■織田信長の絶頂だった「馬揃え」で起きた“変事”
天正9年(1581)2月28日、織田信長は京都で大規模な「馬揃え」を催した。「馬揃え」とは名馬や精鋭部隊を集めての一種の軍事パレードで、イエズス会宣教師のルイス・フロイスによれば、参加者は13万人を超え、20万人もの群衆が集まったという。
武将たちは可能なかぎり華やかに着飾って参加するように命じられていた。そこで、たとえばキリシタン大名たちは、ロザリオや大きな十字架、西洋風のマント、十字架がついた馬覆い、金の房がつきローマ字が染め抜かれた真っ赤な旗、といったいでたちを競い合った。
信長はというと、金紗という唐織物を身に着け、後ろに花を挿した帽子をかぶり、紅梅に白の模様の華麗な小袖をまとい、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノから贈られた黄金の装飾がほどこされた真っ赤な椅子に座った。
この馬揃えは単に派手だっただけではない。明治維新を迎える前の日本で、もっとも西洋色が強まった瞬間だったと思われる。
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第25回「変事の予兆」(6月28日放送)でも、この馬揃えの模様が描かれる。そして、女物の装束をまとって参加していたある武将が、小一郎(仲野大賀、のちの羽柴秀長)と会話を交わすようだ。
■本能寺の変の原因
その武将とは四国の覇者、長宗我部元親(磯部寛之)だった。
ところが、少しすると織田信長(小栗旬)は明智光秀(要潤)を呼んで、元親による四国平定を認めないと言い渡す。光秀は大いに困惑するが、信長は光秀にこう伝えるようだ。「気が変わったのじゃ。うまく説き伏せよ」。
サブタイトルは「変事の予兆」。史実においても、信長が光秀に言い渡したことが「変事の予兆」だった可能性が高い。というのも、馬揃えから1年3カ月後の天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変の原因としては、現在、この「四国説」がもっとも有力視されているのである。
その内容についてこれから述べるが、ごく簡単にいえば、長宗我部元親の四国平定を認めていた信長が手のひらを返し、仲介していた光秀が困ってしまった、という話である。
■信長の見事なまでの手のひら返し
長宗我部元親は、この馬揃えに5年余りさかのぼる天正3年(1575)9月、四万十川の戦いで土佐一条氏を破り、土佐(高知県)一国を完全に統一していた。次はいよいよ四国全土の攻略だったが、そこで元親に手を差し伸べたのが信長だった。
それは信長一流の戦略にもとづいていた。そのころ信長は大坂本願寺(大阪市中央区)と戦っていたが、阿波(徳島県)の三好氏が物資を搬入するなど、本願寺を後方支援することに手を焼いていた。そこで元親を助け、三好氏を討伐させようと考えたのである。天正6年(1578)10月には、元親が四国全土を攻略することを容認し、その嫡男に「信」の1文字をあたえて信親と名乗らせた。
このとき元親の取次を務めたのが明智光秀だった。元親の事績を記した『元親紀』によれば、元親の妻は、光秀の重臣として知られる斎藤利三の義理の妹だったため、光秀が取次に選ばれたのだという。
以後、光秀は一貫して元親の取次を務めたが、天正8年(1580)閏3月、信長が10年も争ってきた本願寺との和睦が成立し、同年8月には宗主の顕如が大坂から退却した。そうなると、四国全土を制覇しようという元親は一転して、信長には危険な存在になってしまった。
■間に挟まれた明智光秀の苦悩
信長が元親を危険視するようになった理由は、もう一つあった。「豊臣兄弟!」でも描かれているように、羽柴秀吉は播磨(兵庫県南西部)を、弟の秀長は但馬(兵庫県北部)を平定し、さらに淡路島も制圧して、播磨灘の制海権を獲得した。その過程で秀吉は、三好家も調略して服属させていた。そうなると信長にとって、もはや長宗我部氏の力を借りる必要はまったくなかった。
そこで信長は、天正9年(1581)9月ごろ、光秀を通じて元親に、支配地域は土佐のほかに、阿波の南半分だけで我慢するように伝えている。
だが、いまさらそんなことをいわれて、元親が納得するはずもない。3年前に四国全土を攻略していいといわれ、まさに実行中なのだ。抵抗したが、信長にとっては、自分の決定に従わないことほどけしからぬことはない。
最終的に信長は、元親の敵で、少し前まで信長の敵でもあった三好康長に、阿波一国を統治させることに決める。そして天正10年(1582)1月、光秀に命じて元親に、当初打診した阿波の南半分もあきらめ、「領国は土佐一国」とするように伝えさせた。
信長と元親のあいだに立って、苦慮したのは光秀だった。信長の道理に合わない要求を、次から次へと元親に伝えさせられ、しかも、元親からは色よい返事がもらえない。とくに「領国は土佐一国」と伝えてからは、返事自体をもらえなくなってしまった。
■なぜ6月3日に本能寺を襲ったのか
だが、光秀も放置はできない。元親が納得しなければ、自分の身が危うくなりかねないからである。光秀は元親に、信長の命令に従わなければ長宗我部家が滅亡させられる、と伝えて、必死の説得を試みた。
ところが、こうして説得している最中に、信長は元親征伐を兼ねた四国への出兵を決定してしまう。さすがに光秀は、立場がなくなったことだろう。
四国出兵の総大将は信長の三男の信孝で、出兵が予定されていた日は6月3日。すなわち、本能寺の変の翌日だった。元親の取次として立場を失った光秀が、このままでは自分および明智家にもどんな処分が下されるかわからない、と悲観しても不思議はない。その挙句、四国出兵の前日に信長と信忠父子を襲った、というのが「四国説」である。
もっとも、光秀は悲観しても、彼が信長の信頼を失っていたかどうかは、また別の話だろう。東京大学史料編纂所教授の金子拓氏は、光秀が本能寺の変の直前にも信長に信頼されていたと訴え、こう書く。「光秀は、武田攻め、家康らの接待、そして中国攻めのための出陣と、信長の命を受け休む間もなく奔走していたのである。これだけ立てつづけに重要な役目を与えられるのだから、信頼されていないはずはない」(『織田信長 不器用すぎた天下人』河出書房新社)。
■光秀以上に苦悩していた斎藤利光
しかし、佐久間信盛の例もあり、光秀は不安になっただろう。織田家の筆頭家老で長年の功労者だった信盛は、大坂本願寺との戦いが終結した天正8年(1580)8月、信長から「十九条の折檻状」を突きつけられ、高野山に追放された。
その第三条には「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に羽柴藤吉郎、数カ国比類なし」と書かれていた。日向守こと光秀は丹波(京都府中部と兵庫県北東部)で面目躍如たる働きをし、秀吉の数カ国にまたがる働きも比類ない、という内容で、それにくらべると本願寺攻略の総大将だった信盛は、消極的だったと断じられたのだ。
この時点では光秀は褒められているが、いつ自分が難詰される側に回らないともかぎらない――。そんな思いはあったのではないだろうか。
加えて、光秀以上に追い詰められていた人物がいた。光秀はその人物に背中を押されたに違いない。その人物とは、前述したように義理の妹が元親に嫁いでいた斎藤利三である。つまり、元親と光秀を結んだのが、元親の小姑である利三で、信長の四国政策が変更されたことで、光秀以上に立場を失っていたと考えられる。
■「彼こそは変の首謀者だ」
当時の公家たちはそのことを理解していたようだ。観修寺晴豊や山科言経らは、本能寺の変後に捕らえられ、京都の市中を引き回される斎藤利三を見て、「彼こそは変の首謀者だ」という趣旨のことを日記に書いている(『晴豊公記』『言経卿記』)。
いずれにせよ、本能寺の変のキーマンは、「豊臣兄弟!」にはさり気なく登場する長宗我部元親であった。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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