第二次世界大戦後、日本はGHQの占領下に置かれた。彼らとの戦後処理の交渉役を担ったのは政治家ではなく、一介の民間人である白洲次郎だった。
マッカーサーに一歩も引かなかった男のエピソードを、作家・向谷匡史さんの著書『寝業師の仕事術』(清談社Publico)より紹介する――。(第1回)
■昭和天皇との写真にGHQが込めた狙い
日本が降伏して1カ月ほどが過ぎた1945年9月29日、日本政府は度肝を抜かれる。新聞の一面に天皇陛下とダグラス・マッカーサー司令官の2人が並んだ記念写真が掲載されたのだ。
正装の天皇に対して、マッカーサー司令官はノーネクタイ。ラフな服装は現人神(あらひとがみ)の天皇に対する“不敬”ではないか。
ありえない。いや、あってはならないツーショットだった。衝撃を受けた日本政府はすぐさま新聞を発禁処分にしようとした。
ところが「NO!」――「それはまかりならぬ」とGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が政府に厳命したのである。理由は明白だった。日本国民に敗戦を思い知らせ、誰が最高権力者であるかを教えるため、マッカーサーはわざとラフな格好でツーショットにおさまってみせたのだった。
当時、「泣く子も黙る」と言われたGHQだ。
命令は絶対であり、発禁命令は取り消された。新聞でこの写真を目にした日本国民は敗戦という事実を思い知らされ、マッカーサーの傲慢不遜な態度に「新たな支配者」を見たのだった。
■マッカーサーを慌てさせた民間人
官僚や政治家は何かにつけてGHQの顔色をうかがい、お伺いを立てた。白洲次郎はこの卑屈さが我慢ならず、敢然と胸を張って言い放つ。
「俺たちは戦争に負けたかもしれないが、奴隷になったわけじゃない」
これだけの気骨を持った白洲次郎を、当時、外相だった吉田茂(のち首相)は終戦連絡中央事務局参与としてGHQとの交渉の窓口に据える。
日本の命運を決定する戦後処理の交渉役に、白洲次郎という一介の民間人を抜擢(ばってき)した吉田も型破りの政治家だが、それを受けた白洲の度胸もさすがであった。
白洲の“武勇伝”はいくつもあるが、いまもって語り継がれるのは「クリスマスプレゼント事件」だ。敗戦の年のクリスマス。天皇陛下からのプレゼントを終戦連絡事務局参与の白洲次郎がマッカーサーに届けた。
敗戦から4カ月。占領政策はこれからどうなっていくのか。懸念した日本政府が天皇の名を借りて「最高権力者」のご機嫌を取ったのだろう。
ところが、
「その辺にでも置いてくれ」
マッカーサーが面倒くさそうに言ったのである。これに白洲が激怒した。
「いやしくも天皇陛下からの贈り物をその辺に置いておけとは何事か!」
啖呵を切り、持ち帰ろうとした。マッカーサーが驚き、あわてて引き止めたのだった。
■相手の思惑を裏切ることで一目置かせる
あるいは「ホイットニー事件」もある。
GHQ民政局長のコートニー・ホイットニー准将は、憲法草案制定会議の責任者として、日本国憲法草案作成を指揮した人物として知られる。そのホイットニーが白洲と対面したとき、“上から目線”でこう言った。
「ミスター・シラス、あなたの英語は大変立派なイギリス英語だ」
極東の島国に英語を話す人間がいるとは驚きだ――言外にそう揶揄(やゆ)したのだ。これに対して白洲が平然と切り返す。
「If you study a little harder, you will improve your English.(あなたも、もう少し勉強すればうまくなる)」
繰り返すが、敗戦わずか4カ月後だ。土下座して当然の“ご主人様”に対して、嫌みを言うなど考えられないことだった。この度胸にホイットニーは虚をつかれたのだろう。
目を剥いて絶句したという。
なぜ白洲はマッカーサーやホイットニーに楯突いたのか。真意はわからない。
だが、ひとつだけ言えることは、権力者であろうとも相手の「言(げん)」に一理あると認めれば理不尽なことはしないのが民主主義であり、英国に留学した白洲はこのことを知悉(ちしつ)していたはずだ。【へつらって】当然という相手の思惑を裏切り、裏切ることで一目置かせる。
“逆張り”という「寝業」で白洲は臨んだことになる。こうして白洲はGHQとの交渉において、筋が通らない要求や理不尽な命令に対しては一歩も引かなかった。GHQは「従順ならざる唯一の日本人」と本国政府に報告することになるのだった。
■芦屋の大富豪の御曹司
人力車が走っていた昭和初期――。兵庫県芦屋の大富豪の御曹司に生まれた白洲次郎はヤンチャだった。
名門の旧制第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高校)当時、アメ車のスポーツカーを駆って神戸の街を走り回った。癇癪(かんしゃく)持ちでケンカっ早いため、白洲家ではすぐに謝りに行けるよう菓子折りが用意されていたという。

「育ちのいい野蛮人」――第一神戸中学時代から親交があった作家の今日出海(こん ひでみ)は、白洲をそう評した。
白洲は旧制中学を卒業すると、英国ケンブリッジ大学に留学する。身長180センチメートルのイケメンで、大変なおしゃれ。スーツはロンドン・サビルローにある老舗テーラー「ヘンリー・プール」で仕立てた。自動車レースに熱中する一方、英国貴族たちと親交を結び、完璧な“キングス・イングリッシュ”をマスターして帰国。
結婚相手は樺山愛輔(あいすけ)伯爵令嬢で、のちにエッセイストとして名を成す「白洲正子」だった。白洲は樺山家を通じて当時、首相であった近衛文麿や吉田茂と親交を深めていく。
■世間の評価に出自は関係ない
苦悩も辛酸もなく、足を乗せればそのまま上に運んでくれるエスカレーターのような人生だった。庶民感覚からすれば、逆境から立身出世した人間に拍手を送ることはあっても、“銀のスプーン”をくわえて生まれてきた人間を称賛することはない。
ところが白洲次郎だけは違う。GHQと対峙した硬骨漢は「日本男児の鑑」としていまも語り継がれる。貧しくとも、あるいは“銀のスプーン”をくわえて生まれてこようとも、「世間の評価」と出自は何ら関係しないことを白洲次郎の処し方は私たちに教えてくれるのだ。

英国留学から帰国した白洲次郎は、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』の記者、次いでセール・フレーザー商会(当時、英国屈指の商社)に勤務したあと、1937年3月、35歳の若さで日本水産の販売部付取締役に就任する。
だが、順風のビジネスマン人生は太平洋戦争の勃発で暗転する。1941年12月8日、日本が開戦に踏み切ると、38歳の白洲は東京府南多摩(みなみたま)郡鶴川村(現・東京都町田市)に引っ込み、買った農家を「武相荘(ぶあいそう)」と名づけた。
鶴川村が武蔵国(むさしのくに)と相模国(さがみのくに)にまたがる場所にあったことからつけたとされるが、「無愛想」に引っかけた白洲一流の【しゃれ】であったのだろう。
■日本人ではじめてジーンズを穿いた男
戦時下においてビジネスマンの自分に出る幕はなく、時節到来を待ったともされる。乱にいて、あわてず騒がず。泰然と過ごすところに人間の器が見て取れる。白洲は畑仕事に精を出す。
そして1945年8月15日、日本は終戦を迎え、白洲は請われて歴史の表舞台に登場する。見識、語学力、国際感覚を買われてのことだったが、有能であることに加え、その度胸が買われたのだろう。敗戦から3カ月後の同年12月、当時、外務大臣だった吉田茂の片腕――終戦連絡中央事務局参与に就任。GHQとの交渉の窓口役になるのは前述したとおりだ。

終戦から6年が経った1951年9月、白洲次郎はサンフランシスコ講和条約の会議に全権団顧問として随行する。講和条約の締結によって連合国との間で戦争状態が終わり、日本が被占領状態からの独立を承認されることになる。日本にとって歴史の大きなターニングポイントであった。
当時はまだプロペラ機で、ハワイでの給油や整備、乗員交代などを含め、アメリカまで30数時間の長旅だった。白洲は機内でジーンズに着替える。
長身のイケメンによく似合い、「日本人ではじめてジーンズを穿いた男」とのちに語られることになる。
■30メートルの巻き紙に込めた矜持
サンフランシスコに到着し、会議の直前になって一悶着(ひともんちゃく)起こる。
会議での受諾演説をめぐって白洲が激怒したのだ。首席全権であった吉田茂は英語で演説を行う予定で、演説文は外務省の役人が作成し、事前にGHQに見せて了解を取りつけたものだった。GHQにおもね、美辞麗句が並んでいる。
白洲は外務省の役人を一喝した。
「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書くバカがどこにいるか! 日本語に書き直せ!」
泡を食った随行員たちが手分けし、必死で和紙に毛筆で清書する。演説文をつなぎ合わせると長さ30メートル、直径10センチメートルという巨大な巻物になった。これを吉田茂は読みあげたのである。海外メディアはこれを評して、「吉田のトイレットペーパー」と揶揄し、朝日新聞のコラム「天声人語」は「不思議な巻紙の勧進帳(かんじんちょう)」と書いた。
敗戦国の代表が自国語で演説するのは異例の行動であったが、これによって日本が国際社会に「独立国家として復帰した」という強いメッセージを与えることになる。白洲がいなければ、講和会議は単なる“謝罪の儀式”になっていただろう。この巻紙こそ、白洲の「日本人の矜持」が込められていたのだった。
■白洲が貫いた武士道
マッカーサーに対する一喝、ホイットニーへの嫌みの切り返し、そしてこの“トイレットペーパー事件”は一例にすぎないが、それぞれにおいて「理」は白洲にある。
イチャモンではない。「勝てるケンカ」と見定め、相手の意表をついて噛みつく。それは「寝業」の一法だった。
白洲は「プリンシプル(principle)」という言葉を好んで口にした。「原理、原則、根本」あるいは「主義、信条」と訳されるが、白洲自身はこう説明している。
《プリンシプルとはなんと訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。(中略)西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりとしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総(す)べての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたきこまれたものらしい》(白洲次郎『プリンシプルのない日本』新潮文庫
白洲は「原則」ととらえているが、「武士」という言葉と重ね合わせて考えると、「筋を通す」という意味になるだろう。言い換えれば「理は我にあり」ということだ。
「俺たちは戦争に負けたかもしれないが、奴隷になったわけじゃない」という言葉がそれを端的に象徴している。筋を通し、筋の通らないことは相手が誰であれ一歩も退かないという処し方こそ、白洲の言う「プリンシプル」であり、西洋で言えば「騎士道」、日本で言うなら「武士道」ということになる。

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向谷 匡史(むかいだに・ただし)

作家/浄土真宗本願寺派僧侶/日本空手道「昇空館」館長

1950年、広島県呉市出身。拓殖大学卒業後、週刊誌記者などを経て作家に。浄土真宗本願寺派僧侶。保護司、日本空手道「昇空館」館長として、青少年の育成にあたる。著書に『』(左右社)、『』(青春出版社)、『』(河出書房新社)、『』(徳間書店)など多数。

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(作家/浄土真宗本願寺派僧侶/日本空手道「昇空館」館長 向谷 匡史)
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