■時の首相に5億円が渡った最大の贈収賄事件
戦後最大の疑獄と呼ばれた「ロッキード事件」が発覚し、田中角栄元首相が逮捕されてから50年がたつ。ロッキード事件は、米航空機製造大手・ロッキード社が、旅客機トライスターを全日空に採用させるために日本の政財界に働きかけた贈収賄事件だ。その核心とされたのが、大手商社・丸紅(ロッキード社の販売代理店)を通じて現職の総理大臣だった田中氏に現金5億円の賄賂を渡したという「丸紅ルート」である。
小沢一郎・前衆院議員(中道改革連合)は当時、まだ2期目の衆院議員だった。田中派の若手のホープとして、師と仰ぐ田中氏の逮捕という派閥最大の危機に直面することになった。小沢氏は、ロッキード事件の東京地裁における第1審をすべて傍聴したという。「今太閤」と持て囃された田中氏は、なぜ逮捕されたのか。小沢氏にインタビューして、当時の状況を振り返ってもらった。登場人物の肩書は、いずれも当時のものである。
■朝のニュースで「親父」の逮捕を知った
1976年7月27日、田中氏は約5億円の資金を海外から不正に受け取ったとして、外為法違反容疑で東京地検特捜部に逮捕された。
この日の早朝、特捜部はメディア各社に察知されることなく目白台にある田中氏の私邸を訪れ、東京地検へ同行を求めた。小沢氏にとってもまさに「寝耳に水」の出来事で、田中事務所があった平河町の砂防会館へと急いだという。
「田中の親父が逮捕されたことは、朝のニュースで知りました。それで僕は驚いて、田中派の議員の中では真っ先に砂防会館に駆けつけたんです。すでに検察の家宅捜索が始まっており、マスコミも集まってきて騒然としていました」
田中氏は8月16日には、刑法の受託収賄罪も加えて起訴されることになる。
小沢氏はこう指摘する。
「ロッキード事件については、大きく2つの問題があります。一つは事件の中身そのもので、あまりに不可解な点が多いということ。もう一つは、わが国の司法・検察制度の問題です。この2つの点で、時の政権とこの国の司法は大きな過ちを犯したと思っています。
小沢 一郎(おざわ・いちろう)
1942年岩手県奥州市生まれ。慶応義塾大学経済学部を卒業後、69年衆議院初当選。田中角栄元首相の寵愛を受け、自治大臣、党幹事長を務める。離党後は新進党、自由党、民主党などで代表を歴任。10年「陸山会事件」で強制起訴される(12年に無罪が確定)。26年衆院選で落選、5月に一清会事務所を開設。
■英国大使館裏やホテルオークラの駐車場で
検察のシナリオでは、72年8月23日、丸紅の檜山広社長らが首相に就任したばかりの田中氏を訪問した。檜山社長がロッキード社の旅客機を全日空が導入できるように運輸大臣などに働きかけてほしいと依頼し、その謝礼として5億円を支払うことを申し出た。田中氏は「丸紅がロッキードのエージェント(代理店)だったか。よしゃ、よしゃ、わかった」と快諾したというものだ。
72年10月に全日空がトライスターの導入を決定した後、ロッキード社から丸紅を通じて田中氏サイドへ現金5億円が渡されたことになっている。
たなか・かくえい●1918年生まれ。
不可解なのは5億円の受け渡し方法で、4回に分けて行っていることだ。ロッキード社東京事務所で段ボール箱に入った現金を受け取った丸紅の伊藤宏専務が、田中氏の秘書だった榎本敏夫氏に手渡したというものだ。
1回目は73年8月10日、英国大使館裏の路上で榎本秘書が伊藤専務から直接、段ボール箱を受け取った。2回目は同年10月12日、伊藤専務の自宅近くの公衆電話ボックス付近で、伊藤専務の運転手が榎本氏に渡した。3回目は74年1月21日、港区赤坂のホテルオークラの駐車場で伊藤専務の運転手が段ボール箱を持参し、榎本氏の車に積み替えられた。4回目は74年2月28日、伊藤専務宅を訪れた榎本氏に手渡された。
■なぜ人目につく場所で現金を受け渡したのか?
小沢氏はこう否定する。
「榎本秘書を通じて親父に5億円が渡ったことにされているが、これほど頻繁に受け渡しをくり返していながら5億円の現金を見た者は誰もいないんです。段ボール箱を渡したというだけで、それが本当に金だったのかを検察は立証しきれていません。
路上での受け渡しを含めた4回の現金授受は、検察による無理筋のストーリーだったのか。作家の真山仁氏は著書できわめて率直な疑問を傾けている。〈最も人目を避けたい行為を、なぜ四回も繰り返すのだろうか。現金授受の場所は、他人の目につかない場所であるべきだ〉(『ロッキード』文藝春秋)。
榎本氏は当初、「私にはちょっと覚えがありません」と否認していたが、検察官から「田中、五億円の受領を認める」と報じた新聞の見出し(それは誤報だった)を意図的に見せられ、“自白”させられる。だが、公判では4回にわたる現金の授受は「絶対にない」と否認に転じた。
■ロッキード社幹部への嘱託尋問が決定打に
ロッキード事件が明るみになったのは76年2月4日、米国上院議会の多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)が開いた特別公聴会だった。ロッキード社がトライスター機の売り込みのため、日本やフランス、オランダ、イタリアなどの各国政府関係者に巨額の賄賂をばら撒いたことが暴露されたのである。その2日後にはロッキード社のコーチャン副会長が、丸紅を通じて日本の政府高官に賄賂を渡したことを証言した。米国は友好国への配慮と、ロッキード社製軍用機(対潜哨戒機P3C)の日本への導入計画に悪影響が出ることを懸念し、賄賂を受け取った人物については公表しないという立場を取った。
一方、日本では三木武夫首相が疑惑の解明に積極的な姿勢を見せた。
小沢氏がこう話す。
「決定的だったのは、コーチャン氏や、ロッキードの東京支社長だったクラッター氏の嘱託尋問が認められたことです。しかも、刑事免責を与えたうえで証言させるという当時の日本の法律では認められていない手法がとられたのです」
■「こんなバカな捜査があるか」
嘱託尋問とは、証人が外国にいる場合、日本の検察は直接尋問できないため、外国の裁判所に頼んで尋問をしてもらうことだ(司法共助)。ところが、コーチャン氏とクラッター氏は日本の法律で裁かれることを恐れて証言を拒否する。
このため、日本の検察トップである検事総長は超法規的措置として、2人の証言の内容に違法行為が含まれていても罪に問わないことを約束したのである(刑事免責制度は2018年に日本でも導入された)。
そのことを前提に、米連邦裁判所で日本の検察官が立ち合いのもと、米国の連邦検察官によってコーチャン氏とクラッター氏に対する尋問が行われた。
小沢氏の舌鋒は検察ばかりか、最高裁判所にも向けられた。
「こんなバカな捜査があるか。こんなことが許されるのなら、誰でも罪に陥れることができます。
嘱託尋問でコーチャン氏らが贈賄工作について詳述したことが端緒となり、田中氏逮捕へとつながる。
※児島惟謙:1891(明治24)年、滋賀県大津市で、来日したロシア皇太子が護衛の巡査に切りつけられて負傷する「大津事件」が発生。ロシアとの関係悪化をおそれた政府は、日本の皇族に対する「大逆罪」を適用して死刑にするよう裁判所に圧力をかけた。これに対し、大審院長の児島惟謙は当時の刑法に従って巡査を無期懲役にさせ、司法権の独立を守った。
■木製の硬い椅子に座らされている親父を見て…
ロッキード裁判が始まったのは、77年1月27日。東京地裁における第1審は、83年10月12日の判決まで6年8カ月、191回にわたって公判廷が開かれた。小沢氏はそのすべてを傍聴したという。
「被告席は木製のベンチでね、総理までやった人間が硬い椅子に座らされているのは、かわいそうで見ていられませんでした。僕が陸山会事件で強制起訴された時は、大きなふわりとしたイスだったけどね……。それは心情的なことなんですが、僕が傍聴に通い続けたのは、日本の歪められた司法制度と権力の濫用に対する怒りがあったからです。こんな目茶苦茶な裁判はないと思いながら、法廷を見つめていました」
田中氏は、法廷で一貫して全面否認した。
〈「陳情客が殺到している状況で檜山が来ても、いくらマスコミに“わかったの角サン”などと揶揄される私でも、それほど軽率ではない。藪から棒に『五億円用意しています』と申し込まれて『わかった』と即答するわけはない。事実そのようなことはなかった」と言い張った〉(早野透・松田喬和『田中角栄と中曽根康弘』毎日新聞出版)
だが、明らかに不公平だったのは、検察官が米国で自分たちに都合のいい証言を一方的に取ってきながら、コーチャン氏ら証人に対して、被告人である田中氏や弁護側に反論(反対尋問)する機会が一度も与えられなかったことである。小沢氏の最大の不満は、デュー・プロセス(適正手続の原則)が軽んじられたことにある。
■ロッキード事件には“前段”があった
「僕は田中の親父が実際にお金をもらったかどうかという問題は別にしても、裁判が公平で適正な手続を欠いたまま進められていったことが重大な問題だと思っています。日本の政治と司法がロッキード事件で制度を踏み外したことは、大きな汚点です」
田中氏は、立花隆氏が月刊誌『文藝春秋』74年11月号に発表したレポート「田中角栄研究―その金脈と人脈」に端を発した「金脈問題」で、74年12月に退陣に追い込まれていった。田中内閣の総辞職と三木内閣の発足から、1年2カ月後に発覚したロッキード事件。「クリーン」を標榜し、汚職とは無縁な政治家として知られる三木氏が米国に疑惑の解明を直訴し、司法は異例の超法規的措置へと動いていったのである。
小沢氏はこう話す。
「ロッキード事件は事実上、首相だった三木さんが検察に捜査をやれと言ったからできたのです。米国側からの全面協力を得て、刑事免責を付与する形での嘱託尋問を許しました。三木さんの強力な後押しがなければ、検察だけでは着手できなかったはずです」
■「親父は政治判断をまちがえた」
三木氏がそうまでして事件解明に力を注いでいった理由について、小沢氏は「政敵を倒すためだった」と見る。
「三木派は総裁選(72年7月)の決選投票で、田中の親父に票を投じて総裁就任に協力しました。その三木さんを『政敵』にしてしまったのは、実は親父の側にもまずい対応があったのです。原因は後藤田正晴さんでした」
74年7月、田中政権下で実施された参院選で、自民党執行部は徳島選挙区に後藤田正晴氏を擁立する。だが、徳島は三木氏のお膝元であり、三木派の城代家老といわれた久次米健太郎氏が現職だったため公認争いになった。結局、後藤田氏が公認候補となり、久次米氏は無所属で出馬する憂き目を見た。結果は久次米氏の当選に終わったが、この選挙は「三角代理戦争」と呼ばれ、田中氏と三木氏の間に禍根を残すことになる。
「田中派内でも、僕たちはものすごく反対しました。『何で、そんなに後藤田さんを推すんだ』と。親父は学歴にコンプレックスを持っていたから、東大出の後藤田さんを頼りにしていたのかもしれない。後藤田さんが有能な人であることはまちがいない。だけど、三木さんの地元に無理やり候補を立てたら、道義に反します。そりゃあ誰だって頭に来るでしょう。親父は政治判断をまちがえた。
そんなことがあったから、三木さんは『田中訴追』の方向へと突き進んだのです。しかし、三木さんも選挙の恨みつらみは政治で返すべきだったと思います。田中の親父のほうも政治力を使えば、検察の捜査を押さえることもできたと思いますが、それをやらなかった。そこがまた親父のいいところなんだよ」
■最大派閥・田中派のもろい実態
ロッキード事件は、米国が仕掛けたという陰謀説も根強くある。田中氏は国内では「日本列島改造論」を強力に推し進める一方、外交では米国に先駆けて72年に日中国交正常化を成し遂げた。当時の米政府からすれば「米国離れ」の姿勢を見せた田中氏を、意図的に失脚させたという見方である。小沢氏はどう考えているのだろうか。
「親父が首相の時に、ソ連のチュメニ油田を共同開発しようという構想もあったから、『容共』と捉えられた可能性はあります。米国の虎の尾を踏んだという話もよくされますが、本当のところはわかりません。ただ、米国にとって親父はあまり好ましい人物ではなかったかもしれません。だから、三木さんの要請に応えたのでしょう。ロッキード事件は、やはり三木さんの意向が強く働いていると思います」
ロッキード裁判中にも、田中氏は党内最大派閥の田中派をさらに膨張させることに余念がなかった。裁判で無罪を勝ち取り、数の力を背景にもう一度、首相の座に復権するつもりでいたことはまちがいない。
「親父は、民主主義は数だという信念があったんです。だから、派閥にどんどん人を入れました。僕はちょっとやり過ぎだなと思って見ていました。若い人ならいいのですが、年輩の人たちばかり入れたんです。それで、後から田中派に入ってきた人たちと、われわれ生え抜き集団との間で軋轢が生じるようになっていったのです」
■砂防会館が震えるような怒鳴り声が…
田中派内の不協和音が露見したのは85年2月、「創政会旗揚げ」の時だった。小沢氏や金丸信氏、梶山静六氏らが中心になって、竹下登氏をリーダーとする政策集団「創政会」を40人で発足させる。田中派内の勉強会の形だったが、田中氏は烈火の如く怒った。
その怒りの激しさは、田中派幹部だった渡部恒三氏が田中氏に会うために事務所に向かった時、砂防会館が震えるような怒鳴り声が聞こえてきたので、おっかなくなって逃げ帰るほどだったという(『小沢一郎 闘いの50年―半世紀の日本政治を語る』岩手日報社)。
小沢氏が当時を振り返る。
「僕は親父が辞めた時のために、後継者をつくっておかなければ派閥は持たないと考えていました。親父は後継者をつくらない主義だったから、それが逆鱗に触れてしまった。権力者は誰だってそういうものなんです。後継者をつくった途端に権力がそっちに移ってしまいますから。だけど、僕ら子飼いたちは田中の親父を潰そうなんて気はさらさらなかった。それを取り巻きたちが『造反だ』『クーデターだ』と吹聴したものだから、親父はカッカカッカしてしまったのです」
小沢氏らに担がれた形の竹下登氏は当時、自民党のニューリーダーの一人と目された人物。竹下氏は、卓越した気配りと根回しで「調整型政治家」の典型と称された。だが、意外にも田中氏の評価は低かったという。
■宴席で田中氏が話した「最後の言葉」
「竹下さんは気が小さくて、強力なリーダータイプではなかったので親父からは好かれていませんでした。竹下さんはひょうきんな性格で、僕らが真剣な話をしている時でもひょうきんなことばかり言うんです。しょうがないなと思うんだけど(笑)」
「僕は竹下さんと親戚(小沢氏の妻と、竹下氏の実弟・亘氏の妻が姉妹)だからこんなことも言うのですが、その反面、ものすごく忍耐強い人でした。みんなの話を『なるほど、なるほど』と言いながらよく聞くものだから、敵をつくらなかった。話の中身はろくに聞いていなかったと思うんだけど、その姿勢が大事なんです。みんな『竹下さんに話を聞いてもらった』って、感謝しますからね。そういう類稀な忍耐力があったからこそ、総理にまで上り詰めることができたのです」
小沢氏が田中氏と最後に会ったのは、創政会設立からほどなくして行われた、仲直りの宴席だった。その宴会の最後に、田中氏は「愚者は語り、賢者は語らずという言葉がある。俺もこれからそれにならってやる」と話したという(前掲『小沢一郎 闘いの50年』)。その翌日、田中氏は脳梗塞で倒れた。それ以降は、長女の眞紀子氏から「竹下派に関わるやつは一切入れない」と言われ、会うことができなくなった。
田中氏は国政の表舞台に復帰することはなく、93年12月16日、肺炎のため75歳で亡くなった。田中氏の死後、小沢氏だけは訪問を許され、命日には線香を上げに行っていたという。
■「検察に潰されたようなもの」
ロッキード事件で、83年10月12日に田中氏に言い渡された一審判決は、懲役4年、追徴金5億円の実刑判決だった。87年7月29日の控訴審判決でも東京高裁は一審判決を支持し、田中氏の控訴を棄却した。最高裁における上告審の審理中に田中氏が死去したため、公訴棄却となった。
だが、ロッキード社のコーチャン氏とクラッター氏に刑事免責を与えて実施された嘱託尋問について、1、2審が「適法」と認めた判断は、95年2月22日の最高裁判決でひっくり返された。被告側の反対尋問が実質的に封じられていたこともあり、最高裁は「違法」と断罪し、嘱託尋問調書の証拠能力を否定したのである。その一方で、田中氏が5億円の賄賂を受領したとの事実認定は覆ることはなかった。丸紅側の檜山氏や、田中氏の秘書だった榎本氏らの上告は棄却され、有罪が確定した。
小沢氏はインタビュー中、しみじみとこう呟いた。「そうか、もう50年になるのか」。だが、意を決したようにこう言葉を継いだ。
「親分、子分で同じように検察に潰されたようなものです。僕は陸山会事件で完全無罪を勝ち取ることができましたが、検察は僕がゼネコンの西松建設から違法な献金を受け取ったとして政治資金規正法違反で捜査しながら、裏金なんてまったく出てこなかった。すると、今度は『陸山会』の土地購入に絡んで政治資金収支報告書にケチをつけてきました。虚偽記載というわけですが、修正すれば済む話を、訴因の変更までして僕を罪に陥れようとしたのです。これは検察が『捜査方法が間違っていました』と白状しているようなものです」
■99.9%が有罪になる国で、裁判所の使命は何か
小沢氏が続ける。
「日本の刑事裁判は検察官が起訴すれば、99.9%が有罪になります。これはあり得ないことで、だったら裁判所はいらないということになる。裁判官が検察官の言いなりになったら、もうおしまいです」
日本の刑事裁判の有罪率が異常に高い理由について、検察官が確実に有罪を立証できる事件だけをセレクトして起訴しているという見方がある。しかし、それでは検察官が実質的な判断権者として振る舞っていることにならないか。刑事裁判における判断権者は検察官ではないはずだ。
小沢氏はこう話す。
「米国の各州の地区検察官の多くは、選挙で選ばれます。裁判も陪審制度だから、事実認定の合議に裁判官は加わりません。いまこそ、冤罪の温床となっている日本の司法制度は変えなければなりません。僕はね、時間が取れるようになったら世界各国の検察・裁判制度を全部調べたいと思っています」
自らも“国策捜査”に翻弄された小沢氏にとって、ロッキード事件は歪んだこの国の司法制度と対決する原点になったはずだ。
被告人を有罪とするには、「合理的な疑いを超える証明」が検察官に求められている。難しい言い回しだが、検察側の証明によって、被告人が有罪であると判断することに疑いがほとんど残らない状態を指している。よく喩えられるのが、白いキャンバスに検察官が黒い墨を塗っていき、気になる余白がない状態になってはじめて裁判所は被告人を有罪にすることができるということだ。
はたして、贈賄側の“主犯”の証言を「証拠能力なし」と判断したロッキード事件の最高裁判決で、キャンバスはその状態を維持していたといえるのだろうか。冤罪事件が相次ぐ昨今、ロッキード事件50年の節目に改めて考えたい。
----------
亀井 洋志(かめい・ひろし)
ジャーナリスト
1967年愛知県生まれ。『週刊文春』『週刊朝日』などの専属記者を経て、現在はフリーランス・ジャーナリスト。著書に『どうして私が「犯人」なのか』(宝島社新書)、『司法崩壊』(WAVE出版)など。
----------
(ジャーナリスト 亀井 洋志)

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)







![NHKラジオ ラジオビジネス英語 2024年 9月号 [雑誌] (NHKテキスト)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Ku32P5LhL._SL500_.jpg)
