学校で漢字を習うときには、筆順を合わせて指導される。日本漢字能力検定協会漢字文化研究所主任研究員の田中郁也さんは「実のところ、筆順には一つに固定された絶対的な規範があるわけではない。
それでもなお学校で筆順を教えているのは、筆順指導がもたらす教育的効果が高いからだと考えられる」という――。
※本稿は、日本漢字能力検定協会編『漢字の大疑問 いつも使っているのに意外と知らない言葉の世界』(マガジンハウス新書)の一部を再編集したものです。
■書き順に「絶対的なルール」はない
書き順は誰がどうやって決めたのですか

回答=田中郁也(日本漢字能力検定協会漢字文化研究所主任研究員)
学校で漢字を習うときには「左」は横画から「右」は縦画から書く、というように必ず筆順もあわせて指導されます。
近年では一般社会にもかなり広く知られるようになりましたが、実のところ、筆順というものは一つに固定された絶対的な規範があるわけではありません。それでもなお学校で筆順を教えているのは、やはり筆順指導がもたらす教育的効果が高いからだと考えられます。
この点については、私自身にも強く実感させられた出来事がありました。7歳になる息子は、筆順はもちろん、字の大きさや中心線もまるで意識せず、「形さえ合っていればいいだろう」と言わんばかりに、小言にも耳を貸そうとしませんでした。そこで一緒に空書をしながら、とにかく筆順だけは守らせて漢字を書かせてみたところ、漢字に限らず、文字全体についても形の整った字を書くようになったのです。
小学校低学年での筆順指導には、漢字の習得だけにとどまらない大きな効果があるのだということを、まさに実感した瞬間でした。
■60年以上前に作られた『手びき』が事実上の標準
本題に戻りましょう。先に述べた通り、漢字の筆順は公式に一つに定められているわけではありません。日常で用いる漢字の目安である常用漢字(2025年現在2136字)については、その字形や読み方に関して、国が拠るべき明確な基準を設けています。
しかし、書き順については特段の取り決めがなく、統一された規範は存在しません。
習得すべき筆順が掲載されている小・中学校の教科書についても、教科書検定基準には「漢字の筆順は、原則として一般に通用している常識的なものによっており、行書で筆順が異なる字については、適切な説明を加えていること。」という一文があるのみです。
ところが、実際に検定に合格した教科書の筆順を確認してみると、いずれも文部省編『筆順指導の手びき』(1958年)に示された筆順と同一になっています。実質的には、この60年以上前に作成された『手びき』が、現代の学校教育における筆順の基準として機能しているわけです。
すなわち、形式上は公式な唯一の基準ではないものの、『手びき』に示された筆順が、実際には学校で教えられる筆順として事実上の標準となっている、というのが現状なのです。
■目的は「漢字指導の効率化」だった
それでは、どのような理由で文部省は『手びき』を作成したのでしょうか。『手びき』の「本書のねらい」を見ると、次のように記されています。やや長くなりますが、重要な箇所なので引用します。
“漢字の筆順の現状についてみると,書家の間に行われているものについても,通俗的に一般社会に行われているものについても,同一文字に2種あるいは3種の筆順が行われている。特に楷書体の筆順について問題が多い。
このような現状から見て,学校教育における漢字指導の能率を高め,児童生徒が混乱なく漢字を習得するのに便ならしめるために,教育漢字についての筆順を,できるだけ統一する目的を以て本書を作成した。本書においてはとりあえず楷書体の筆順のみを掲げたが,楷書体の筆順がわかれば,行書体についても,おのずとそれが応用され得ると思われる。

もちろん,本書に示される筆順は,学習指導上に混乱を来たさないようにとの配慮から定められたものであって,そのことは,ここに取りあげなかった筆順についても,これを誤りとするものでもなく,また否定しようとするものでもない。”

(『筆順指導の手びき』「本書のねらい」より引用)

つまり、学校教育における漢字指導の能率を高め、児童が混乱せずに漢字を習得できるようにするため、教育漢字の筆順をできるかぎり統一しようとした。それこそが『手びき』作成の目的であったことがわかります。
実際『手びき』の「前書き」からは、当時は同一の学校・同一学年であっても異なる筆順が教えられていたという状況にあったこともうかがえます。
■教育漢字の筆順を定めた方法
こうして、1958年に教育漢字(制定当時は「当用漢字別表」881字、現行では1026字)については筆順が定められましたが、それはどういった手順で定められたのでしょうか。この点について、先にも挙げた「前書き」には「学識経験者,大学教授,指導主事,現職の学校長,教師の方々十数名に御協力を願って」原案を作り、それを文部省内で調整して作られたと書かれています。
■「自分の流派の筆順を認めないなら切腹する」
その原案作成の過程がいかに困難であったかについては、読売新聞社の取材をもとにまとめられた『日本語の現場』(1975年)に詳しく紹介されています。
文部省の担当者は、当初「正しい筆順」が自明に存在すると考え、有識者を集めて会議を開いたものの、実際には意見の対立が噴出しました。中には「自分の流派の筆順を認めないなら切腹する」と大臣室の前に座り込んだ書家までいたと記されています。
このようにして、紆余曲折を経て作られた『手びき』は、刊行から60年以上を経た今日においても、学校教育の現場で実質的な指導の基準として用いられ続けているのです。
■唯一の正解とする必要はない
もっとも、『手びき』の中ではっきりと書かれている通り、これは唯一の筆順を定めようとしたものではありません。また『手びき』には、図表1に挙げたように「(イ)も(ロ)も行われる」などと両方の筆順を載せるものもあります。

筆順は時代によっても変わったようで、明・梅膺祚の字書『字彙』(1615年)首巻冒頭「運筆」の欄には、「川」は先に真ん中の縦画から書く、「州」は先に川を書いてから三点を打つなど、現代の一般的な筆順とは大きく異なる書き方が載っています。
つまり、『手びき』は学校教育を円滑にするための目安としては重要ですが、社会全体で唯一の正解として固定化する必要はありません。筆順には時代や書き手の違いによる幅もあります。その多様さを知りつつ、互いに必要以上に矯正し合わない、そんな柔らかな向き合い方が求められているのではないでしょうか。

※文部省(1958)『筆順指導の手びき』

※読売新聞社(1975)『日本語の現場』

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公益財団法人 日本漢字能力検定協会
1975年創立。日本語・漢字文化の振興と普及を目的に活動する公益財団法人。1975年に「日本漢字能力検定(漢検)」を開始し、現在では国内最大級の日本語・漢字検定事業として広く知られている。漢字力の向上を通じて、読む・書く・伝える力を育むことを目指し、子どもから社会人まで幅広い世代を対象に事業を展開している。主催する「日本漢字能力検定」は、累計受検者数5500万人以上、3歳から103歳までの幅広い年齢の方が挑戦する検定試験であり、学校教育や企業研修などでも活用されている。また、「今年の漢字」を京都・清水寺で毎年発表していることでも知られ、日本社会の世相を映す年末恒例行事として定着している。そのほか、日本語・漢字に関する調査研究、教材開発、博物館の運営、イベント開催などを通じて、日本語文化の継承と発信に取り組んでいる。

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(公益財団法人 日本漢字能力検定協会)

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