1945年4月7日、戦艦大和は沖縄特攻作戦で撃沈された。だが、九死に一生を得て生還した乗組員たちはすぐに故郷へ帰れたわけではない。
大和沈没という軍事機密を守るため隔離され、冷遇された。ジャーナリストの佐田尾信作さんによる『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』(集英社新書)より、生還者たちの証言を紹介する――。(第1回)
■国の嘘を守るために使い捨てられた命
小島清文(きよふみ)(※)の軍歴から気付く重要なことがある。人の命は軍機(軍事機密)より軽いという、軍隊の不条理である。
※海軍第三期兵科予備学生として少尉に任官し、戦艦大和の暗号士としてレイテ沖海戦に従った人物
小島の評伝『「不戦兵士」小島清文』(永沢道雄・著、朝日ソノラマ、1995年)によると、レイテ沖海戦から呉に帰港した大和の乗組員たちは半舷上陸が許されるまで一週間足止めされ、海戦については厳重な箝口令(かんこうれい)が敷かれたという。
「消耗品のような臨時雇い」の予備学生出身士官は軍部から危険視されていたうえ、暗号士だった小島は海戦の顛末(てんまつ)を知り尽くしている。戦局が悪化する中でのルソン島への転任は「死んでこい」というのに等しかった。それが最も効果的な口封じだったのだ。
大和だけではない。「おやじは瑞鶴(ずいかく)に乗っていて生きて還ったが、しばらく軟禁されていたらしい」と山口県光市で窯元「椿窯」を営む上田達生から聞いたことがある。瑞鶴はやはりレイテ沖海戦のエンガノ岬沖海戦で沈没した空母である。
■大和沈没を隠し、隔離された生存者
左舷に大きく傾斜した飛行甲板に乗組員が密集し、訣別(けつべつ)の「瑞鶴万歳」を三唱しているという貴重な写真は今見ても衝撃的だ。
そして救助された生存者は防諜(ぼうちょう)と残務整理のため呉湾内の三ツ子島へ収容されたと神野正美・著『空母瑞鶴 日米機動部隊最後の戦い』(光人社NF文庫、2008年)にある。
だが、収容された生存者が果たして何人無事に終戦を迎えたかは分からないという。沖縄に向かう大和に転任を命じられるなど、前途はまたも戦場だったからだ。瑞鶴関係者が戦後集まるのは1977(昭和52)年の読売新聞紙上での「呼びかけ」を待たなければならなかった。
ミュージシャンでもある上田は高石ともや、笠木透といった反骨の歌い手とともに活動してきたが、その奥底に彼の父の瑞鶴の体験があるのかもしれない。現在の三ツ子島は真っ白な小山が印象的で、メキシコ産の工業用塩を貯蔵している。
大和の話に戻ると、鬼内(きない)仙次のルポ『島の墓標 私の「戦艦大和」』(創元社、1997年)には沖縄特攻作戦から辛くも佐世保に帰港した駆逐艦雪風が負傷者を佐世保海軍病院浦頭(うらがしら)分院に隔離したと記されている。大和沈没という機密が漏洩(ろうえい)しないためだ。
■軍医に「死亡場所は明記するな」と命令
軍医の一人は大和乗組員の死亡診断書を書くよう命じられたが、「死亡場所は沖縄などの地名を明記してはいけない。ただ南西諸島とか西太平洋とかに留(とど)めるように」と念を押された。軍医は無謀な作戦に対する怒りに手が震え、思うようにペンが走らなかった―と鬼内は描写している。
また、同書の中の証言によると、地元の村人は全員神社の境内に参集するよう告げられ、憲兵から「これからは、海の方を見んな」とにらみ付けられた。
海の方で団平船(石炭や土砂などを運ぶ船)が岬寄りを隠れるようにして近づき、木造桟橋に着いた。上陸する兵は前か後ろか分からないほど黒かった。彼らが大和沖縄特攻作戦の生還者、「泳いだ人」たちだったのである。
ハウステンボスの設計などで知られる池田武邦(海軍兵学校72期)は巡洋艦矢矧(やはぎ)に乗り組んで沖縄特攻作戦に従い、沈んだ矢矧から泳いで駆逐艦冬月(ふゆつき)に救助されたが、佐世保に着いてもやはり「機密保持」のために上陸を許されなかったという。
池田に取材した読売新聞記者井川聡の『軍艦「矢矧」海戦記 建築家・池田武邦の太平洋戦争』(光人社NF文庫、2016年)にそうある。同書によれば、池田ら生存者は佐世保市街地の満開の桜を横目で見ながら佐世保海軍病院浦頭「消毒所」に監禁収容され、邪魔者扱いされながら残務整理を行った。
■生き延びた仲間は「特攻部隊」行き
一週間がたってようやく外出許可が出たが、新しい配置は決まらない。もはや池田に乗るフネはなく、1945(昭和20)年4月の終わりに拝命した大竹市の海軍潜水学校への教官としての赴任に際しても暗たんたるものがあった。潜水学校とは名ばかりで、実際には特攻隊員養成の教官だったからだ。
沖縄特攻作戦で沈められた駆逐艦濱風、同霞の池田の仲間の航海長たちもまた、特殊潜航艇海龍の部隊に送り込まれた。事実上の特攻部隊であり、乗るフネのない日本海軍の悲しい結末だった。
僕の父と手紙のやり取りがあった八杉康夫も「泳いだ人」だった。
自伝『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』(ワック、2005年)から大和沈没以降の八杉の過酷な体験をひもとく。
相次ぐ爆撃や雷撃によってほぼ90度まで傾いた大和から、八杉は海に飛び込んだ。
甲板ではなく艦橋から飛び込んだが、大和が傾いたことにより、海面まで高さ1メートルほどしかなかったという。すぐ大和が引き起こす巨大な渦に巻き込まれ、もう終わりかと観念した時、深い群青色の海に突然、オレンジ色の強い閃光(せんこう)が走る。
火薬庫に引火したと思われる大和の水中爆発によって八杉はかえって海面に押し上げられ、一度失った意識が戻った。米軍機の機影は消えたが、大爆発で真っ赤に焼けた艦体の破片が海面に降り注ぎ、泳いでいた乗組員が一瞬にして頭を割られ、両足や手首をもがれる惨劇が起きた。
■救助のロープを奪い合う兵士たち
八杉は大きな破片をかいくぐったものの、次第に泳げなくなった時、一人の高射長が落ち着くようにと告げて自分の側(そば)の丸太を譲ってくれたという。そのまま脱出できた仲間たちと連れ立って重油の海を漂流すること4時間。
2隻の駆逐艦、雪風と冬月が海域に現れ、ロープや縄梯子(なわばしご)が下ろされたが、今度はわれ先につかもうとする者であふれ、「これが帝国海軍の軍人の姿か」と悲しくなった八杉は雪風の後部に向かう。
すると偶然、浮輪付きロープが投げられ、体を通して合図した途端、上空の敵機を発見した雪風は全速力で走り出した。よくロープが離れなかったものだと八杉は振り返る。やがて停止した艦の舷側のリベットに手を掛けて必死に上ると、甲板では一人の兵隊が引き上げてくれていた。
甲板にたどり着くや、その兵隊に何発も殴られ気合を入れられた。
その後、毛布をもらい、気つけに赤玉ポートワインを飲ませてもらう。「賀茂鶴(かもつる)」や「千福」は海軍に納品されていたが、赤玉とは僕も読んでいて驚いた。すると八杉は胸がむかついてきてオスタップ(たらい)に吐くと、体内の重油やコルクも一緒に出てきた。新しいふんどしをもらい、おにぎりが支給される。八杉たちはやっと安堵(あんど)したのだ。
■しがみつく腕を叩き落とした過酷な決断
救助に当たった雪風で魚雷発射管射手だった西崎信夫(三重県鵜方村=現志摩市生まれ)に一度会ったことがある。西崎の語りによるノンフィクション『「雪風」に乗った少年 15歳で出征した「海軍特別年少兵」』(小川万海子(まみこ)・編、藤原書店、2019年)の書評を「中国新聞」に書き、その後、偶然にも東京・新宿の平和祈念展示資料館でじかに語りを聞く機会があったのだ。
その語りはリアルでありながら抑制的で聞き手を納得させるものだった。西崎は大和の沖縄特攻作戦に従い、漂流する兵を引き上げた側だ。助けた兵には階級の別なく往復ビンタを張り、重油を吐かせ、新しい下着や毛布を与えたという語りは八杉の語りと一致している。
逆に雪風の側でしか分からないこともある。

士官を救助しようと降ろされた艇がたちまち漂流者に取り囲まれ、クルーはそれを振り払って士官だけを救助したこと、西崎本人も若い兵をロープで引き上げようとして兵の足にしがみつく下士官の腕を鉤棒(かぎぼう)で叩(たた)き落としたこと、雪風の若い予備士官が「元気な奴(やつ)から拾い上げろ!」と怒鳴ると隣にいた兵長が「元気な奴を引き上げて、沖縄へ再突入するのかよー」と野次ったこと――。
■「命との格闘」105人が救助された
西崎は『「雪風」に乗った少年』の中で「『大和』生存者救助の2時間は、命との格闘だった。『雪風』が救助した『大和』生存者は、105名。目の前にある一つの命を一本のロープでどう助けるか、それが全てであり、その時の私には、過去も未来もなかった」と語っている。僕の父と同じ1927(昭和2)年に生まれた、その西崎もすでにこの世の人ではない。
一方の八杉は救助された雪風に乗って佐世保に帰投した後、船に乗せられた。途中の検疫所のようなところに負傷者は搬送され、八杉たちは人気のない岸壁で降ろされて木造兵舎の大部屋に放り込まれた。食後に食器を片付けに来た兵隊にここはどこかと尋ねると「横瀬海兵団です」と言ったきり逃げていく。
横瀬とは西彼(にしそのぎ)杵半島にある現在の長崎県西海(さいかい)市西海町横瀬郷のことで、今は米海軍の貯油所があるようだ。「横瀬海兵団」とは佐世保海兵団の出先が横瀬にあったという意味だろうか。先の鬼内のルポでは負傷者は佐世保海軍病院浦頭分院に送られたとあり、元気な者とは収容先が分かれたに違いない。
■生き残った罪悪感に苦しむ
八杉たちは何もしないでいいからぶらぶらせよと告げられ、事実上軟禁されていたと後で知る。
「大和沈没を口外するな」とくぎを刺されることもなかった代わりに、敗残兵がそれを口にするような空気もなかったという。
「死に損なった、もうしわけない」という気持ちだけだったと回想している。その後、20人ずつに分かれて軍用列車ではなく一般の列車で呉に戻った。これも大和沈没を秘匿する意図だったが、母親は呉まで面会に来ていて驚いたという。祖母が突然「康夫がたらいに乗って帰ってくる夢を見た」と言い出したので面会に来たのだそうだ。不思議な話だと思ったという。
だが母親との間でも大和の話は一切口にしなかった。そして1945(昭和20)年6月、八杉は呉海兵団の23大隊への転属を命じられた。残った駆逐艦や巡洋艦などの名前を挙げて、フネに乗りたいと訴えたが無駄だった。すでに動けるフネはなく、重油もなかったため、命令に従うしかなかった。

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佐田尾 信作(さたお・しんさく)

ジャーナリスト

1957年島根県出雲市生まれ。大阪市立大学文学部卒業。広島を拠点に取材活動45年。2025年12月現在は中国新聞客員編集委員、日本ペンクラブ会員、宮本常一記念館運営協議会委員。著書に『宮本常一という世界』『風の人宮本常一』、共著に『われ、決起せず 聞書・カウラ捕虜暴動とハンセン病を生き抜いて』(いずれも、みずのわ出版)など。

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(ジャーナリスト 佐田尾 信作)
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