■光秀が無理に攻めなかった理由
第19回:八上城(兵庫県丹波篠山市)
八上城(やかみじょう)(図表1:兵庫県丹波篠山市八上上高城山)は、丹波国内でも有数の勢力を誇った波多野(はたの)家の居城だ。黒井城(兵庫県丹波市春日町多田)の荻野直正(赤井直正)と呼応するように、1576(天正4)年1月に反織田のスタンスを明確に。当時の織田家で丹波方面の攻略を担当していたのが明智光秀だ。そのため、八上城も光秀に攻められることになる。
波多野家が反信長の態度を明らかにしてから約2年半。八上城は光秀の軍に囲まれ、籠城を余儀なくされる。その期間は1578(天正6)年9月から翌年6月まで、約9カ月。光秀は10回も攻め勝ったが落とせず、兵糧攻めに切り替えた。八上城内では400~500人が餓死したという。
城主の波多野秀治・秀尚・秀香(ひでたか)三兄弟は、最終的に城兵に捕えられ、光秀の元に差し出された。
もともとこの開城は、光秀からの和議の申し出がきっかけだったともいう。
この時点でまだ、丹波国内のもうひとつの敵の重要拠点、黒井城は未攻略だった。光秀としては、ここでいたずらに兵を減らすわけにはいかなかった。
■長期の籠城戦を可能にした堅城
光秀が力攻めをせず、和議で決着をつけようとした堅城。圧倒的に不利な情勢にもかかわらず、9カ月間もの籠城戦を耐えぬいたのは、どんな城だったのか。八上城は本丸を中心に、タコ足のように各方向へ伸びる細尾根に城域が広がる。特に北西と北東に伸びる2本の尾根が長くしっかりしており、そこに多くの防御施設が設けられている。
■長尾根を抜けて中枢部へ
北西尾根の先端が「鴻(こう)の巣」。残念ながら現在は草木に覆われ眺望はないが、かつて出丸があった場所だろう。その先は踏み固められたような尾根がしばらく続く。尾根からの眺望は良い。
やがて右衛門丸という曲輪に到達し、そこからは三の丸、二の丸と曲輪が段々に連続し、その間を切岸で遮断している。
■城下の平野を明智軍が埋め尽くす
二の丸は広大で、その奥の切岸上が本丸、左手奥が岡田丸。ただこの3つの曲輪は事実上、一体化している。特に二の丸と岡田丸間は、これといって障壁も落差もないし、本丸も天守台程度の広さだ。この一帯が八上城の主要部だ。
本丸周辺には、先ほどの右衛門丸とは大きく異なる規模の石垣が見られる。八上城内で、まとまった形で石垣が見られるのはここだけ。あとは「土の城」だ。
主要部は城内でも最高標高地点。眺望も良い。城下には東西に山陰道が伸びており、それを見張るのにこの城は好適地だった。しかし眼下には、光秀率いる大軍が居並ぶ。
■籠城に必須、二つの重要遺構
そして八上城の着目すべき遺構は、もうひとつの主尾根、本丸から北東に伸びる尾根とその周辺にある。
兵糧蔵があったといわれる蔵屋敷、今も水を湛えている「朝路池」と、籠城戦で必須の食糧と水現地に関する遺構。後者の看板には「落城の際、(波多野秀治の娘である)朝路姫が入水自殺し、又財宝を埋めたとも伝えられる」とあるが、流石にこれは眉唾だろう。それはともかく山城の井戸としてはかなり立派なほうだ。
その先には「馬駈場(うまかけば)」と名付けられた直線的で幅は狭いが平坦な尾根が伸び、さらにその先に芥丸。ここが最も城内で眺望が開けており、篠山盆地の中心地が見渡せる。
さらに進んだ尾根の最先端が西蔵丸。ここから振り返ると本丸のピークが正面に見える。木が生い茂る木を伐採すれば、ここからも城下の山陰道や篠山盆地が一望できたはずだ。
■光秀の判断に間違いはなかったか
最初に触れた通り、八上城は本丸から四方に伸びる複数の尾根全てが城域だが、以上でほぼ主要なエリアは踏まえたことになる。
すでに戦意喪失している敵を追い詰めないことで、続く黒井城攻略にも兵を温存できるし、今後の丹波統治も容易になる。城内に残る敵兵たちの信頼も得られる。理に聡い光秀の判断は見事だった。はずなのだが……。
■信長の理不尽な処断に光秀は…
主君の信長は、安土まで連行されてきた波多野三兄弟を、なんと磔(はりつけ)にして殺してしまった。信長はよく「戦国一の合理主義者」といわれるが、もしそうであれば、光秀の先を見据えた選択に同意したはず。しかし、この時の信長は、そうではなかった。時に、非合理で非情な決断を下すのもまた、信長の一側面で、革命児たる所以(ゆえん)でもある。
信ぴょう性はかなり薄いのだが、八上城の戦いにはこんなエピソードがある。
ところが信長は真逆の決断を下し、八上城に残されていた母は、無惨にも元城主と同じ運命をたどったという。その現場とされるのが「はりつけ松跡」だ。本丸から北東に伸びる尾根、馬駈場あたりにある。
「跡」とある通り松は現存せず。というか、そもそも、すでに大将を失い落城寸前の相手に対し、わざわざ人質を差し出す必要があるだろうか。
■光秀の恨みが深かったから噂が?
ただし、こうとも考えられないだろうか。信長は、光秀の意に反し非情な決断を行った。今後のことも考えた、理にかなった判断を無碍(むげ)にされてしまい、光秀としては憤懣(ふんまん)やるかたない。そんな光秀の心情をより情念的に表すために、「人質として預けていた母まで殺された」という伝承が生まれたのではないか。
本能寺の変が起こるのは、八上城の戦い終結から3年後のことだ。光秀が「信長討つべし!」と決意するには、いくつかの要因があったはず。八上城の戦いでの信長の“裏切り”もまた、そのひとつだったのかもしれない。
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今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)
古城探訪家
1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。
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(古城探訪家 今泉 慎一)

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