※本稿は、渡邊大門『信長包囲網の真相』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
■不満だった順慶の大和支配
松永久秀は信長に降参して以降、その動静が必ずしも明らかではない。天正3年(1575)3月、信長は塙(ばん)(原田)直政に大和支配を命じた。一方で同年11月から翌年3月にかけて、久通(久秀の嫡男?)は筒井氏に通じていた十市常陸介の十市城(奈良県橿原市)などを攻撃した。
久通は織田方に与していたのだから、一連の攻撃は直政の命令による可能性が高い。松永氏は大和の支配権を失ったが、久通は龍王山城(同天理市)を、久秀は信貴山城をそれぞれ居城とした。
天正4年(1576)5月、久通は大坂本願寺攻めに出陣したが敗北した。一時、久通は戦死したとの噂が流れたので、かなりの苦戦を強いられたのだろう。その際、大和国を支配していた直政が戦死したが、信長は直政の死を悼むどころか、敗戦に激怒して塙一族を捕らえたのである。
直政の戦死後、信長は順慶に大和支配を命じた。かつて久秀は順慶と大和の支配権をめぐって争ったので、内心では複雑な感情を抱いたことだろう。
■泣く泣く多聞山城を破却
久秀にとって、さらにショックだったのは、信長の命により多聞山城が同年6月に破却されたことである。信長は他国を征服すると、軍事施設である城の多くを破却した。不要な城を残しておくと、抵抗勢力の拠点となる可能性があったので、破却されたと推測される。残されたのは、支配拠点となる限られた城だけとなった。
久秀が多聞山城を築いたのは、永禄2年(1559)のことである。多聞山城は平山城で、奈良を支配するための拠点だった。城内は本丸のほか、主殿などの建物が立ち並び、見事な庭園や茶室もあった。室内には、狩野派の絵師による絵画が飾られていた。
一説によると、室町幕府の将軍の居所「花の御所」を真似したともいわれている。薩摩の島津家久が多聞山城を訪問したとき、「楊貴妃(ようきひ)の間」があったことが記録されるなど、中世においては先駆的な城だったと指摘されている。
天正4年(1576)6月以降、多聞山城の破却は粛々と進められ、破却後の建物は京都に移転する計画だった。久通は信長から多聞山城の家壊奉行(城割を担当する奉行)を命じられ、順慶とともに破却の作業を担当した。
■安土城のパーツとされた屈辱
多聞山城の4階櫓は、当時、築城中だった信長の居城・安土城(滋賀県近江八幡市)の一部に転用された可能性があるという。こうして同年7月、多聞山城の破却はほぼ終わったのである。
久秀は大和支配の望みを絶たれたことに加え、自らが骨を折って築いた多聞山城も徹底して破却された。この2つの理由により、久秀・久通父子は信長に兵を挙げる決意を固めたと考えられる。
大和の支配権を奪われた久秀・久通親子は佐久間信盛の与力として、大坂本願寺を攻撃すべく、天王寺(大阪市)の付城に詰めていた。ところが、天正5年(1577)8月、久秀・久通親子は突如として織田方から離反し、信貴山城に立て籠った。
むろん、自棄(やけ)になって信長に兵を挙げたわけではない。当時、「信長包囲網」を形成していた、足利義昭、毛利輝元、大坂本願寺などの動きに呼応したものだろう。
久秀の謀反は急に思いついたものではなく、周到に計画されたものだった。久秀没後の同年10月11日、本願寺の坊官・下間頼廉(しもつまらいれん)が紀伊の雑賀御坊惣中に送った書状により、その全貌が判明する(「鷺森別院文書」)。
■信長の使者を追い返した
そこには、雑賀衆が久秀の挙兵に応じて和泉に出陣したこと、本願寺が毛利氏に水軍の派兵を求めたこと、上杉謙信が加賀・能登で勝利したことを伝えた。事実、毛利氏は義昭を上洛させるべく、同年5月に播磨に出陣するなどし、瀬戸内海での制海権の確保を目論んでいた。
久秀の謀反を知った信長は、配下の松井有閑(ゆうかん)を信貴山城に派遣し、翻意を促そうとした。しかし、久秀の決意は固く、使者の有閑に会おうともしなかったのである。信長による久秀への懐柔策が失敗し、両者は雌雄を決することになった。久秀は織田方を迎え撃つべく、約8000の軍勢とともに信貴山城に籠ったのである。
同年9月、信長は筒井順慶、明智光秀、細川藤孝を信貴山城に遣わした。同年10月、織田方の軍勢が松永方の片岡城(奈良県上牧(かんまき)町)を攻撃すると、籠っていた森氏らは自害して果てた。
同日、劣勢に追い込まれた久通も柳本城で自害したというが、その死の経緯については諸説ある。戦いが開始されて間もなく、松永方はたちまち劣勢に追い込まれたのである。
■焦土の果てに流れた血
織田方の総大将を務めた織田信忠(信長の嫡男)は、同年10月3日に信貴山城に押し寄せると、たちまち城下を焼き払った。同年10月5日、信長は人質だった久通の息子について、京都市中を引き回しにしたうえ六条河原で処刑した。
2人の息子は、まだ12歳と13歳の子供だった。一説によると、そのうちの1人は松永孫六(久秀の甥)の息子で、まだ14歳だったという。
同年10月10日、攻勢を強めた信忠ら織田方は、信貴山城に夜襲を仕掛けた。これにより観念した久秀は、自害して果てたのである。『多聞院日記』には、久秀が切腹して城に火を放ったと書かれている。
一方、『信長公記』は、久秀が信貴山城の天守に火を掛け、焼死したと記している。こうして久秀は、波乱に富んだ生涯を終えたのである。享年70。その後、久秀らの首は、安土城に運ばれたのである。
ところで、10月10日という日は特別な日でもあった。久秀が自害したちょうど10年前の10月10日は、久秀が三好三人衆と戦い、東大寺大仏が焼失した日だった。しかも、それは同時刻で、翌日に村雨(むらさめ)が降ったことも同じだったという。
■「平蜘蛛とともに爆死」の真相
『多聞院日記』の記主・多聞院英俊は、あまりの偶然の一致に「奇異の事也」という言葉を漏らした。まさしく、因果応報といえよう。
久秀の最期に関しては、平蜘蛛(ひらぐも)の茶釡に火薬を詰め、爆死したという話が広く知られている。これまで久秀は信長に名物の茶器を献上していたが、平蜘蛛だけは絶対に渡さないという執念が感じられる。太田牛一の『大かうさまくんきのうち』には、松永父子、妻女、一門が天守に火を掛け、平蜘蛛の茶釡を打ち砕いたうえで焼死したと書かれている。爆死とは書かれていない。
川角三郎右衛門の『川角太閤記』には、久秀の首は鉄砲の火薬で焼き割って、粉々に打ち砕き、それは平蜘蛛の茶釡も同じだったと記されている。17世紀初頭に成立した『老人雑話』にも、同様の話を載せている。
久秀が平蜘蛛の茶釡とともに爆死したというのは、『川角太閤記』や『老人雑話』の記述に基づくものだろう。先述のとおり、久秀らの首は安土城に運ばれたのだから、火薬で粉々に爆破されたわけではない。
■なぜ援軍が来なかったのか
久秀の敗因の一つは、本願寺や毛利氏による義昭の上洛作戦が、思ったほど功を奏しなかったことにあろう。謙信も西上の途についたが、加賀で柴田勝家に勝利しながらも、能登の平定を優先して引き返した。
信長は久秀に苦しめられつつも、何とか勝利することができた。しかし、以降も信長に兵を挙げる大名が続出し、戦いは続いたのである。
本章では、松永久秀の動向を通じて、彼がいかにして戦国の動乱の中を生き抜き、最終的に織田信長と決定的に対立するに至ったのかを検討してきた。久秀は出自の明らかでない人物でありながら、三好長慶に仕えることで頭角を現し、やがて大和一国を支配するまでに至った。その歩みは、戦国時代が持つ流動性と、実力によって身分を超え得る時代の特質を象徴するものだったといえる。
■権威と威信を守るために戦った
とりわけ注目されるのは、久秀が単なる謀反人や奸雄(かんゆう)として片付けられる存在ではないという点である。三好家の衰退後、三好三人衆との主導権争いを経て信長に接近した久秀の行動は、自己の勢力を維持し、生き残るための現実的な判断に基づいていた。
信長の上洛に際していち早くこれに与し、大和支配の安定を図ったことは、情勢を的確に読み取った結果であり、久秀が優れた政治的判断力を備えていたことを示している。
しかし、久秀の立場は決して安定したものではなかった。大和国では筒井順慶という強力な対抗勢力が存在し、畿内では三好三人衆や本願寺など多様な勢力が入り乱れていた。その中で久秀は、義昭や信長との関係を利用しつつ勢力を維持しようとしたが、畿内の政治構造が変化するにつれ、次第に孤立を深めていった。特に義昭が順慶と結び、久秀との関係を断ったことは、久秀の政治的基盤を大きく揺るがす転機となったのである。
さらに重要なのは、信長との関係の変化である。久秀は一度信長に降伏し、その後も従属関係を保ったが、大和支配権の喪失や多聞山城の破却など、自らの権威と威信を損なう措置が続いたことは看過できない問題だった。
■裏切りたくて裏切ったわけじゃない
多聞山城は単なる軍事拠点ではなく、久秀が長年かけて築き上げた支配の象徴でもあった。その城が徹底して破却されたことは、久秀の政治的存在を否定するに等しい意味を持っていたと考えられる。こうした状況の中で起こった天正5年(1577)の挙兵は、決して衝動的なものではなく、当時の「信長包囲網」を形成していた諸勢力の動きと連動した、周到な計画に基づく行動だったと理解すべきであろう。
久秀は本願寺や毛利氏、上杉謙信らの動向を見極め、反信長勢力が優勢に転じる可能性に賭けたのである。しかし、その見通しは結果として外れ、援軍が到来しないまま信貴山城は孤立し、久秀は自害へと追い込まれた。
以上のように、松永久秀は「裏切りを重ねた梟雄(きょうゆう)」という単純な評価では捉えきれない、多面的な人物だった。彼の行動は、畿内の複雑な政治環境と密接に結びついており、その選択の一つ一つは当時の情勢の中で理解されるべきものである。
そして久秀の最終的な決断と敗北は、「信長包囲網」が必ずしも一枚岩ではなく、各勢力の思惑や地域事情によって左右された脆弱な連携であったことを象徴している。
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渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
歴史学者
1967年生まれ。1990年、関西学院大学文学部卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。
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(歴史学者 渡邊 大門)

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