「デジタル教科書」や「AI」の活用など、教育現場でのデジタル化が進んでいる。東京大学大学院総合文化研究科の酒井邦嘉教授は「非常に危険な兆候だ。
先進的に導入を進めてきた北欧でいま、紙への回帰が進んでいるという現実を見ればその結果は明らかだ」という――。
※本稿は、酒井邦嘉『AI脳クライシス』(集英社インターナショナル)「デジタル教科書時代への警鐘」より一部を抜粋・再編集したものです。
■デジタル教科書の何が問題なのか
近年は教育現場でも、デジタル機器やデジタル教科書の波が押し寄せています。私はこれまで、「紙の本」の優位性について繰り返し述べてきましたが、それは教育でも同様です。教育でのデジタル化は、大人の読書習慣などにおけるデジタル化よりもはるかに大きな影響があると考えられます。
そこで、紙の教科書やノート、手書きといった従来の「アナログ的な学び」の消失が、子どもの脳や学びにどのような影響を与えるのかについて、改めて考えてみたいと思います。
紙の本は、「読み書き」や「記銘」などの学習活動においても、デジタル機器よりはるかに優れています。紙の利点として、たとえば「先ほど読んでいたのは、右ページの上の辺り」とか、「見開きの図の下」といった実体としての手がかりが豊富です。
学習者は、何がどこにどのように書かれていたのか、という空間的な手がかりも利用して内容を記憶していきます。また、字を書く際にも、ノートのどの辺に書いたのか、という視覚情報が記憶の定着を促すことも明らかになっています。
これがデジタル機器になると、いくらでも画面上でスクロールしたり、拡大縮小したりできてしまうので、位置関係が分からなくなってしまいます。デジタル端末の場合は、位置情報が希薄になりやすいということです。

■QRコードやリンクが逆効果なワケ
それに、デジタル機器のスイッチを切れば、教科書という実体が一瞬で消えてしまいます。学習ツールとして、はなはだ不適なデザインですが、誰も気にしないようです。
人間の思考はそう簡単にとぎれるものではなく、分かったつもりでも少し経ってから未消化の部分に気づいたりするものです。すぐにページを開いて見直せることが学習では大切なのです。
紙の教科書も詳細な情報を示すQRコードが今や花盛りですが、そのようなリンクがたくさん掲載されることによって、紙の教科書の情報量をはるかに超えてしまう恐れがあります。そうすると、何をどこまで学んだらよいかということが分からなくなってしまいます。
これは学習活動において大きな問題です。なぜなら、学習の基本は「限られたものに繰り返し触れる」ことであるからです。にもかかわらず、デジタル化によって情報過多となれば、その根本が損なわれてしまいます。
■大人目線の「便利」が学びを阻害する
“広く浅く”では、学びは深まりません。ネット利用の「調べ学習」もそうですが、たくさんの情報に触れさせるということが、実は学習自体を阻害することになります。
さらにデジタル教科書のリンクはネット検索とともに情報過多となり、自分で考える前に調べるようになります。
しかも端末で完結しがちなので、紙のノートを使わなくなり、「書き写して覚える」こと、メモを取る能力、書字の能力にまで影響が及ぶことが予想されます。
書字のレベルでは、「かな漢字変換」に頼ることで簡単な漢字すら書けなくなり、語彙選択のレベルでは「予測変換」に頼って同じ表現や定型文を繰り返すことになります。
さらに要点把握のレベルでは、キーボードの高速入力が災いして、要点を絞ることなく受動的にすべてをタイプするようになってしまいます。デジタル機器では雑に書いた後の編集機能に頼る分、文脈を正しく想定できないと構成がおろそかになってしまいます。
このように、便利だと思って大人が与えようとするデジタル機器は、ほぼすべて裏目に出る可能性が高いのです。ですから、「デジタル化でより便利な授業になる」などと期待しすぎてはいけません。
■「ハンデを抱える子への支援」の声もあるが…
ハンデを抱えている子どもたちへの支援として、デジタル機器が活用される例もありますが、そのような場合も、十全な効果を生んでいるか検証が必要です。たとえば、「音声化のオプションが有効」という人がいますが、音声教材に求められることを知らずに、人工音声による読み上げがあれば十分だと考えがちです。
本書で繰り返し触れてきたように、人間の言語音には、抑揚や言葉の切り方といった重要な情報が含まれています。たとえば、「あなたと私の友達」という表現は、「あなた」と「私の友達」という二人を指しているのか、「あなたと私の共通の友達」という一人を指しているのか、区切る場所によって意味がまったく異なります。意味を解さない人工音声にその区別はできません。朗読は簡単に機械化できるものではないのです。

■「合成AI」がもたらす危機
生成AIは、正しくは「合成AI」と呼ぶべきです。これは、AIが言葉を生成しているわけではなく、単に単語や文字を並べているだけだからです。
真の「生成」は規則的な言語能力を指すので、AIに用いるべきではありません。「合成AI」は、複数の情報を合成するだけですし、何でもありですから。私の著書『デジタル脳クライシス』(朝日新書)でも解説しましたが、ChatGPTなどのチャットボットも人の心を理解してやり取りしているわけではなく、あくまで「対話風」です。
そもそもなぜ「合成AI」を、競うように学校現場に取り入れる必要があるのでしょうか。多くの人が言うのは、「効率的である」とか「便利である」ということですが、そのような観点から教育を捉えること自体が間違っています。
教育において、「短時間で覚えられればいい」などという価値観はゼロです。むしろ、教育とは繰り返しやって、それでも忘れてしまい、また繰り返しやってみる、そういう非効率なことの積み重ねです。効率という価値観を教育に持ち込むことは、自ら考えること、判断することの放棄に等しいのです。
■都立学校での運用が始まっている
今までの学習における研究の歴史を振り返ってみても、デジタル機器なしで十分な学習効果が上げられてきました。一方、デジタル機器の「活用」の成果はほとんどありません。

北欧では、デジタル機器が教育に対して負の効果を及ぼしているという結果も出ています。
ところが日本では、たとえば東京都が、二〇二五年五月より全都立学校で生成AIを活用した学習を進めるという「都立AI」の運用を開始しました。これは非常に危険なことです。他府県も追随して導入する可能性があります。AIを使うことで生じるリスクについて議論をせずに飛びついたわけですが、それに対する責任は誰が取るのでしょうか。
たとえば「都立AI」の内容には、「生成AIに俳句や笑い話を作らせて、生成AIの得意分野と苦手分野を知る」というものがありますが、そのこと自体が笑い話のようです。これは真剣な議論がなされた結果なのでしょうか。
■「デジタルなしでは生きられない」という錯覚
このままデジタル機器や生成AIを使用し続けた場合、機械に頼って脳を使わなくなることで、思考力や判断力の低下が加速度的に生じるでしょう。AIが出した結論の理由など、開発した技術者にも分からないのです。生徒は自分の考えに自信が持てなくなりますから、考えること自体をやめるようになります。そうした思考停止ほど恐ろしいことはありません。
また、SNSやAIは依存症になるリスクがきわめて高いのです。
使用を禁止されても、使いたくて仕方がないという状況に陥るでしょう。デジタル機器は本来なくてもよいものなのに、「SNSやAIなしでは生きられない」というような錯覚を起こすようになります。
大人も例外ではありません。メールやLINEの返信がすぐに来なかったり、注文品がなかなか届かなかったりするだけで、いらついたり短気になりがちです。それが子どもたちの身に起これば、授業に集中できるものではありません。この後戻りできない状況が教育にとってどのくらい恐ろしいことか、真剣に考える必要があります。
■北欧では「紙回帰」が進んでいる
スウェーデンやフィンランドでは、デジタル教科書から紙への回帰が見られますが、これは北欧特有の問題ではなく、彼らが先んじて極端なデジタル化に舵を切った分、早く悪影響が表れただけのことです。
ところが日本は「新しもの好き」で付和雷同しやすいですから、紙へ回帰する前に流されて終わりでしょう。
もちろんこれまでの「ゆとり教育」などの政策も、数年後に悪影響が出た後も何ら責任が追及されませんでした。AIの使用を扇動する火付け役である開発者、そして国や教育委員会は、教育の将来に禍根を残すことになるかもしれないという可能性を一顧だにしていないようです。そして、今後生じる深刻な学力低下と判断能力の喪失に対して、日本では検証や追及が行われることもないと思います。
それが実際にできた北欧は、真の先進国だと言えるでしょう。

このような状況を断ち切るために学校教育ができるのはどのようなことでしょうか。
それはデジタル機器や「合成AI」がある程度まで遠ざけられる芸術科目や体育などを通し、創造的な人間力や非認知能力を取り戻すことです。
つまり、体育や音楽、美術、書道、読書などの時間を十分に確保して、情操教育の比重を高めるのです。それは、デジタル機器をまったく使わない、使わせないという「デジタルデトックス」の機会を極力作るということでもあります。
■教育の本当の価値とは
デジタル機器やAIと違って、体育や音楽は地道に繰り返し練習することの価値や素晴らしさを教えてくれます。技を磨くことの喜びというものを経験させれば、ほかに興味を持ったことにも手を抜かなくなるでしょう。
勝ち負けがあるスポーツでは、結果を出すことが目標のように捉えられがちです。しかし、結果として上手にできなかったり、試合に負けたりしても、地道に努力を重ねることは決して無駄なことではありません。その過程で得られるものがいかに大きいかを教師が示してあげたいものです。
数学でも、科学の実験でも、失敗を繰り返さないようトレーニングが求められます。いきなり難しい問題が出されても解けるはずはなく、段階を踏むことで見える景色が変わってくるわけです。専門的な研究も、これとまったく同じです。
教育の価値は、人間が人間を育てるという一点に尽きます。人間にしかできないこととはいったいどのようなことなのか、今一度問い直していただきたいです。
どんなに膨大なデータや高性能のAIがあっても、本当の意味で寄り添った指導はできません。人間の教師であれば、生徒がどの程度理解しているかや、その生徒の性格や強みを基に、最適な指導方法を見つけることができます。人と人であるからこそ、互いの信頼関係のもとに困難を解決し、能力をさらに伸ばすことができる。人が人を見るというその「確かな目」というものが教師になければ、うまく育てられません。
■「シンギュラリティ」は到来するのか
生徒の指導をAIに任せるようになったら、教師という仕事は終わりです。生徒のほうでも、教師を信頼できなくなってしまうでしょう。
AIの性能が人間の知能を超えるという「シンギュラリティ」の到来を唱える研究者もいますが、それはまったく根も葉もない憶測にすぎません。人間があきらめなければ、シンギュラリティなど存在しないのですから。
ただ、早々に人間があきらめてしまえば、人間がAIや機械に使われるだけです。将棋の名人も「AI超え」の一手を見つけられるのですから、人間がAIを上回るという可能性は決して消えないのです。もちろんスポーツや芸術でも同じです。
子どもたちの学びにデジタル機器やAIなど必要ないということ、むしろ使わないことで本当の教育が取り戻せるということを、今一度考え直す必要があります。
日本最古の「紙の教科書」は平安時代末期の『明衡往来』であり、「往来物」として明治前期まで使われました。この一〇〇〇年もの実績に対し、たかだか二〇年ほどしか利用されていないデジタル教科書に置き換えることは、教育の根幹を壊す恐れがあります。
教育効果が保証されているのは、「紙の教科書」一択しかないのです。

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酒井 邦嘉(さかい・くによし)

東京大学大学院総合文化研究科教授、言語脳科学者

1964年、東京都生まれ。東京大学医学部助手、ハーバード大学リサーチフェロー、マサチューセッツ工科大学客員研究員、東京大学大学院総合文化研究科助教授・准教授を経て、2012年に同教授。02年、『言語の脳科学』(中公新書)で第56回毎日出版文化賞、05年、「脳機能マッピングによる言語処理機構の解明」で第19回塚原仲晃記念賞受賞。著書に、『脳を創る読書─なぜ「紙の本」が人にとって必要なのか』(実業之日本社)、『チョムスキーと言語脳科学』(インターナショナル新書)、『脳とAI』(編著、中公選書)などがある。

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(東京大学大学院総合文化研究科教授、言語脳科学者 酒井 邦嘉)
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