■安土城の象徴「天主」「総石垣」
第18回:観音寺城(滋賀県近江八幡市)
1579(天正7)年5月、3年の月日を経てついに安土城(図表1①滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)が完成。大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)第25話でも壮麗な天主が登場するようだ。
まさに天下人、新時代のリーダーにふさわしい城だったはずだ。この城、天主とともにもうひとつの大きな特徴が「総石垣」だ。全山を埋め尽くすような石垣の見応えは、信長の権威を象徴している。
安土城は革命児・信長らしい斬新な城だということは間違いない。だが歴史好きの人なら、実はその先行モデルがあった、ということは知っているかもしれない。天主については、松永久秀の信貴山(しぎさん)城(奈良県平群町信貴山)や多聞城(奈良県奈良市法蓮町1416-1)の四重の櫓を参考にしたといわれる。
【参考記事】なぜ松永久秀は信長に降伏せず「爆死」を選んだのか…居城・信貴山城跡で見えた「平蜘蛛の茶釜」伝説の真相
では、もうひとつの総石垣のモデルは……というと、実は安土城から峰続きの山城にあった。観音寺城(図表1②滋賀県近江八幡市安土町石寺)だ。
■安土城をはるかに凌ぐ巨城
六角(ろっかく)義賢(よしかた)、またの名を六角承禎(じょうてい)。京都にルーツを持つ近江国(現・滋賀県)の戦国大名だ。
この六角家の居城・観音寺(かんのんじ)城が、戦国でも稀に見るほど広大かつ凝った造りの城なのだ。特に城域の広大さは「全山=城」といっても過言ではない。さらに比高(麓からの標高差)も、安土城の105mに対して、観音寺城は325mと、およそ3倍も高い。つまり、安土城を遥かに凌ぐ標高と城域の広さを誇る居城なのだ。
脅威なのは城域や比高だけではない。城内の至るところに、石垣はじめ石造りの構築物が築かれている。それらを東から順に見てゆこう。
■尾根沿いの曲輪に残る石垣の数々
まず、城の北東端にある「伝・布施淡路丸」。基本的には土の急斜面に囲まれているが、上端部分だけ石垣が積まれている。
曲輪内はほぼ正方形で、周囲が一段と高くなっている。土塁もあるが、一部は石垣で囲ってある。
「伝・布施淡路丸」から西へと伸びる尾根上に並ぶ曲輪群は、ほぼ土造り。ただし最も西端の「伝・沢田丸」から少し下ったあたりには、見事に一直線に伸びる石垣が見られる。
上記の縄張図には記載がないが、ここは「伝・蒲生(がもう)邸」ともされる。蒲生家といえば、六角家から織田家へと主君を変えた近江名家。本能寺の変直後に安土城が落城した際、蒲生(がもう)賢秀(かたひで)・賦秀(やすひで)父子が信長親族の女性たちを救出。息子の賦秀はのちの蒲生氏郷(うじさと)。豊臣政権下で大出世を遂げる人物なので、「豊臣兄弟!」後半で登場が待たれる武将の一人だ。
■伝・本丸付近には石垣以外の遺構も
ここまで見てきた主尾根は東西に伸びるが、「伝・沢田丸」から南へも尾根が伸びている。観音寺城の「伝・本丸」は、その尾根を下った先にある。標高は「伝・本丸」のほうが30~40m低い。
土塁と石垣のハイブリッド構造物が西面と南面を守っている。「伝・本丸」への入口は3カ所。東側からのルートには大石段が伸びている。
石造りの長大な石段ということで、「最初に見た安土城の大手道のモデルだったのでは?」との説もあるようだ。確かに傍に排水溝があるところなど共通点はあるが、幅も狭いし微妙に屈曲している。同類とみなすには無理がある。
逆の西側は、入口は食い違い虎口になっている。さらにその先は、麓の桑実寺(くわのみでら)からの登山道。なかなか急な坂道で、少し下った位置には井戸がある。
井戸の中はもちろん、屋根のような構造物まで石積み。これは極めて珍しい。
石垣だけでなく、井戸も井戸の屋根も、通路まで。「総石垣の元祖」とみなされるだけある。
■新幹線の車窓からも見えるシンボル
しかし、これだけではない。「伝・平井丸」には、門柱のように石を重ねた平虎口があるし、急斜面の上端に積まれた石垣は、東端の「伝・布施淡路丸」のそれをはるかに凌ぐ規模だ。
その先の「伝・落合邸」や「伝・池田丸」も、本丸同様に石垣と土塁を組み合わせた堤が、曲輪の周囲を固めてある。
そして、その先の尾根先には、観音寺城で最大の石垣。その名も「大石垣」だ。その落差はなんと10m近く、崖の突端にせり出すようにそびえている。この大石垣、実は東海道新幹線の車窓からも遠謀できる。
■城内には個性的なレア石垣も
ここまででも充分に「お腹いっぱい」だが、まだまだ石垣があるのが観音寺城。しかもここまでとはまるでタイプが異なる、レアなものが二つ。
ひとつは、大石垣から少し谷側に入り込んだ「伝・木村丸」。一見、何の変哲もない石垣に見えるが……。
近づいてみると、そのレアな構造に気づくことができる。石垣の一部がトンネルのようにくり抜かれている。城用語でいう「埋(うず)み門」だ。
敵に気づかれないように内外を出入りできる、「隠し扉」のような存在が埋み門。有名なところでは姫路城の「るの門」がそうだが、山城ではかなり珍しいのではないだろうか。
レアな石垣をもうひとつ。こちらは「伝・平井丸」から、西側の急斜面を数10m下った場所に突如、現れる。
二段になっているのは高さを稼ぐためだと思われる。このパターンは比較的よくあるが、この石垣は不思議なことに、扇状にずれているのだ。片方の突端は、上下ともに角がそろっていて、逆側は離れている。この石垣の存在は以前、発掘調査に携わった方に案内していただいたのだが、その方も「他の城でも見たことがないし、目的は謎」とのことだった。
「伝・平井丸」からの急斜面、縄張図には点線があり、かつては登城路があったのかもしれない(現在は道なき急斜面のため要注意)。この道を登ってくる敵を食い止めるためだとすれば、その場所自体は納得が行くのだが……。
■難攻不落の巨城のあっけない最後
広大な城域と強烈な比高、そして「総石垣」を絵に描いたような観音寺城。まさに難攻不落を絵に描いたような城のようにも見える。六角義賢は、信長が近江へと侵攻してくると、一時は居城・観音寺城に籠城して徹底抗戦の構えだった。
しかし結局、城を放棄し甲賀(滋賀県南部)へと落ちのびてしまう。1568(永禄11)年、ほとんど抵抗らしい抵抗もなく観音寺城は落城。「豊臣兄弟!」でもナレーションだけで役者に演じられることはなかった。ちなみに大河ドラマでは、1992(平成4)年の『信長 KING OF ZIPANGU』で平泉成が演じて以来、六角義賢は登場していない。
その後、観音寺城はほどなくして廃城に。それと入れ替わるように、1576(天正4)年1月より、観音寺城の支城があった場所で安土城の築城が始まる。信長は総普請奉行を古参の家臣・丹羽長秀に任せ、秀吉もまた奉行の一人として、その一端を担うこととなった。
4年後、ついに安土城が完成すると、信長は喜んで家臣や他国の大名、宣教師たちを城に案内し、さらに領民を招いての城内見学、今でいう“ルームツアー”まで実施したという。しかし、そのご自慢の城が、みずからの死と共に焼け、完成からわずか5年で廃城になるとは、信長はもちろん、秀吉も織田家臣団の誰も想像していなかっただろう。
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今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)
古城探訪家
1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。
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(古城探訪家 今泉 慎一)

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