■クマ被害は都市部には関係ないのか
日本全国にクマが大量出没し、悲惨なニュースが大々的に報じられた2025年が過去のものとなり、明けた2026年も、はや半分が過ぎようとしている。
クマ類の冬眠が明ける4月ごろから、あちこちでクマ出没情報が報じられているが、クマによる被害が本格化するのは初夏から秋にかけて、つまりこれからの時期が本番と言える。このままの状況が続けば、2026年もクマに振り回される一年になりそうである。
とはいえ、北海道・東北や山間部の住民を除けば、関東以南の都市部住民の大半は、クマによる被害にリアリティを感じていないのではないか。
都会の人々にとって、クマが人を襲うニュースは、あくまで自分とは直接関係のないどこか遠くで起こった事件に過ぎない。
東京は世界でも珍しい「クマが生息する首都」なのだが、現実問題として、東京都の都市部、特に23区住民で、クマを恐れている人はほとんどいないはずだ。
■安全な場所で「予想外のリスク」がある
筆者はなにも、都会の人の認識が間違いだというつもりはない。現実問題として都市部の人がクマにおびえる必要はない。
確かに、東京農工大学の小池伸介教授のように、多摩地区の山あいに生息するツキノワグマが、多摩川河川敷に侵入すれば、府中あたりまで進出しうる、つまり「クマは都心までやってくる」と指摘している識者もいる。
ただ、実際問題として、クマが都心部に出没する可能性はほとんどない。人間の気配を嫌うクマが、都心の住宅密集地まであえて移動してエサを探す、そんな状況は考えにくいわけだ。
ただ、クマによる被害は、都市部でも起こりうる。山間部など「田舎」だけの特殊事情ではない。
クマによる被害は、いつどこで発生するか予想できない。絶対安全だと思われていた場所でも、意外な形で被害にあうこともある。
■事件が起きたのは中国「最高ランク」動物園
上海野生動物園の男性飼育員、朱さん(26歳)は、その日、クマ飼育エリアで行われていた植物の掘削工事の監督をしていた。
上海野生動物園は、中国最大級の動物園だ。
上海市の中心部から約35kmの距離に位置し、敷地面積は実に約153ヘクタール(東京ドーム32個分)もある。その広大な敷地に、約200種類、1万頭もの動物を飼育する、中国初の「国家級野生動物園」である。
「国家級野生動物園」とは、国家林業局(現・国家林業・草原局)と地方政府が共同で建設・管理する、大規模な動物園のこと。
中でも、この上海野生動物園は、中国初の国家級野生動物園であり、中国の観光地としては最高ランクの「国家5A級観光地」にも指定されている。
経営は、上海申迪集団有限公司が同公園の経営権の66.67%を所有し、中国野生動物保護協会が33.33%を保有している。ちなみにこの上海申迪集団は、土地開発、インフラ建設、および関連産業開発に従事する国有企業だ。
この上海野生動物園では、「放養式」といって、動物と人との間に檻や柵を設けず、動物に接近して鑑賞できる展示方法を採用していた。
この方法は日本でもサファリパークなどで採用されている。上海野生動物園の場合、草食でおとなしい動物の展示エリアは徒歩で見ることができるが、大型動物や肉食獣など危険動物の展示エリアでは、観客はサファリバスに乗って周遊する仕組みだ。
■動物好きの26歳が就いた天職
上海野生動物園の朱さんは、工業専門学校でツアーガイドの資格を取得後、上海野生動物園に入社していた。
はじめは園内をめぐるバスのツアーガイドを担当していたが、その後、念願かなってトラの飼育員になった。
朱さんは毎日、トラを檻の外に出してから、檻の中を掃除し、トラの餌を用意。観光客のツアーが終わった後、「シマウマ模様の車両」を使ってトラを檻に戻すのが日課だった。
ちなみに、「シマウマ模様の車両」とは、上海野生動物園の業務車両のことだ。シマウマをイメージしたのだろう、車体がゼブラ柄に塗装されている。
動物が好きで入社した朱さんにとって、この仕事はまさに天職だったのかもしれない。朱さんの母親は中国メディア財新の取材に、「息子は夕食時に動物園の仕事について話すのが好きだった。すべてのトラの名前を記憶していた」と語っている。
■クマ飼育エリアで撤去作業を行っていた
そんな朱さんが事件に巻き込まれたのは、2020年10月17日。
3日前の10月14日、上海野生動物園では、クマ飼育エリアの植物撤去作業を、外部業者に依頼することを決定していた。頑丈な木の根っこかなにかを掘り起こして撤去することになったのだと思われる。
その後、10月16日には、外部業者の上海石油化工金義工業建設有限公司から派遣された運転手、およびショベルカーが、クマ飼育エリアで植物の撤去作業を開始していた。
10月17日にも、同じ作業を行うため、外部業者および、上海野生動物園のスタッフが集まった。
午前8時頃、上海野生動物園側の現場監督の「季さん」が、金義公司のショベルカー運転手である「徐さん」を車に乗せ、クマ飼育エリアまで案内したのが、午前8時30分ごろだった。
上海野生動物園からは、季さん、閔さん、そして、朱さんの三人が、交代で、シマウマ模様の車両の中から作業を監督していた。
一方、徐さんはショベルカーに乗り、植物の掘り起こし作業を行っていた。
■「ルール違反の運転手」を助けようとして…
作業は順調に進んでいたが、午後4時30分頃になって異変が起こった。
ショベルカーの徐さんが、急に運転席から外に出たのである。
この間の事情は現地報道でもあまり定かではないが、おそらく機械のトラブルかなにかがあったのだろう。徐さんは歩いてショベルカーの右側にまわり、状態を確認していた。
ただ、そこはクマ飼育エリアのど真ん中である。動物園のルール上、危険動物を飼育するエリアにおいては、たとえ機械の故障であったとしても、外部業者の人間が無断で車を降りることは許されていない。
異変に最初に気づいたのが、先ほどご紹介した、上海野生動物園のトラ飼育員である朱さんだった。
徐さんが許可なく車両から降りたのをシマウマ模様の車両の中から目撃した朱さんは、その行動の危険性を認識する。
ただ、徐さんを助けようとするあまり、朱さんもまた、許可を得ることなくシマウマ模様の車両から降りてしまう。朱さんは徒歩で徐さんに近づき、急いで運転席に戻るよう声をかけたとされる。
だが、時すでに遅かった。
■10頭以上のヒグマが群がる地獄絵図
この時、ショベルカーとシマウマ模様の車両の周囲には、すでに10頭あまりのヒグマが集まっていた。
朱さんは、徐さんにすぐ戻るよう注意すると、シマウマ模様の車両に戻ろうとした。
だが、その瞬間、突然飛び出してきたヒグマが朱さんを襲った。
最初の一撃で重症を負ったのだろう、朱さんはあっけなく地面の上に倒れこんでしまう。
と、そこに、周囲で様子をうかがっていたほかのヒグマが、集団になって、地面に伏した朱さんに、一斉に襲いかかった。
ヒグマの群れは、朱さんの身体を水場の近くまで引きずると、爪を突き立て、キバで噛みつき、朱さんの肉を引きちぎっていく。
この時、事件現場のすぐ近くに、ちょうどクマ飼育エリアを通過中の観光バスがいた。そのバスの中から、多くの観光客が、朱さんがヒグマの群れに襲われる一部始終を目撃していた。
中には、ヒグマが朱さんの身体に食らいつき、肉を引きちぎる残酷な場面をスマホで撮影する人もいた。
この動画が、WeChat(中国のメッセージアプリ)経由でネット上に流出してしまったのである。
■ネットに流出した凄惨な動画の全貌
動画には、水場のほとりに横たわる朱さんのまわりに多数のヒグマが群がり、朱さんの身体と思われるものを食いちぎっている様子が収められている。また、観光バスの乗客が、不安げに見守っている姿も確認できる。
一方、ショベルカーの運転手の徐さんは、ヒグマを追い払って朱さんを救出しようと試みる。
だが、ヒグマの数があまりにも多すぎた。10頭以上ものヒグマが朱さんの身体に食いついていて、近づくことさえ難しかった。
徐さんは自力での救出をあきらめ、ショベルカーの運転席から電話で助けを求めた。
その後、午後4時36分頃、事故を聞きつけた上海野生動物園の季さんが、シマウマ模様の車両で現場に駆けつけ、ヒグマを追い払う。
季さんは、上海野生動物園の動物部門のマネージャーである謝さんに報告。
午後4時39分頃、謝さんが、獣医や飼育員を含む約20人を率いて救助に向かう。
彼らは、シマウマ模様の車両5台、トレーラー1台、高圧放水車1台、大型掘削機1台を用意しており、これでようやくヒグマを追い払い、朱さんの遺体の一部を回収することができたという。
■経営トップの責任はうやむやに
この事件については、現地政府が詳細な事故報告書を公開している。
その中で、動物園としては「危険動物のエリアにおける作業については、きちんとしたマニュアルがあった」とし、事故が起こった原因は「あくまで現場の作業員がルールを破り勝手にショベルカーを降りたことにある」としている。
ただ、そのマニュアルがなぜ守られなかったのかが、事故原因を探る上で本来最も重要な点のはずだ。いかにマニュアルがあろうとも、それを無視した作業が横行していたのであれば、動物園全体の安全管理のあり方に疑問符がつく。
結局、「マニュアルがあるから動物園の対応は問題なし」とはなっていない。現場の責任者9人が懲戒処分を受けているため、当局は一定程度、動物園側の落ち度を認めた格好になっている。
では動物園の落ち度はどこにあったのか、事故報告書にはその点が抜けて落ちている。そのため、これはトカゲの尻尾切りではないかという疑問がぬぐえない。
上海野生動物園は中国トップの動物園の一つということもあるのか、経営トップ層には共産党幹部も名を連ねているようだ。そこまで責任追求の手が及ばないよう、あえて事故原因を曖昧なままにしているのではないのか。
共産党一党独裁という中国独特の事情が、クマ問題にも影を落としているようだ。
■動物の安全管理は「社会全体の問題」
誰もが利用する動物園での事故は絶対にあってはならないものだが、残念ながら事故はたびたび発生している。
過去の記事で、韓国の動物園でヒグマがライオンを襲った事件についてご紹介したが、その中で2016年に日本で発生した群馬サファリパークでの事故についても書いた。
群馬サファリパークでの事故とは、ヒグマを放し飼いにしているエリアを車で巡回していた従業員が、ヒグマに襲われて落命した事件だ。
この時、ヒグマは車の窓を破り、車の中にいた従業員を食害している。
窓には防護用のステンレスパイプが設置されていたが、その時はたまたま外れていたという。そんな不運もあったとはいえ、車の窓すら突き破るヒグマのパワーは凄まじいとしか言いようがない。
中国では2025年にも浙江省杭州の動物園で、観客の眼前で飼育員がクマに襲われるという事件が発生しており、その時の映像を世界中のメディアが報じている。中国における動物園の管理体制は本当に問題ないのか不安視する向きもある。
ただ、こうした事故は中国に限らず、日本でも起こるし、世界中どこでも起きうるものだ。その意味で、クマを含めた動物の安全管理や、危険性は、都会の人にとっても他人事ではなく、社会全体の問題であり、行政による取り組みが必要だと言えるだろう。
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中野 タツヤ(なかの・たつや)
ライター、作家
出版社で書籍・Web編集者として活躍したのち独立。ヒグマ関連記事を多数手掛けた経験をもとに、日本および世界のクマ事件や、社会・行政側の対応について取材している。2026年秋に初の小説作品『もしもヒグマが港区にあらわれたら(仮)』を刊行予定。tatsu_naka1226@ymail.ne.jp
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(ライター、作家 中野 タツヤ)

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