新刊『プアジャパン』が話題になっている。同書を書いた作家の橘玲さんは「現在のインフレが行きつく先は『日本型スタグフレーション』だ。
来る近未来の可能性をシミュレーションしてみることには意味があると思う」という――。(第1回/全3回)
※本稿は、橘玲『プアジャパン』(プレジデント社)の「第1章〈近未来小説〉日本人を待っていた浅い眠り2026年版」を再掲したものです。
■「サラリーマン」の住まいはネットカフェ
20XX年3月10日木曜日。午前6時に起床し、ネットカフェのコインシャワーで身支度を整える。早起きが習慣になったのは、私と同じような宿泊者がかなりいて、7時過ぎは混み合うからだ。
着替えをバックパックに詰めて自動精算のカウンターに向かうと、まだ眠そうな5~6人の列ができていた。
そのなかに顔なじみの若者がいたので軽く会釈する。苗字は黒木で年齢は20代半ば、ホテルで接客業をしているという。なぜか気が合って、たまに会えば近況などを話すようになった。
2020年からのコロナ禍で日本でも一気にリモートワークが広がったが、その後、社員が顔を突き合わせて議論する場がないと生産性が落ちるという調査が次々と出て、私の会社でも営業職は週3日の出社を求められている。
いまでは東京都心のマンションは中古でも2億円超が当たり前で、家賃も上がり、私のような家族のいるサラリーマンは東京には住めなくなった。ビジネスホテルでも1泊最低5万円以上するので、火曜から木曜までを出社日にして、月曜の夜に地方から上京して人形町のネットカフェに泊まることにしている。

■支払いはブロックチェーン
帰る家や待っている家族がいる私とはちがって、このネットカフェに泊まっているのは、ほとんどが時給の高い都心での仕事をするために自らホームレスになった若者たちだ。そうやって稼いだお金を“推し活”に使うのが生きがいなのだという。このあいだは黒木から、「自分、日本人に生まれて幸せだと思ってます」といわれた。
自動精算機は円のほかドル、ユーロ、人民元などさまざまな通貨で支払えるようになっていて、リアルタイムで為替相場が表示される。すべてブロックチェーンでつくられたステーブルコインで、それ以外にビットコインやソラナなどの暗号通貨もあり、スマホをかざすだけで決済できる。
かつてのメガバンクは消滅し、日本の金融機関はシリコンバレーのプラットフォーマーに置き換えられた。
最近は金価格に連動したゴールドというステーブルコインが人気だ。このままインフレが続くなら資産は金でもつほうがいいのかもしれないと思うが、保守的な私はいまだに決心がつかず、いつものように3泊4日の利用料金6万円をステーブル円で支払った。
■「平等」の行きついた先
日本の会社もグローバルスタンダードに合わせなくてはならなくなって、正社員と非正規の区別はなくなり、交通費は支給されず、福利厚生の類もすべて廃止された。公共交通機関の運賃も相次いで値上げされたので、会社まで歩けるところに泊まって、すこしでも節約することにしている。
日本社会もどんどんリベラルになり、定年制は年齢差別だとして違法とされ、大学卒業時の新卒一括採用もなくなった。
望めば何歳まででも働くことができるが、会社と合意した成績を上げられなければ簡単に解雇される。
その代わり平均以上の収入を得ているのだから、この変化を受け入れるしかない。
■多言語が飛び交う「ネオ・丸の内」
日本橋を渡って丸の内に向かう。人手不足で警備をする警察官が足りなくなり、空にはドローンが舞っている。
オフィス街の雰囲気もずいぶん変わった。ジョギングウェア姿はほとんどが外国人で、このあたりの10億円を超えるタワマンに住んでいる。会話も英語か中国語がほとんどで、たまに日本語が聞こえると、思わず立ち止まって相手の顔を確認してしまう。
東京はニューヨーク、ロンドン、パリと並ぶ人気都市ランキングの常連で、日本食レストランと治安のよさで世界中の富裕層を引きつけている。だがそこで働く日本の若者は、足立区あたりの安アパートから自転車で通うか、黒木のように近くのネットカフェで暮らしている。
AI(人工知能)がホワイトカラーのデスクワークのほとんどを代替するようになり、仕事は看護・介護や接客業などの“エッセンシャルワーク”だけになった。黒木のように、高級ホテルで海外の富裕層の世話をして、高額のチップをもらえる仕事は恵まれているのだろう。
最初に聞いたときは自虐ネタかと思ったが、「日本人に生まれてよかった」というのもわかる気がする。
■3800円のカフェモカ
温暖化によって桜の開花が早まっており、皇居の桜はこの週末に満開になりそうだ。
3月でも日中に30度を超える日は珍しくなくなったが、早朝のこの時間は東御苑の歩道を走るランナーたちの足取りもこころなしか軽い。
出社前に近くのスターバックスに寄り、3800円のカフェモカを飲むのが私のささやかな贅沢だ。
2010年代には、「ニューヨークではラーメン一杯が5000円以上する」と、驚きとともにニュースになった。その頃日本ではラーメンは庶民の味で、1000円を超えることなど考えられなかった。だがいまでは、5000円のラーメンなら安いと思うようになった。
■日本はすっかり貧乏な国になってしまった…
日本人が体験したのは、ハイパーインフレや財政破綻のような「大事件」をともなうものではなかった。毎年、すこしずつ物価が上がっていき、じわじわと真綿で首を絞められるように生活が苦しくなっていった。
物価の上昇に賃上げが追いつかず、実質賃金は10年以上にわたって下がりつづけ、日本はすっかり貧乏な国になってしまった。
1990年代は1人あたりGDPで、先進国でもっともゆたかな国だったそうだが、いまではG7で最下位まで落ち、アジアでも韓国や台湾はもちろん、タイにまで抜かれそうになっている。
いつの間にか都市部は外国人の金持ちばかりになり、観光地は「安いニッポン」を満喫する海外からの観光客で溢れた。いまや地方経済は、インバウンド消費でかろうじて成り立っている。貧乏な日本人にとっては海外旅行など夢のまた夢で、日帰り温泉がささやかな贅沢だ。

■国会前の「年金全共闘」と「反老人」
パルプ紙の高騰で紙の新聞は消えてしまったから、iPadを開いてニュースをチェックする。
電子新聞のトップは「年金全共闘」で、ウルトラマンやゴジラ、仮面ライダーなど、なつかしいキャラクターのコスプレをした1000人を超える高齢者が、「生きさせろ!」とシュプレヒコールを上げながら、国会議事堂に向かって行進した。
それに対して100人ほどの「反老人」団体が、「俺たちは捨て石じゃない」などのプラカードを掲げ、「年寄りは涅槃(ねはん)に行け!」と叫んでつかみ合いになり、警官が止めに入る騒ぎが起きたという。
1年ほど前にニューヨーク・タイムズが、「超高齢社会の末路」として年金全共闘を大きく報じた。するとSNSで話題になり、ライブ配信で投げ銭を稼げることを知った高齢者たちが奇抜なコスプレを競い合うようになったのだ。
彼らが集まる国会議事堂前は、いまでは外国人観光客がインスタ映えを求める人気の撮影スポットになっている。
■「生活保護で今日も焼肉」
公的年金には「マクロ経済スライド」という仕組みがあり、インフレではなにもしなくても年金の実質価値が目減りしていく。そうなると、生活保護を受給したほうが得になって、「氷河期世代」といわれる団塊ジュニアを中心に、全国の自治体で生活保護の申請が急増した。
このままでは制度が破綻してしまうので、政府はあわてて年金受給者は生活保護を受けられないようにした。その結果、40年間、真面目に国民年金を納めてきた者よりも、年金保険料をいっさい払わずに生活保護を受給している者のほうが、よい暮らしをするようになった。
そんな生活保護受給者の一人が、SNSに「年金なんか払う奴がバカ。制度をハックして、生活保護で今日も焼肉」と写真付きで投稿してひとびとの怒りが爆発した(のちにこの投稿はフェイクだと判明したが、もはや手遅れだった)。

こうして自然発生的に高齢者が国会議事堂周辺に集まるようになり、年金全共闘と呼ばれるようになったのだ。
■河川敷のダンボールハウス村
当初は1日1食で生きている高齢者への同情もあり、「生きさせろ!」デモは多くの支持を集めた。それを利用して政府は生活保護の受給資格を年々きびしくし、いまでは不治の病か重度の身体障害がないと申請は認められない。
都市部ではホームレスが激増し、1990年代のバブル崩壊後から半世紀以上たって、上野恩賜公園や新宿中央公園、荒川や多摩川の河川敷にふたたびダンボールハウス村が出現した。
ホームレスや貧困高齢者は、ボランティア団体が行なう炊き出しでなんとか食いつないでいる。
こうした炊き出しの多くは、中国や韓国・台湾、最近ではタイやベトナムなど東南アジアの慈善団体によって行なわれている。日本のNPOには、もはやそれだけの資金がないのだ。炊き出しを手伝うボランティアのなかには、アフリカ系や中東系の若者の姿も多い。
■「衰退途上国」ニッポン
皮肉なのは、貧困にもかかわらず日本人の平均寿命がさらに延びていることだ。
これには研究者たちも困惑して、「年金全共闘のようなデモが高齢者に自己実現とコミュニティ感覚を与えている」という論文が一流学術誌に掲載されて話題になった。
だとしたら、世界から「衰退途上国」と揶揄(やゆ)されても、国民が健康で、若者は推し活、高齢者はデモで生きがいを見つけられる日本はやはりよい国なのかもしれない。

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橘 玲(たちばな・あきら)

作家

1959年生まれ。
早稲田大学卒業。2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。同年、「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部を超えるベストセラーに。05年の『永遠の旅行者』が第19回山本周五郎賞候補に。『言ってはいけない 残酷すぎる真実』で2017新書大賞受賞。著書に『「読まなくてもいい本」の読書案内』(ちくま文庫)、『テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想』(文春新書)、『スピリチュアルズ 「わたし」の謎』(幻冬舎文庫)、『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』(集英社)など多数。

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(作家 橘 玲)
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