※本稿は、呉座勇一『軍師の日本史』(角川新書)の一部を再編集したものです。
■『軍鑑』が描く山本勘助の実像
「市河家文書」の武田晴信書状などの発見により、山本勘助は『軍鑑』によって創作された架空の人物ではなく、武田家に実在した家臣であったことが確定した。では、山本勘助は「軍師」、あるいは軍師的存在だったのだろうか。『軍鑑』には、勘助が他国者でありながら、武田信玄に才能を認められ、「足軽大将」に登用された人物であるという記述は見えるが(巻九下・品二十八)、「軍師」であると書かれた箇所はない。
信玄が勘助をしばしば召し出して軍略や築城について尋ねていることや、勘助が合戦の際に妙策を進言して武田軍の危機を救ったことが『軍鑑』に見える。その点を重視すれば、勘助を軍師的存在と評価することはできるかもしれない。
ただし『軍鑑』には、勘助ほど頻繁ではないものの、信玄が他の家臣を呼び寄せて意見を尋ねている事例が見られる。『軍鑑』においても、勘助は信玄の唯一の相談役という位置づけではない。
武田氏研究者の笹本正治(ささもとしょうじ)氏は「『甲陽軍鑑』に記された山本勘助なる人物については、様々な点で問題がある。少なくとも、ここに記されたままの人物が存在したと考えるのには無理がある。もし存在したとしても、そこには様々な脚色が加えられており、実態とは異なる。
とりわけ、『甲陽軍鑑』の筆者、編者によって意図が加えられている可能性が高い。少なくとも、我々の考える歴史の本と『甲陽軍鑑』とは全く異なることを肝に銘じなくてはならない。武田晴信書状の山本菅助と『甲陽軍鑑』に記された山本勘助を簡単に結びつけるべきではない」と注意を喚起している。
■「軍配者」と「軍師」のあいだ
ところで『軍鑑』には、勘助を「軍配鍛錬の者」と呼んでいる箇所はある。すなわち、「永禄4年に河中島合戦之時討死せし山本勘介(原文ママ)は、信玄公旗本に足軽大将の中、五人すぐられたる名人と云ひ、是も軍配鍛練の者なり」(巻二・品第七)と記されている。勘助は信玄の足軽大将の中で五指に入る優れた武将であり、同時に「軍配鍛錬の者」だったというのだ。
ここで言う「軍配鍛錬の者」とは、「軍配者」のことだろう。『軍鑑』は、勘助が吉凶の日取りを占う術に精通していたと記しており、勘助を合戦に際して日時や方位方角の吉凶を占う「軍配者」として造形していると考えられる。
ただし『軍鑑』は、勘助を純然たる「軍配者」としては描いていない。『軍鑑』は武田の代表的な「軍配者」として小笠原源與斎(おがさわらげんよさい)という人物を紹介している。
小笠原は、風呂に入り戸を押さえさせ、人に気づかれないよう外に出たり、夜の会合の時、座席の向こうに山があれば、山にいくつも火を立てたりすることができたという。不思議な霊力を持つ神秘的な存在と言えよう。
一方、勘助は小笠原のような「奇特」(超能力)を持っていなかったと『軍鑑』は記している。『軍鑑』は勘助を超人的な呪術者としてではなく、現実的な軍略家として描いているのだ。
■作戦の天才として理想化された可能性
先の記事で指摘したように、戦国大名の軍隊は弓衆・鉄砲衆・長柄(ながえ)(長鎗(ながやり))衆・騎馬衆などの部隊に編成されていた。戦場で臨時に編成しているだけで、日常的な集団訓練を経ているわけではないが、各々の領主の軍勢の寄せ集めである戦国以前の軍隊より組織化されたことは事実である。
そのような進化した軍隊を動かすには呪術的な軍配者だけでは不十分で、合理的な作戦指揮能力を持つ武将が求められるようになったのではないか。
いわゆる「啄木鳥の戦法」は作戦と呼ぶには単純すぎるようにも思えるが、戦国大名の軍隊は近代の軍隊と異なり複雑巧緻な作戦を実行することができないので、「啄木鳥の戦法」程度が現実的な作戦だったのだろう。
武田家には全軍に号令を下す「軍師」は存在しなかったと見られる。けれども、軍隊の大規模化・組織化が進む中で、作戦の立案や部隊の運用に長けた新世代の武将が台頭してきた可能性はある。そうした武将たちをモデルに、作戦の天才として理想化された存在が山本勘助だったのではないだろうか。
■山本菅助は信玄の側近とは言い難い
歴史的に実在した山本菅助は、具体的にどのような活動をしていたのだろうか。史料に即して確認しておきたい。「市河家文書」によれば、弘治(こうじ)三年(1557)に勃発した第三次川中島合戦において、上杉謙信に攻められ、援軍を求めていた市河藤若(ふじわか)(北信濃の有力領主)のもとに武田信玄が使者を派遣した。
続いて、「真下家文書」を見てみよう。天文17年4月吉日武田晴信判物は、山本菅助の
信濃国伊那郡での戦功を称賛し、百貫文という大幅な加増を約束している。さらに年未詳4月20日武田晴信自筆書状で、信玄は菅助に重臣の小山田氏の病状を見舞い、甲府に帰還して報告するように指示している。
こうした活動を見る限り、菅助は足軽大将クラスと評価し得る。しかしながら、信玄の側近的存在とまでは言い難い。平山優氏は、武田家では、他国衆は実力があっても足軽大将クラスまでしか昇進できないことが多いと指摘している。
権力の中枢に登用された者は、尾張出身で信玄・勝頼の側近として活躍した秋山万可斎(あきやままんかさい)など、ごく少数しかいない。したがって菅助が信玄の「軍師」であったとは考えられない。
『軍鑑』によれば、山本勘助は海津城を築いており、これが史実だとすれば、実在の山本菅助は、海津城代で『軍鑑』の生みの親である春日虎綱(高坂弾正)と交流があったと思われる。
春日虎綱と親交があった菅助という実在の人物を主なモデルとして、『軍鑑』は「山本勘助」なる虚実入り混じったヒーローを創造したと推定しておきたい。
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呉座 勇一(ござ・ゆういち)
国際日本文化研究センター研究部准教授
1980年生まれ。
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(国際日本文化研究センター研究部准教授 呉座 勇一)

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