■謀反人となった弟・信勝の遺児、織田信澄
大河ドラマ「豊臣兄弟!」。6月28日放送の第25回「変事の予兆」は、いよいよ来るべき本能寺の変に向けての序章だ。1580年、ついに完成した安土城の宴席で、秀吉(池松壮亮)は小一郎(仲野太賀)に対し、城よりも信澄(緒形敦)の存在こそが信長(小栗旬)の器の大きさを示す証しだと語るのである。
信澄は、かつて信長に謀反を起こした弟・信勝の遺児。信長は、本来なら処刑されてもおかしくない信澄を柴田勝家(山口馬木也)に預けて育てた。いまや、信澄は明智光秀の娘を妻に迎え、人望も厚い。
「この人、なんかいい感じじゃないか」という印象の残る信澄。だが、その人生は戦国時代の理不尽を凝縮したような、悲惨なものになってしまうのだ。
信澄の父・織田信勝は、信長と血を分けた弟にして謀反人である。
同母弟である信勝は、信長とは対照的な人物だった。父・信秀が死んだとき、信長は葬儀の場で仏前に抹香を投げつけたという。一方の信勝は、肩衣・袴をきっちり着込み、礼儀正しく振る舞ったとされる。要するに当時の評価は「素行のヤバい兄」と「折り目正しい弟」だったわけだ。
しかも信勝が継いだのは、父の居城・末森城である。柴田勝家、佐久間大学といった弾正忠家の重臣まで付けられた。この時点で、信長の家督相続は盤石でも何でもない。むしろ信勝こそが「正統派の後継者」に見えた。
■弟は、信長にとって“油断できない存在”
実際、信勝はやがて自ら「弾正忠」を名乗る。これは父・信秀が用いた当主の官途名であり、「家を継ぐのは俺だ」という明確な宣言だった。
つまり信勝は、単なる「謀反を起こした弟」ではない。尾張統一の初期、信長の覇権を本気で脅かした最大のライバルだった。
『信長公記』の記述からは、信長にとって信勝陣営がもっとも油断できない存在だったことがよくわかる。その記述のひとつが、以下の部分だ。
五月廿六日に、信長と安房殿と唯二人、清洲より那古野の城林佐渡守へ御出で候。能き仕合せにて候間、御腹めさせ候はん、と、弟の美作守申し候を、林佐渡守、余りにおもはゆく存知候、三代相恩の主君を、おめおめと爰にて手に懸け、討ち申すべき事、天道おそろ敷く候。とても御迷惑に及ばるべきの間、今は御腹めさせまじきと申し候て、御命を助け、信長を帰り申し候。
筆者訳:
5月26日、信長がわずかな供(安房殿=織田信光)を連れただけで、ふらりと林佐渡守の屋敷を訪ねてきた。これを見た弟の林美作守は「絶好の機会だ、ここで信長に腹を切らせよう(暗殺してしまおう)」と本気で謀った。
■“敵”を赦し、家中をまとめた信長
信勝だけではない。周囲の家臣たちも、信長を暗殺して一気に決着をつけようと、虎視眈々と機会を狙っている。そういう緊迫した状況にあった。しかも、どう見ても旗色が悪いのは信長のほうである。
なにしろ、信勝を後押ししているのは、織田家の宿老・林佐渡守や柴田権六(勝家)だ。そうした状況を、『信長公記』はこう記す。
勘十郎殿を守り立てて候はんて、既に逆心に及ぶの由、風説銘々なり。信長公、何とおぼしめしたる事やらん
筆者訳:
林佐渡守・林美作守・柴田勝家らが結託して、勘十郎(信勝)を擁立し、明確に「逆心(謀反)」を企てている。世間にもその噂が飛び交っている。にもかかわらず、当の信長が内心どう考えているのか真意がわからず、周囲はハラハラしている。
信長の真意がわからない、と記されているが、実際には信長もどう対抗するか、十分な備えができていなかったということだろう。この後、兄弟の対決となった稲生の戦いでは、信長自ら大声を張り上げて戦ったというから、二人は互いに「生き残るのは一人だけ」という緊張感の中にあったことがわかる。
その結果、勝利した信長は、勝家をはじめ信勝についた家臣たちを軒並み赦免し、自分の家臣として再編していった。弟こそ戦国の習いで討たざるを得なかったが、それ以外には最大限の寛大さを示し、家中の統一をはかったのである。
■「謀反人の子」とは思えぬ厚遇ぶり
そして、その「寛大さ」が向かう先に、信澄がいた。父・信勝が討たれたとき、信澄はまだ物心もつかぬ幼児だったとされる。謀反人の遺児を、信長は殺さなかった。柴田勝家に預け、育てさせたのである。
勝家に養育された信澄は、やがて元服する。江戸後期に編纂された系譜集『寛政重修諸家譜』は、信澄について、こう記している。
右府の命によりて柴田勝家がもとに育せらる。永禄7年正月元服して津田を称す。
謀反人の遺児に、織田家の祖・信定伝来の刀。天下の名物・八樋正宗の脇指。蝶紋、桐瓜紋という織田の家紋の使用許可。そして近江・大溝の城――。並べてみると、「謀反人の子」への処遇とは思えない厚遇ぶりである。
■「織田信重」と名乗っていた
ところが……この『寛政重修諸家譜』は、本能寺の変から230年以上も後、文化年間に幕府が編んだ系譜集だ。一次史料ではなく、信用度は低い。
現に、さきほど言及した「永禄7年正月元服」という記述自体、近年の研究では否定されている。同時代の記録では、信澄は1574年の時点でなお「御坊」「津田坊」という幼名で呼ばれており、実際の元服は天正初年ごろとみるのが現在の通説とされている。
となると、信澄は本当に厚遇されていたのか?
誉田航平「織田七右兵衛尉信重の基礎的研究」(「駒澤史学」第101号、2023年)は、一次資料をもとに、新たな信澄像を描き出している。この最新研究が突きつけてくる事実は、なかなかに衝撃的だ。
誉田論文が、信澄本人が発給した書状や、同時代の公家・茶人の日記を網羅的に洗い直して明らかにしたのは、こういうことだ。この最新研究で、浮かび上がるのは、まず名前だ。
信澄の発給文書は4通現存する。そのすべてに記された署名は、「織田七右兵衛尉信重」。つまり、本人が生涯名乗っていたのは「織田信重」であって、「津田信澄」ではない。「津田」という名字も、「信澄」という諱も、本人の署名には一度も出てこないのである。これらはすべて、『信長公記』や後年の編纂物が用いた、いわば「他称」にすぎなかった。
我々が「津田信澄」という名で記憶しているこの男は、本人の感覚では、生涯ずっと「織田信重」だったというわけだ。
■織田政権の中枢を担う“まぎれもない実力者”
「織田」と「津田」この二つの名字は、織田家においては明確な格差を持っていた。「織田」は本家・嫡流の名であり、「津田」は庶流に与えられた名字だとされる。後世の系譜が信澄を「津田」と呼んだのは、彼を「謀反人の子で、あくまで庶流」という棚に位置づけたからにほかならない。
ところが、当の本人は「織田」を名乗っていた。本家と同じ名字を許され、嫡流に連なる一門として振る舞っていた。一次史料がそれを証明している。
生きては「織田」を名乗り、死しては「津田」と呼ばれる。名前ひとつ取っても、この男は自分の意志とは無関係に勝手に呼ばれたということか。
一方で、誉田論文は一次史料をもとに「謀反人の子のわりに優遇された」どころか、織田政権の中枢を担う、まぎれもない実力者だったことも明らかにしている。
まず、近江・高島郡の支配。信澄は浅井氏の旧臣・磯野員昌の養子に入ったとも伝わり(論文は養子入りの確証は乏しいと慎重だが)、員昌が信長の叱責を受けて出奔した1578年2月以降、高島郡全域の一職支配を任された。この高島郡こそ、大溝城のある土地である。
■信長は“実子ではない信澄を重要視していた”
大溝城は、信長の安土城、光秀の坂本城、秀吉の長浜城と並ぶ、琵琶湖の水運を掌握するための要の城だった。湖を囲む拠点が相互に連携し、いざというときには後詰めし合う。その一角を、かつての謀反人の遺児が預かっていたのだ。しかも大溝城の縄張り(設計)を手がけたのは、ほかならぬ明智光秀である。
軍事面でも、信澄の働きは際立っている。越前一向一揆攻め、石山本願寺攻め、播磨での対海賊警固、そして荒木村重の有岡城攻め……誉田論文は、こうした畿内近国を転戦する信澄の姿を、「織田軍の遊撃軍団」の一員と位置づける。とりわけ有岡城が落ちた後、信澄はその「城中警固」として入城し、戦後処理を任されている。荒木一族の処分という、極めて重い後始末を委ねられる立場にあったのだ。
極めつけは1579年の安土宗論だ。法華宗と浄土宗が信長の面前で激突したこの宗教論争で、信澄は「信長の御名代」を務めた。一門とはいえ、甥が信長その人の名代として裁定の場に立つ。これがどれほどの信任を意味するかは、言うまでもない。
誉田論文は、こうした一次史料の積み重ねから、信澄は、伯父の織田信広から役割を一部引き継いでおり、信長は実子ではない信澄を重要視していたと結論づけている。
■「本能寺の変」をきっかけに広まった風聞
家中掌握のためでも、弟を討った罪悪感からでもない。信澄自身が、城ひとつ、湖の一方面、戦後処理、そして自らの名代を任せるに足る才能を備えていた。だからこそ、信長はこの甥を用いたのだ。
しかし、その最後は悲惨だった。本能寺の変が起きると、ここまで信長から厚遇されてきた信澄に、一気に疑いの目が向けられたのだ。向けられただけではない。信澄が光秀と共謀して信長を討った、という風聞が、広く広まっていったのである。
興福寺多聞院主の英俊が記した『多聞院日記』には、こうある。
信長於京都生害云々、同城介殿も生害云々、惟任(コレトウ)七兵衛申合令生害云々、今曉之事今日四之過ニ聞へ了、盛者必衰之金言、不可驚事也、諸國悉轉反スヘキ歟、世上無常、追日現眼前ニ、様躰ハ随ニ不知、如何可成行哉、一覧ニ、(英俊 著、辻善之助 編『多聞院日記』第3巻、角川書店、1967年)
筆者訳:
信長が京都で自害(討死)したという。嫡男の信忠(城介殿)も自害したという。明智光秀(惟任日向守)と津田七兵衛(織田信澄)が示し合わせて、信長らを討ったという。今朝早くに起きたこの出来事が、今日の昼過ぎに伝わってきた。「盛者必衰」の格言どおりであり、驚くにはあたらない。これで諸国はすべてひっくり返るのだろうか。世の無常が、日を追うごとに目の前に現れてくる。詳しい状況はまだわからないが、これからどうなっていくのか。ひとまず見守るほかない。
■「討ったらしい」噂が瞬く間に広まった
ここで注意したいのは、これがあくまで伝聞、それも誤りを含む第一報だという点だ。英俊は嫡男・信忠までも「光秀と信澄が示し合わせて討った」と書いているが、これは事実ではない。信忠は二条御所で力尽きたのであって、信澄は関与していない。
だが、ここで重要なのは、正確さではない。
この英俊がいたのは興福寺、すなわち奈良である。本能寺からは、ゆうに数十キロ離れている。その奈良にまで、変の起こった日には「信澄と光秀がつるんで信長を討ったらしい」という話が、しれっと届いていた。しかも英俊は、伝聞だの未確認だのといった留保を、ほとんど付けていない。「惟任と七兵衛、申し合わせて」と、まるで見てきたかのように書いている。
冷静に考えてほしい。この時点で信澄は、何もしていない。光秀と通じた証拠もない。ただ大坂で、四国渡海の支度をしていただけである。
なのに、奈良の学僧までもが「ああ、信澄ね。まあ、あいつならやるわな」と、即座に腑に落ちている。誰も「いや待て、本当にやったのか?」とは言わない。父が謀反人で、妻が光秀の娘。役満のように揃った属性だけで、世間はもう答えを出していた。「信澄=共犯」は、確かめるまでもない常識として、変の当日に畿内を駆けめぐっていたのだ。
■父は謀反人、妻は光秀の娘…犯人扱いされた信澄
これは、酷い。
本人の行動を一切見ないまま、「あの家系の、あの婿なら、やって当然」で処理される。現代でいえば、事件が起きた瞬間にSNSで「こいつでしょ」と名指しされ、本人が一言も発しないうちに犯人として確定し、拡散されきっている状態である。情報の伝達が、馬と人の足だけだった時代に、噂はそれと同じ速さで人を断罪していた。
そして気づくことがある。
この「信澄=共犯」の噂は、ほんの一両日中で生まれたものではない。もっと前から――おそらく信澄が物心つくよりも前から、織田家の中にずっと流れていた認識が、信長の死をきっかけに、一気に表面化しただけなのだ。
「信澄さんは、ええ人なんやけどなあ。……ただ、親父がなあ」
この「親父がなあ」を、織田家の大人たちは全員、腹の底に抱えていた。勝家は信勝の旧臣だった。長秀も、稲生で兄弟が殺し合った時代を肌で知る世代だ。彼らにとって信澄は、生まれたときから「あの信勝の倅」だった。
そして、『多聞院日記』は6月5日、こう続ける。
於大坂七兵衛ヲ生害云々、向州ノ壻、一段逸物也、三七殿・丹羽ノ五郎左衛門・鉢屋(蜂)なとの沙汰歟、但雑説歟云々(注記)必定必定
筆者訳:
大坂にて津田七兵衛(織田信澄)が殺害されたという。彼は明智光秀(向州)の娘婿であり、ひときわ優れた器量人(逸物)であった。織田信孝(三七殿)や丹羽長秀(五郎左衛門)、蜂屋頼隆(鉢屋)らが仕向けたことなのだろうか。それとも、まだ根拠のない噂なのだろうか。(後からの注記)いや、やはり確実な事実であった。
■戦国の世とはいえ、不憫すぎる
噂を信じて信澄を討ったのは、織田信孝と丹羽長秀、そして蜂屋頼隆だった。信長の息子、そして信頼厚い宿老が、いっせいに信澄へ「あいつならやりかねん」と襲いかかったのである。
しかも信孝は、信澄とともに四国へ渡るはずだった四国遠征軍の総大将。長秀は、家康接待を共に命じられた同役である。つまり信澄は、つい数日前まで轡を並べていた上司と同僚の手で討たれた。一緒に船に乗るはずだった相手が、数日後には自分を斬りに来たのだ。
そして英俊は、最初こそ「雑説歟(ただの噂だろうか)」と疑いを残していたが、後から余白に「必定必定(いや、確実な事実だった)」と書き加えている。奈良の学僧の中でも、信澄のクロは、こうして確定として上書きされた。
いくら誰も信用できない戦国の世とはいえ、信澄が不憫すぎるだろう。
信長に愛されたことが、信澄を殺した。
謀反人の子として生まれながら、その才ゆえに異例の出世をとげた男は、最後は謀反人の子ゆえに疑われて死んだ。生きては「織田」を名乗り、死しては「津田」と呼ばれて。
第25回(6月28日)の放送で、秀吉に持ち上げられる信澄を見たら、そのことを思い出してほしい。この男に残された時間は、もうわずかしかない。そして、その最期まで描かれるのかどうか――今年の大河は、これまでの作品がだいたい端折ってきた、この理不尽の一部始終に、どこまで踏み込むのだろうか。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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