■NHK大河が描く本能寺の「黒幕」
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)において織田信長を演じてきたのは小栗旬さんです。一方、信長の甥・織田信澄(のぶずみ)を演じるのは緒形敦さん。同ドラマにおいて信澄は信長から激しく詰問される役回りですが、信澄の妻の父はあの明智光秀(要潤)でした。天正10年(1582)6月2日、京都本能寺に宿泊する信長を光秀軍が急襲、信長は自害したことはよく知られています(本能寺の変)。
「豊臣兄弟!」では、信澄は舅の光秀に謀反をけしかけたと描かれるのですが、果たして信澄は実際にも光秀を焚き付けたり、または加勢せんとしたのでしょうか。信澄の生涯を振り返りつつ、検討していきましょう。
まず、信澄の父は織田信勝(信行)です。信勝は信長の実の弟でした。戦国時代に限らず、血のつながった兄弟の骨肉の争いというものは多いですが、この兄弟も例外ではありませんでした。信勝は当主である兄・信長に対抗心を燃やし、何度も敵対したのです。それは合戦に発展することもありましたが、それでも信長は信勝を許しています。2人の母・土田御前の取りなしがあったからです(信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記『信長公記』)。
■信長は信雄の死後、信澄と対面
赦免された信勝ですが、兄にとって代わりたいとの野心が上回ったのでしょう。またしても信長に謀反を企てます。しかし、その謀反情報は信勝に仕えていた柴田勝家により、信長に密告されます。それを聞いた信長は『信長公記』によると、病と称して外出を控えました(もちろん仮病でしょう)。信長の病に土田御前と柴田勝家は信勝に対し、見舞いに行くことを勧めます。信長のいる清須城を訪れる信勝。ところが信勝を待っていたのは、悲惨な最期でした。信勝は信長の命令を受けた河尻秀隆などにより「清洲北矢蔵、天主、次の間」において殺されてしまうのです。これは永禄元年(1558)のこととされます。
そのとき既に信勝には信澄という子がいたわけですが、信長は信勝殺害後に信澄を殺すことはありませんでした。『寛政重修諸家譜』(江戸時代後期の寛政年間に江戸幕府が編修した系譜集)によると、信勝殺害後、信長はまだ幼少だった信澄と対面したとのこと。このとき、信長は柴田勝家に信澄を養育することを命じたとされます。
余談となりますが、信長は親族には甘いところがあって、謀反した兄・織田信広も殺さず、赦免しています。そして京都で室町幕府との連絡役を務めさせ、軍事行動などで活動させているのです。
■蘭奢待を求める奈良行きにも同行
さて、『寛政重修諸家譜』によると、永禄7年(1564)、信澄は元服、津田氏を称したとありますが、これは誤りとされます。信澄も信広のように、織田軍の軍事行動に従ったり、また信長が他国に出かける際にはそれに同行したりしています。例えば天正2年(1574)3月、信長は正倉院に収蔵されている名香「蘭奢待(らんじゃたい)」を観覧するため、大和国に赴きました。その時に信澄は「御奉行」として同行しているのです(『信長公記』)。
翌年8月には越前一向一揆の征伐に信澄も従軍しますが、これが彼の初陣と推測されます。この戦で信澄は柴田勝家・丹羽長秀と共に鯖江の鳥羽城を攻撃し、500~600もの敵兵の首を獲るとの戦果を挙げました。天正4年(1576)、信長は近江国で安土城の築城に着手しますが、信澄もそれに関与しています。その際、信澄は大きな石を山の麓まで運んできたようです。
ところが巨大過ぎて山へ引っ張っていくことができません。そこで羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀の3人が1万人余の人々を動員し、3日がかりで石を運び上げたとの逸話が『信長公記』に掲載されています。
■安土城にも近い城を与えられる
天正6年(1578)2月、信澄は信長から近江国高島郡を与えられています。それまで同郡を領していたのは北近江の浅井氏に仕え、その後、信長に臣従していた磯野員昌でした。ところがこの員昌は信長の意向に背き、叱責されたことで逃亡してしまいます。よってその所領がそのまま信澄に与えられることになったのでした。
ちなみに『寛政重修諸家譜』によると天正6年2月、信澄は信長から「近江国大溝の城」を賜ったとあります。更に信長は信澄に先祖伝来の刀、正宗の脇差などを与えたのでした。天正9年(1581)10月、信長は平定した伊賀国を検分するため同国に向かいますが、それに嫡男・信忠と信澄も同行させています。天正10年(1582)2月の武田家討伐にも信澄は信長に従いました。また同年5月に徳川家康が上洛した際にも、信長からは大坂で家康を饗応(きょうおう)することを命じられています。
「豊臣兄弟!」では信長は信澄を四国の長宗我部元親と通じたとして疑い、叱責しましたが、史料からはそうしたことはうかがえません。疑うどころか、一門衆として信頼し、かわいがっているようにも思えます。
■明智光秀と共謀し信長を討ったか
この天正10年には前述したように6月2日に本能寺の変が勃発しました。信長は重臣の明智光秀に急襲され、討たれるのですが、『多聞院日記』(戦国時代から江戸初期の興福寺多聞院院主の日記)の天正10年6月2日条には、本能寺の変は光秀と「七兵衛」(信澄)が共謀したものとの記述があります。そのような噂が広まっていたことが分かりますが、それは事実ではありません。当時、信澄は四国攻めの総大将・織田信孝(信長三男)に属して大坂にありました。この織田信孝と丹羽長秀が光秀の縁者である信澄を疑い、信澄を襲い、殺してしまうのです。
戦国時代に来日し信長・秀吉とも対面した宣教師ルイス・フロイスの著作『日本史』には信澄殺害に関する記載があります。それによると、信孝は信澄を殺すため大坂に向かいますが、一方の信澄は「自分が殺されはしまいかと恐れ、三七殿(信孝)が入って来ないように内部から盛んに懇請し奔走していた」とのこと。仮に信澄が光秀と共謀し、本能寺の変を起こしていたとしたならば「自分が殺されはしまいかと恐れ」とはあまりにも頼りない態度です。
■信長三男に疑われ、非業の最期を
同書には信澄が「明智の一女を娶(めと)っていたので、彼が義父と組んでこの謀反(むほん)を企てたと思わぬ者はなかった」とありますが、実際に信澄が光秀と組んで何か行動を起こしたとは同書には記されていません。
それが信澄の不運の始まりでした。信孝は城から出てこない信澄をなんとしても殺すため、丹羽長秀と協議し一計を案じます。それは信孝と長秀の家臣が喧嘩(けんか)を起こしたということにして、それに敗れた長秀の家臣が信澄の城に逃走。それを追って信孝の家臣が城内に侵入し、ついに信澄を殺害したのです。
■首は堺の町にさらされた
信澄は自ら切腹したという説と、彼の家臣によって殺されたとの説がフロイス『日本史』に人々の噂として記されています。信澄を殺した信孝は従兄弟の首を堺の市に晒(さら)すことを命じました。しかし、同書には信澄は「異常なほど残酷で」「暴君」と記されており、その死を悲しむ者はいなかったとのこと。多くの人は信澄が「死ぬことを望んでいた」と言います。この記述の正否は不明ですが、光秀の娘を娶ったばかりに殺された哀れな最期には違いありません。
筆者は本能寺の変は、いわゆる黒幕などおらず、光秀の単独行動だったと考えています。例えば『信長公記』には本能寺の変の直前、光秀は重臣(明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐)らと「談合」して、信長を討ち果たし「天下の主」となるべき謀を企てたとあります。
光秀はおそらく信澄には相談しなかったのではないでしょうか。娘婿とは言っても信澄は信長の甥です。仮に光秀が信澄に相談した場合、そこから情報が信長側に漏れる場合もあります。政略に長けていた光秀がそのようなことをするとは思えません。本能寺の変は、明智主従のみで秘密裏に実行されたからこそ、信長と他の家臣たちの隙を突き、成功したのでしょう。
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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
歴史研究者
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(歴史研究者 濱田 浩一郎)

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