会社の危機はある日突然やってくる。主力商品が「O-157の原因食材」と名指しされる風評被害で、施設野菜メーカー・村上農園(広島県広島市)は倒産寸前に追い込まれた。
そのどん底で、「チャンスが来た」と直感した男がいた。“新しい野菜”を武器に、売上132億円企業へと這い上がった逆転劇の全貌を、前後編でお届けする――。(取材・文=フリーライター笹間聖子)
■背丈を超えるカイワレの山
1996年夏、広島県広島市、湯来。
山に囲まれた空き地で、ひとりの若手社員がカイワレと向き合っていた。
青々とみずみずしいカイワレを、プラスティックパックからひとつひとつ取り出して畑へ捨てる。そして、長靴で踏み固める。嵩を減らすためだ。
ザクザク、プチプチ。
なんともやるせない感触。白い長靴に、砕けた葉っぱがまとわりつく。あたりには、腐った大根のような匂いがもわっと立ち込めていた。
取材に応じてくれたのは、当時、研究職として村上農園に勤めていた元職員のAさんだ。

その少し前、入社3年目だったAさんは、研究職としてカイワレ種子の選別に打ち込んでいた。傷のない種子を選別すれば、まっすぐで健康な芽が育ちやすい。夏は暑さという負荷がかかるため、とりわけ良い種子が必要になる。よりすぐった種子を惜しみなく投入し、サラダ需要の最盛期に備えていた。
しかし今、そうして育ったカイワレを、自分たちの手で捨てにいかなければならない。積み上げられた廃棄の山は、ゆうに背丈を超えていた。
「むなしかったし、悔しかったですね」
表情を曇らせて、そうAさんは振り返る。
きっかけは1996年7月。大阪府堺市で発生した病原性大腸菌O-157による集団食中毒事件だった。学校給食で小学生3人が亡くなり、菅直人厚生大臣が自ら記者会見に立つ異例の事態となった。このとき原因食材として名指しされたのが、「かいわれ大根」である。
後に事実無根と判明するが、テレビでは「カイワレに赤インクを吸わせると葉っぱまで届く。
だから葉っぱにも大腸菌がある」という実験映像が流されるなど、すっかり犯人扱いされた。むろん、根拠のない大嘘だ。しかし事件の余波は大きく、全国のスーパーからカイワレが撤去された。
■売り上げ半減、辞職ドミノがはじまった
村上農園は、1978年に広島で設立された施設野菜メーカーだ。かいわれ大根を専業として右肩上がりに成長を続け、事件発生の前年、1995年には21億9200万円の売り上げを計上。全国に生産拠点を持つ、業界トップ企業だった。
その状況が、O-157の風評被害で一変した。
12月決算のため1996年は18億4800万円に留まったが、翌1997年の売上高は9億8800万円まで激減。わずか2年で半分以下となった。過去最悪の赤字となり、そのまま2年続けば債務超過は確実だった。
カイワレを出荷したくても出荷できない。生産拠点7カ所のうち4カ所がストップ。
一時帰休で自宅待機になった職員たちの収入は、国の助成金により、約60%に落ち込んだ。
収入が減り、仕事の目処もたたない。それが、いつまで続くかわからない。
「どうする?」「残る?」「辞める?」
日々、そんな会話が繰り返されるなか、社員の多くは生活が成り立たず、辞めざるをえなくなった。
村上農園によれば、若手を中心に30%ほどが会社を去ったという。
どれだけ安全性を伝えても、人々のカイワレ離れは止まらない。虚しさを覚えたAさんも村上農園を去った。
■「危機がチャンスをくれた」
しかし、社員が辞め、売り上げが崩れ落ちていく中で、ひとりだけ前を見据えている男がいた。
村上清貴(旧姓 田村)さん、当時36歳。入社からまだ3年目の後継者候補だ。
村上さんは1960年、山口県の生まれ。広島大学に入学し、1979年から母方の大叔父であり、村上農園の創業者である村上秋人さんの家に居候した。
秋人さんはその前年にカイワレの生産をはじめ、農園を株式会社化していたため、長期休暇時には時々アルバイトとして働いた。
大学卒業後はリクルートに入社。法人営業、映像事業の営業課長、マーケティング企画課長を経験する中で、徹底的に叩き込まれたのは「自分の頭で考える」姿勢だった。
「上司に相談しに行くと、『お前はどうしたい?』と逆に聞いてくる社風で。おかげで、常に『収益はどちらが多いのか』を指標に自分で判断するようになりました。でも、上の言うことを聞かずに業績を上げ、『文句を言われる筋合はない』とか言ったりしていたので、上司は面白くない。そうすると嫌われるわけです」
仕事の口論もしょっちゅうだったそうで、10年間のリクルート時代を「普通の人の一生分働いた」と振り返る村上さん。
バブル崩壊後の閉塞感を感じていた1993年、「いずれは後継者に」という先代の誘いに応じ、33歳で村上農園に転職した。妻と3人の娘を栃木県宇都宮に残し、単身で広島に入ったという。覚悟の表れだった。
「親族だからとか、後継者だからということではなくて、ゼロから経営を学び、会社を発展させる状況を作っていこうと思っていました」
ところが、入社からわずか3年。ようやく業界の状況が見え始めた頃に、O-157による風評被害が襲った。
妻からは「本当に大丈夫なの? つぶれるんじゃないの? 転職しないほうが良かったんじゃないの?」とも言われた。
だが、村上さんに後悔はなかった。むしろ、「チャンスが来た」と感じたという。
■カイワレ専業、薄利多売のビジネスモデル
当時、カイワレ大根の価格競争は激しく、収益性が極めて低い薄利多売の事業だった。
村上さんの入社前、村上農園は破綻した中古農場を次々に引き受け、業界30%のシェアを持つナンバーワンメーカーに成長していた。ただ、そこからの成長戦略が描けていなかった。
販路を広げようとしても、販売ルートは卸売市場経由の売り上げが9割で、営業マンが市場の担当者と世間話をして人間関係を築くスタイル。量販店との直接取引はない。社員は現場仕事には強かったが、商品開発やマーケティングの知識を持つものは少なかった。
そこで村上さんは、新しい野菜の開発を提案する。けれど、先代に強く反対された。どんな企業でもそうだが、それまで続いていたやり方を変えるのは難しいものだ。

しかしO-157をきっかけに、変えざるを得ない状況に変わった。
「その頃、先代はとにかく出費を減らすために、出張するな。電話はなるべくかけず、かかってくるのを待て。かける場合は相手をメモしておけ……などと指示していました。でも、その状態では売り上げを上げようがありません。つぶれる前になにか手を打たなければならない。誰が手を打てるかといったら、私しかいない状態でした」
危機が、チャンスを与えてくれたのだ。
■「誰も知らない野菜」に賭ける
カイワレの出荷が以前の4分の1に落ち込むなか、村上さんが目をつけたのは、O-157の7カ月前、先代社長の反対を押して開発、細々と生産をはじめていた「豆苗」だった。
豆苗は中華料理でよく使われる、エンドウ豆の若菜だ。日本で知名度はなかったが、加熱調理中心で食中毒とは無縁、ビタミン、ミネラル、たんぱく質が豊富である。そして、知名度がないからこそ、ライバルもいない野菜だった。
だが、社内の反応は冷ややかだった。
「みんな豆苗なんかやりたくないわけです。カイワレをずっとやってきたから」
村上さんは薄く笑う。
しかし選択肢はない。全国にあったカイワレ生産施設の空きスペースで豆苗を作り、市場では「知らない野菜だから」と冷やかな対応だったことから、量販店へ直接営業。社員総出で試食販売を行い、地道に売り込んでいった。
同時に村上さんが始めたのが、先代に反対された、「委託生産野菜」事業だ。
「売れるかどうかわからない野菜に設備投資する余裕はありませんでした。だから、よその農家に作ってもらい、村上農園のブランドとして販売する委託生産を始めたんです」
■どん底で手に入れた2つの「強さ」
生産を依託したのは、当時はまだ珍しかったルッコラやハーブ類だ。
こちらも、ライバルの少ない市場である。
村上さんは、自らハンドルを握って野菜を配達しながら、その合間にハーブの本を読み、使用用途を研究した。そして、主に料理の飾りに使うものを「アクセントハーブシリーズ(5種)」、肉や魚の臭み消しになるものを「スパイスハーブシリーズ(5種)」と名付けて商品化。
計10種の各パッケージは、それぞれのハーブのイメージの色に統一した。
また、スーパーにハーブ専用の売り場がなかったため、アクリル製の什器を用意して量販店に持ち込むなど工夫を重ねた。
すると、ハーブの売れ行きはたちまち当時トップだった大手メーカーを抜いた。それでも先代は、「メーカーがやることではない」と反対し続けたが、村上さんは引かなかった。
「収益を上げてこの会社を存続させることが、最も大きな目的だったので」
リクルート時代に身につけた習慣「収益はどちらが多いのか」を指標に判断したのだ。しかも、生産をアウトソーシングしているから投資は少なく、仮に失敗しても損失は少ない。
この委託生産野菜の経験が、後に決定的な意味を持つ。
商品を次々に開発する中で、「どんな商品が当たり、何がダメなのか」がだんだん見えてきたのだ。しかも、パッケージデザインから価格設定、ネーミングまで、すべて自分で考え、試し、修正していた。そのなかで村上さんは「一気通貫する商品開発のトレーニング」を積んでいったのだ。
同時に、それまでになかった量販店との直ルートも飛躍的に拡大した。村上農園は、新商品を開発する力と、それを届けるチャネル、両方を手に入れたのだ。
そうして、わずか1年5カ月で村上農園は黒字化する。
1998年の売上高は15億4700万円。O-157事件以前の水準には戻っていないが、薄利多売のカイワレ専業時代より収益構造は明らかに強くなっていた。
■アメリカからの知らせ
そこから遡って1997年、反撃のさなかにいた村上さんのもとに、1本の知らせが届いていた。村上農園が債務超過寸前でカイワレの売り上げが底を打った、まさにその年である。
アメリカ・オレゴン州に持っていた、種子を生産する関連会社から入った情報だった。
内容は、ジョンズ・ホプキンス大学のポール・タラレー博士が、ブロッコリーの発芽3日目の新芽にがん予防に有効な成分「スルフォラファン」が高濃度に含まれていることを発見した、というものだ。
知らせを受けて村上さんと先代の秋人さんはアメリカに飛び、タラレー博士と面談。粘り強く交渉を続けた結果、最初の門前払いから一転、奇跡的に、日本国内の独占ライセンス契約獲得に成功する。大手企業との競合もあったが、それまでの発芽野菜の生産ノウハウと、全国に生産拠点を持つことが決め手になった。
1999年、村上さんはこのブロッコリーの新芽を「ブロッコリースプラウト(現在の『ブロッコリースプラウト200』)」と名付け、販売を開始した。英名にしたのは、「低価格のカイワレとは異なる価値のもの」と印象付けるためだった。
さらに2001年には、スルフォラファンを成熟したブロッコリーの20倍含む「ブロッコリー スーパースプラウト」の生産もスタート。人工光型の植物工場を新たに建設し、温度・光量・衛生管理を徹底した専用施設で栽培する体制を整えた。
■そして世間が「発掘!」した
すると、すぐに人気に火がついた。
きっかけはテレビだ。
2001年11月、フジテレビ系の情報番組「発掘!あるある大事典」でブロッコリー スーパースプラウトが「がん予防の最終兵器」として紹介されたのだ。当時、視聴率20%超を誇った日曜夜の人気番組の効果は絶大だった。
放送の翌年、村上農園の売上高は21億1200万円から36億1500万円に跳ね上がった。
「こんなやり方があるんだ、っていうのがようやくそこで分かりまして」
テレビの効果を実感した村上さんは、2002年から、「ブロッコリースプラウトは機能性を備えたスーパーフードである」「食生活を考えることは健康を考えること」などと謳ったテレビCMを次々に制作。
メディアへの広報活動とともに、新聞広告や、消費者の目に留まる売り場づくりにも力を入れはじめる。
こうしてブロッコリースプラウトの認知は一気に広がり、売上高は2005年、44億円を超える。
カイワレ専業時代の2倍の規模に成長した。
■「テレビの捏造問題」で、またもや沈む
ところが、である。
順調に回復をはじめた2007年、またもや翼が折れる。
かつて村上農園を押し上げた「発掘!あるある大事典」が捏造問題で打ち切りになり、健康情報番組そのものが自粛ムードになったのだ。加えて、健康を謳う野菜にまで疑いが向けられるように……。そこにリーマンショックが追い打ちをかけ、売り上げは44億円から29億円に落ち込んだ。
だがここでも村上さんは、逆風のなかにチャンスを見いだす。
天候異変で露地野菜が高騰し、「安くて安定した野菜」へのニーズが高まっていることに目を付けたのだ。そして、量販店のバイヤーにこう持ちかけた。
「豆苗を、ほうれん草とか小松菜の隣に置いてください。そちらの方が売れますよ。他の葉物が高騰した時にも、豆苗で代替ができるじゃないですか」
この一言で、豆苗は「スプラウトの仲間」から「緑黄色野菜」に変わった。
売り場転向は大きく当たり、豆苗の緑黄色野菜に占めるシェアは急拡大。2009年の0.6%から、2025年では5%に伸びている。
2011年には、山梨県北杜市に、15億円を投じて日本最大の豆苗専用植物工場を建設。それがNHK「おはよう日本」で紹介されると量販店からの引き合いが殺到した。また健康情報番組の復活で、ブロッコリー スーパースプラウトも再び成長、2019年、売上高は107億円を突破した。
■そしてやってきた4度目の谷
これで、事業は盤石か。
そう思った矢先、4度目の危機が訪れる。
新型コロナウイルスの蔓延だ。
2021年の売上高は、外食ニーズの激減を受け、93億2900万円まで落ち込んだ。
しかし村上さんは歩みを止めなかった。
コロナ禍真っ最中の2021年、35億円を投じて山梨県北杜市に「スーパースプラウトファクトリー」を建設。2023年には、宮城県にも新拠点を開いた。
「落ちているからもうこれはやめよう、あれもやめようとなってしまうと、次にニーズが増えた時の対応ができなくなります。将来的に拡大する可能性が十分にあるのなら、やるべきことは続けていこうと」
その判断は正しかった。
コロナ禍を抜けた2024年、売上高は113億7600万円に跳ね上がった。
■4度の谷、4度の反撃
価格競争、O-157、健康番組の捏造、そしてコロナ禍。
4度の谷を越えるたび、新たな武器を手に入れ、村上農園は過去最高の売り上げを更新していった。
「谷の時期は辛くなかったですか」と尋ねると、村上さんはこともなげにこう言った。
「辛いというより、面白かったですね。とくにO-157の後は一番面白かった。毎日少しずつでも良くしようと手を打てたので。辛くはないんですよ。やるべきことをやるだけなので」
一拍おいて、こう続けた。
「辛いって考えたら、辛くなるでしょ。だからなるべく辛いとかっていうことは考えないようにするのが一番いいなって」
■「運がいいんですよ」
村上さんは自身の半生をこう総括する。
「運がいいんですよ。私、絶対的に運が良くて」
それを象徴する、こんなエピソードを教えてくれた。
ある日新幹線に乗ると、自分が予約した席に、すでに誰かが座っている。
見覚えのある顔だった。大手量販店の決済権者――村上農園の商品を扱うかどうかを決められる立場の人物だった。
本来予約していたのは隣の席だが、何らかの理由で村上さんの席に移っていたらしい。そこで村上さんは隣に座り、品川から名古屋まで、2人でビールを飲みながら話し込み、商談がまとまった。
「確率的には何億分の1の話ですよ。通常ならありえない」
こんなことがよく起こるそうだ。
不思議な話だが、村上さんの言う「運」が訪れるのは、圧倒的な努力があってこそだろう。
「苦境に立った時だけなんとかするなんて無理なんですよ。日頃から『いかにして業績を上げるか』を考えて行動していなければ、そうはならないと思います」
O-157の絶望の中で豆苗に賭け、先代の反対を押し切って委託生産を始め、アメリカからのブロッコリースプラウトの一報で、すぐに独占契約を持ちかけた。
たしかに、すべては「日頃から、業績を良くするために考え行動し続けていた」結果だ。
■そして売り上げ132億円企業に
村上さんが生まれたとき、母親が占い師に言われたという。「500人に1人の運勢だ」と。「5万人とかじゃなく500人。微妙でしょう?」と村上さんは苦笑する。だが、運を引き寄せる準備を怠らなかった人間にだけ、運は微笑むのだ。
だからこそ、倒産寸前の底から這い上がってこられたのではないだろうか。
カイワレの山ができた夏から30年。
村上農園の2025年12月期の売上高は132億5400万円に達し、豆苗は、全国のスーパーの棚に当たり前のように並んでいる。
そして、その価格は創業からずっと1パック100円前後のまま。キャベツが1玉300円に高騰しても、ほうれん草が298円になっても、変わらない。
工場で作るから天候に左右されないのは分かる。しかし、ニーズが増えても値上げしないのは、なぜか。
そこには、リクルート仕込みの「ブルーオーシャン戦略」があった。
後編で、その全貌を紹介する。

----------

笹間 聖子(ささま・せいこ)

フリーライター、編集者

おもなジャンルは「ホテル」「ビジネス」「発酵」「幼児教育」。編集プロダクション2社を経て2019年に独立。ホテル業界専門誌で17年執筆を続けており、ホテルと経営者の取材経験多数。編集者としては、発酵食品メーカーの会員誌を10年以上担当し、多彩な発酵食品を取材した経験を持つ。「東洋経済オンライン」「月刊ホテレス」「ダイヤモンド・チェーンストアオンライン」「FQ Kids」などで執筆中。大阪在住。

----------

(フリーライター、編集者 笹間 聖子)
編集部おすすめ