まない。就寝時は寝室とは別の部屋で充電する。
こうした「スマホとの距離」を意識的につくるだけで、脳の慢性的な緊張は驚くほど和らぎ、本来の感情を味わうための「余白」が生まれ始めるのです。
次に有効なのが、通知の「トリアージ」です。トリアージとは本来、医療現場で患者の緊急度を仕分ける方法ですが、ここでは「届く通知を重要度で選別する」という意味で使っています。
たとえば、不特定多数から届く刺激を緊急度に応じて三つに仕分けします。
すぐに目を通すべきもの。あとでまとめて確認すればよいもの。
たとえば、家族からの急ぎの連絡は即時対応する。メールやニュースは時間を決めて、まとめてチェックする。SNSのリアクションや通販のクーポン、ゲームの通知は迷わず遮断する。
■SNSアプリをホーム画面から隠す
さらに、アプリアイコンのバッジ表示を消し、SNSアプリをホーム画面の奥へ隠し、検索の手間を挟まないと開けないように設定する。
こうした工夫は、「意志が弱い人の小手先の技」ではありません。心理学や行動科学の知見によれば、人は刺激を受けてから行動するまでに、わずか1秒の間があるだけで、その行動を思いとどまる確率が上がることがわかっています。
スマホを手にした瞬間に反射的にSNSをタップしてしまう、その一瞬に「手間」を挟むことで、脳は「いまは本当に必要か」と俯瞰し、反射的な依存を止めてくれるのです。
ここで大切なのは、スマホから離れる時間を「我慢」と捉えないことです。それは、枯渇した脳に余白を取り戻すための、むしろ贅沢な時間なのです。
ただぼんやりする。
余白とは、単なる時間の残りかすではありません。心が健やかさを取り戻すために、確保されるべき大切な土壌です。
何かを成し遂げようと力む前に、まずはこの余白を確保する。それが、感情をリブートするためのもっとも現実的な出発点になるのです。
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菅原 道仁(すがわら・みちひと)
脳神経外科医
菅原脳神経外科クリニック院長。医療法人社団赤坂パークビル脳神経外科理事長。1970年生まれ。杏林大学医学部卒業後、クモ膜下出血や脳梗塞といった緊急の脳疾患を専門として、国立国際医療研究センターに勤務。2000年、救急から在宅まで一貫した医療を提供できる医療システムの構築を目指し、脳神経外科専門の北原国際病院(東京・八王子市)に15年間勤務。
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(脳神経外科医 菅原 道仁)

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