NHK「豊臣兄弟!」では、有岡城の荒木村重が怖気づき、妻子らを捨てて逃げ出すシーンが描かれる。村重といえば“卑怯者”として描かれることが多いが、実際はどのような人物だったのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に実像に迫る――。
■荒木村重は“戦う気満々”だったか
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。6月21日放送の第24回ではついに有岡城が落城する。
小一郎(仲野太賀)の活躍によって兵糧を断たれた荒木村重(トータス松本)。進退窮まって、牢に監禁している官兵衛(倉悠貴)にまで策を求める始末。そして、村重は妻の、だし(山谷花純)に皆の命を救うため信長(小栗旬)に頭を下げるべきだと説得される。
しかし、一度は妻の助言を聞いた村重だが、直前になって怖じ気づいて妻子を残したまま逃亡。こうして有岡城は落城し、だしらは六条河原で処刑されるのだった……。
なんともやりきれない展開は、史実に基づいたもの。しかし、史実でも村重は大いに誤解されている。村重は決して、妻子を残して逃亡したのではない。いや、結果的に逃亡になってしまったわけだが、敗北したのではない。
まだまだ戦う気満々だったのだ。
そう、村重にとって、これは戦略的な撤退にすぎなかったのだ。
天野忠幸「荒木村重の戦いと尼崎城」(『地域史研究』114号、2014年)では『信長公記』が「五・六人召列、伊丹を忍出、尼崎へ移り候」と記したことが、後世になって村重が妻子や家臣を見捨てて単身逃亡したと評価されるようになったとし「この『信長公記』の記述は正しいのだろうか」と疑問を呈している。
ここで天野が取り上げるのは、毛利水軍の武将だった乃美宗勝に宛てられた書状(『新熊本市史史料篇二』熊本市、1993年に所収)である。
■“戦闘行動”として城を出た
この書状には、村重が尼崎城に向かった様子が詳細に記されている。
尚々御人数之事、先早々奉待候、為之如此候、

急度令啓候、仍於三木表被得大利之由風聞候、於必定ハ御手柄不及申計候、随而敵今朝未明ニ此表へ取寄候、中将殿も自身被動、即小屋以下をもかけ申候、就其此方人数漸御前衆かけて六・七百計立候事、無人と察候条、早々御人数被差返候て可給候、いたみ九兵(伊丹九兵衛)よりも被仰越候、御油断ニてハ八曲有間敷候、其上□一刻も早く先至花熊、御上奉待候、委細日志可申入候、恐々謹言、

(天正七年)九月十一日 荒摂 村重(花押)
【筆者訳】

なおなお、応援の軍勢のことは、とにかく一刻も早くお待ち申し上げております。そのためにこのように(書状をしたためて)おります。
急ぎ申し上げます。かねてより、三木の戦場(別所方の三木城包囲戦)において、(我が方が)大勝利を収めたという噂を耳にいたしました。それが間違いのない事実であれば、そのお手柄は言葉に尽くせないほど見事なものです。
しかしながら、その一方で、敵(織田軍)は今朝の未明にこちらの戦線へと攻め寄せてまいりました。織田信忠(中将殿)も自ら出陣して指揮を執り、すぐさま(我が方の城を包囲するための)小屋(陣小屋)などを建て並べております。

これに対し、こちら側の軍勢は、そちらにおられる側近の皆様(御前衆)を合わせても、ようやく六、七百人ほどが踏みとどまっているという有様です。敵からも「(有岡城内は)もはやもぬけの殻(無人)だ」と見透かされている様子ですので、どうか大至急、そちらの軍勢をこちらへ送り返していただきたいのです。
この件については、伊丹九兵衛からも(そちらへ)状況を伝えてあるはずです。決して油断があっては、万に一つも(この難局を乗り切ることは)できません。
その上で、何としても一刻も早く、まずは花隈(城)へお急ぎいただき、(毛利からの)上使(援軍の使者)をお迎えください。詳しい状況は日志(使者の名前)に口頭で伝えさせます。恐々謹言。
天正七年九月十一日 荒木摂津守村重(花押)

■戦線を組み替えた指揮官の行動
この書状から何が読み取れるか。
この時点で織田方は、有岡城だけでなく、尼崎城も攻撃をしている。しかも尼崎城を攻撃しているのは織田信忠。それも、尼崎城の周囲に包囲するための小屋も築いている状態だ。
対する尼崎城は、村重が有岡城から連れてきた家臣を含めても6~700人しかいない。
既に家臣の伊丹九兵衛を、宗勝に派遣して毛利の援軍を花隈城に送るよう依頼している。今回、新たに日志という家臣も送るので、一刻も早く毛利の援軍を送ってくれ、というわけだ。
書状を書いた日付は9月11日、有岡城を出てからわずか9日後だ。村重はすでに尼崎城から毛利方へ援軍を催促し、花隈城への増援を求め、使者を二人も動かしている。逃げた男の行動ではない。戦線を組み替えた指揮官の行動だ。同時に、尼崎城も攻撃されているのに毛利の援軍が到着しないことに、いらだっている様子も窺える。
『信長公記』によれば、情勢が動いたのは11月19日になってからだ。この日についに、家臣の荒木久左衛門(本名は池田重成)は開城を決意し、織田信澄が入城することとなった。
同時に、久左衛門は、織田方と尼崎・花隈の二つの城を明け渡して降伏すれば妻子を助けるという条件をまとめ、尼崎城の村重を説得することになった。
■“説得はうまくいかない”とわかっていたか
ところが『信長公記』をみると、この説得は最初からうまくはいかないことがわかっていたようだ。というのも、この記述の後に久左衛門が次のような歌を詠んだとしている。

いくたびも 毛利を頼みに ありをかや けふ思ひたつ あまのはごろも
【歌の意味 *筆者訳】

何度も「毛利の援軍が助けに来てくれる」と信じて、ここ有岡の城で待ち続けていたのだろうか。それなのに、ついに見捨てられたと知り今日この地を思い切って旅立つ、あま(天=尼)の羽衣のように……。

完全に「殿!! いくら待っても毛利の援軍なんか来ない。なんで来ないのがわかっていても降伏しないんだ」という心境である。
■“不安な妻子ら”は、覚悟を決めていたか
さらに『信長公記』のこの日の記述には、降伏後城内に止めおかれて、不安な妻子らは村重に歌を送り、村重も返歌したと記している。例えば、お千代なる女性とのやりとりはこうだ。
此ほどの 思ひし花は ちり行て 形見になるぞ 君が面かげ
【歌の意味 *筆者訳】

これまで大切に思われ、美しく咲いていた(私たちという)花は、もう散っていってしまいます。これからは、あなたの心の中に残る私たちの面影だけが、せめてもの形見となるのでしょう。

荒木返歌

百年に 思ひし事は 夢なれや また後の代の 又後の世は
【歌の意味 *筆者訳】

百年(末永く)一緒にいようと願っていたことは、すべて儚い夢だったのだろうか。せめて、来世の、そのまた次の来世(生まれ変わった遠い未来)でこそは、再び一緒になろう

おそらくは創作だろう。作者である太田牛一は記録を取ることに熱心だったようだが、さすがに城内の様子までわかるはずがない。ともあれ村重は絶対に降伏しない=私たちは全員処刑と覚悟を決めていたことがうかがえる。

実にその通りで、前述の久左衛門は村重を説得することはできなかった。当然である。有岡城が落ちようとも、海に面した二城があれば、毛利水軍による補給はでき、継戦は可能。村重にしてみれば「まだ戦えるのに、降伏など論外」である。
こうして、説得に失敗した久左衛門は淡路岩屋に逃れた(谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年)とも、剃髪して落ち延びた(香村菊雄『謎の武将荒木村重と伊丹城』神戸新聞出版センター、1983年)ともいわれている。
■「哀れな様子は、言葉では言い尽くせないほど」
こうして絶望的な状況で捕虜になった有岡城の人々。『信長公記』では、12月1日にこんなことが起こったと記している。
十二月朔日、丹波より居る上せ、進上。
さる程に、伊丹の城に女どもの警固として、吹田(すいた)、泊々部(ほっかべ)、池田和泉、両三人残し置き候とのところに、城中の様子、何と見究め申し候やらん、池田和泉、一首をつらね、
露の身の消ても心残り行なにとかならんみとり子の末
と、よみ置き、其の後、鉄炮に薬をこみ、おのれとあたまを打ちくだき、自害仕り候。弥(いよいよ)、女房ども、心も心ならず、尼崎よりの迎へを、おそしはやしと、相待ち、哀れなる有様、中々申すばかりも是れなし。
【筆者訳】

十二月一日、丹波(明智光秀らの軍)より城を受け取りにやって来て、(織田方に城を)進上した。
そういうわけで、伊丹の城(有岡城)に女性たちの警護(監視役)として、吹田、泊々部、池田和泉の二、三人が残し置かれたということだ。
城の中の様子を、一体どのような気持ちで見極めようとしたのだろうか。池田和泉が一首の歌を詠んだ。
露のように儚い私の命が(ここで自害して)消え去ってしまおうとも、どうしても心残りでならない。まだ物心もつかない、みとり子(幼子・赤ちゃん)のこれからの行く末は、一体どうなってしまうのだろうか
と、詠み置いて、その後、鉄砲に火薬を詰め、自分自身の頭を撃ち砕いて自害いたしました。いよいよ、女房(妻)たちも、どうすることもできず、尼崎からの(処刑場へ連行するための)迎えを、「遅いか早いか」とただ待ち受けている、その哀れな様子は、言葉では言い尽くせないほどであります。

この池田和泉守は、久左衛門が去った後の城中の責任者だったようで、まさに進退窮まってのことだったのだろう。
■『信長公記』にも見えた“村重への怒り”
こうして、捕らえられた妻子は尼崎で、村重の一族は京で処刑されることが決まった。『信長公記』では12月13日に尼崎で五百十余人が処刑、16日に一族と重臣の妻子は洛中を引き回しの上で六条河原で斬首されたという。
『信長公記』は太田牛一本人もみていたのか、この記述が長い。その上で、よっぽど凄惨だったのか、牛一は、最後にこう記している。
栴檀(せんだん)は、二葉よりしてかんばしく、荒木一人の所為(しわざ)にて、一門親類上下の数をえ知らぬの御僧達、死後を取り隠し申さるゝ生便(おびただ)しき御成敗、上古よりの初めなり。
【筆者訳】

「栴檀(せんだん)は双葉のころから芳しい香りを放つ」ということわざの通り、(まだ幼くとも健気に最期を迎えた子供たちであった)。すべては荒木村重、ただ一人のしでかした事(謀反と逃亡)のせいで、一門や親類、身分の上下も分からないほどの多くの人々や僧侶たちが(巻き添えになり)、その死体を取り片付けることすら追いつかないほどの、この凄まじい大量処刑は、大昔から聞いたこともない前代未聞の出来事である。

「生便(おびただ)しき御成敗、上古よりの初めなり」と記しているあたり牛一も「村重ひとりのせいで、とんでもないことになってしまった。こんな処刑、大昔から聞いたこともない」という素の感情がそのまま出てしまっている。単なる同情ではない、こんなに大勢の女性や子供、中には妊娠している者まで処刑されているのに村重は逃亡している、という怒りが出ている。というか、どういう意図なのか、主な者の名前とか身重であるとか、やたらと詳細で気持ち悪い。
■家族が処刑されるも、村重は花隈城へ
こうして家族も皆処刑されてしまった村重だが、まったく抵抗は諦めていない。翌年3月になると、花隈城に移り、まだ死闘を繰り広げている。
閏三月二日、御敵城鼻熊(はなくま)より池田勝三郎取出(とりで)へ人数を出だし候。則ち、足軽ども取合せ候のところ、池田勝九郎・池田幸新兄弟、年齢十五、六。誠に若年にて、無体に懸け込み、火花を散らし、一戦に及ばれ、父池田勝三郎、これ又、懸け付け、鎗下(やりした)にて究竟(くきょう)の者五、六人討ち捕り、兄弟高名比類なき働きなり。
【筆者訳】

閏3月2日、敵の城である花隈城から、池田勝三郎(恒興)が守る砦へと(荒木軍が)軍勢を出撃させてきた。すぐに(織田方の)足軽たちが応戦したところ、池田勝三郎の息子である池田勝九郎(元助)・池田幸新(輝政)の兄弟、年齢はまだ15、16歳であったが、本当に若い身空でありながら、向こう見ずに(敵陣へ)突撃し、火花を散らす激しい戦闘を展開した。
父の池田勝三郎もこれを聞いてすぐに駆け付け、激しい白兵戦(槍の下)のなかで敵の屈強な武者5、6人を討ち取った。この兄弟の手柄は、比類なき見事な働きであった。

■降伏どころか、戦いを継続した村重
どうだろうか? 有岡城に残した身内を皆殺しにされたというのに、村重は絶望して降伏するどころか、移転先の「花隈城(鼻熊)」をベースに戦いを継続している。攻め寄せてくるのは、旧知の池田恒興(勝三郎)である。もう血みどろの戦いだ。これは決して絶望的な戦いではない。拠点を維持しているだけで織田軍の行動を阻害できる。そのことを村重は完全に理解して戦っている。
だから、前述の天野論文はこの処刑の効果についても明確に結論を出している。
ところが、尼崎城や花熊城の城兵の結束は全く揺るがず、見せしめの効果は全くなかった。信長の戦略も破綻し、単なる憂さ晴らしに終わったために、江戸時代には太田錦城の『梧窓漫筆』などに、信長の残虐さの象徴として、荒木一類の処刑が挙げられている。
信長が「前代未聞」の大量処刑で村重を屈服させようとした判断は、完全に裏目に出たのだ。
■背景にあった“毛利氏との関係”
さらに、村重が卑怯な逃亡をして無駄な抵抗をしていたのではないことを分析してみよう。
実のところ、尼崎城と花隈城を維持している限り、織田軍の勝利は困難である。尼崎城は現在も残る尼崎城とは違い、尼崎市大物2丁目付近にあった城。花隈城は神戸市中央区花隈町付近にあった城である。どちらも、当時は海岸にほど近い城で、海を利用して毛利氏との連絡線が維持されていた。
毛利水軍は、1578年11月の第二次木津川口の戦いにおいて、新たに建造された鉄で装甲された大安宅船を持つ織田方の九鬼水軍に敗れたとされる。しかし、現実では、マンガのように新兵器で情勢が一発逆転することはあり得ない。
この敗北で、毛利水軍は大阪湾の完全な制海権を失いはしたものの、依然として尼崎城や花隈城を拠点に勢力を維持していた。
特に古来の港町である大物浦を押さえる尼崎城は、石山本願寺の目と鼻の先である。巨大船を投入して毛利水軍に勝った織田軍だが、依然として毛利氏や雑賀衆の軍勢が悠々と上陸できる状況が残っており、制海権も掌握できていなかった。
■「毛利の援軍が来なかった」村重の誤算
つまり、信長からしてみると有岡城を確保したところで、危機的な状況は終わっていない。その焦りが、『信長公記』に「上古よりの初めなり」に記されるほどの苛烈な処刑へと繋がったのである。
村重としては妻子の死を嘆きながらも「信長はいよいよ追い詰められている」と確信したのではなかろうか。
村重の戦略はまったく間違っていなかった。
唯一の誤算は、前述の村重の書状にも見られるように、毛利輝元が援軍を出し渋ったことである。天野論文では、輝元が一度は尼崎城に軍勢を送っていたが、宇喜多直家が裏切ったことで、安芸の防備を固めるために呼び戻していたのではないかと指摘している。
この時の状況をみると、東では武田勝頼も活発に動いている。雑賀衆も援軍を送り込んでいる。決戦の地はここである。なのに、一人だけ明後日の方角で防備を固めて悦に入っているヤツがいる。つまり、敗戦の責任はすべて毛利輝元。もはや、戦国一の無能と呼んでも誰も批判しないレベルで……。
■勝ったのは、最後まで生き延びた村重
こうして、花隈城で敗北した後、尾道に逃れ、さらに抵抗を企図した村重だが、本能寺の変で信長が死んだことで事態が変わった。のちに、村重は豊臣秀吉に召され茶人として仕えることになった。
この時、自ら名乗ったとされる号が「道糞」である(後に「道薫」と改名)。
普通、再起をかけて新しい世界に飛び込むなら、品の良い名前を選ぶものだろう。なのに、わざわざ「糞」だ。これは卑下でも自虐でもない。「お前らが何と呼ぼうが知ったことか、俺はまだ何も終わっていない」という、世間への開き直りの宣言である。
妻子を見捨てた卑怯者と、さんざん言われてきた。だったら名前くらい、好きに名乗らせてもらう。村重にとって「道糞」とは、敗者の自嘲ではなく、まだ戦っている男の捨て台詞だったのではないか。
秀吉からすれば、こんな男を粛清するわけにはいかない。妻子を皆殺しにされてなお屈しなかった男を処刑すれば、世間は「秀吉も信長と同じ」と見るだけだ。かといって冷遇すれば、それはそれで器の小ささを露呈する。結局、秀吉にできたのは「や~こんにちは、私、道端の糞です」とか、ニコニコしてる男を丁重に迎えることだけだった。
信長は村重を屈服させられなかった。秀吉は村重を処断することすらできなかった。最後まで生き延び、最後まで頭を下げなかった村重……勝ったのは、信長でも秀吉でもなく、村重だったのかもしれない。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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