ドイツ人でありながら日本で諜報活動を行い、ソ連に機密情報をもたらしたゾルゲと同じような日本人名のスパイがいた。『スターリンの極東戦略1941‐1950』で第36回アジア・太平洋賞特別賞を受賞した歴史研究者の河西陽平さんは「占領下の朝鮮で暗躍したソ連協力者の”アベ”は、スパイの正体が明らかとなった数少ない例だ」という――。

※本稿は、河西陽平『日ソ中立条約』(角川新書)の一部を再編集したものです。
■ソ連の協力者、朝鮮軍将校「アベ」
ウラジオストク、ハルビンに続いてソ連のOGPU(合同国家政治保安部)外国部が対日諜報活動の対象として選んだのが日本の植民地統治下にあった朝鮮のソウルであった。
1927年9月、イヴァン・チチャーエフがソウルのソ連総領事に就任した。表向きの姿は外交官だが、彼の使命はOGPU外国部のソウル支局を指揮・統括することだった。
このことに関連して、ロシア対外情報庁が編纂した『ロシア対外諜報史概説』の第三巻に登場する「アベ」という日本人が興味深い。
シベリア出兵を終え、日本軍が沿海州から撤退した後、「アベ」は朝鮮軍将校としてソウルに勤務し、朝鮮人や中国人から構成される諜報網を組織し、彼らを沿海州やアムール州に送り込み、ソ連からの越境者を尋問することによって情報を入手していた。
1920年代半ばになって、「アベ」はより広範な情報を収集するためにソウルのソ連大使館との接触を命じられるが、ここで逆にチチャーエフらと協力関係を結ぶことになったようである。「アベ」がソ連側に提供した情報は、日本の陸軍参謀本部をはじめ関東軍司令部、朝鮮軍司令部、憲兵司令部のほか警察、朝鮮総督府、日本の諜報および防諜機関に関する重要書類であったとされている。
『ロシア対外諜報史概説』によれば、「アベ」によって渡された情報のなかには「田中上奏文(田中メモランダム)」も含まれていたというが、この点については少し詳しい説明が必要である。
■偽書「田中上奏文」を提供したか
そもそも「田中上奏文」とは、1927年6月27日から7月7日にかけて田中義一内閣が開催した対中政策をめぐる東方会議の後、7月25日に田中本人が昭和天皇に提出したとされる文書である。同文書には次のような内容が記されているという。
中国を征服するためには、我々はまず満洲とモンゴルを征服しなければならない。
世界を征服するためには、我々は何よりも中国を征服しなければならない。我々が中国を征服すれば、アジアおよび南洋の全ての諸国は我々の前に降伏するであろう。(中略)遠くない将来、我が国が満洲北部地域で赤色ロシアと衝突する時期が到来するのは避けられない。
■日本語原文は見つかっていない
もっとも、「田中上奏文」をめぐっては中国の雑誌に内容が掲載された1929年当時から偽書であることが指摘されてきた。それというのも、「田中上奏文」には漢文と英文のテキストのみが存在し、それらが中国を含む欧米各国に流布されていたのだが、天皇への上奏文には当然あるはずの日本語の原文が現在に至るも発見されていないのだ。
これに加えて、「田中上奏文」には明らかな事実誤認が複数見られることも、この文書が偽書であることを裏付けている。
ソ連・ロシア政治史を専門とする富田武の指摘をみてみよう。「田中上奏文」が偽書であることの根拠として、①文中に元老・山縣有朋がワシントン会議の結果調印された九カ国条約(1922年2月6日調印)に反対したと記されているが、当の山縣本人は同年2月1日に死去していること、②外モンゴル、内モンゴルに対する積極的な政策や植民地省設置の問題など、東方会議の議題にのぼらなかった話題について詳細に触れられていること、③「田中上奏文」の付属文書が宮内庁宛てに送られており、本来送るべき内大臣に宛てられていなかったことがあげられている。
こうした理由から、現代日本では「田中上奏文」が偽書であることが定説となっている。
■「大陸侵略プログラム」だったのか
それでは「アベ」が入手し、チチャーエフに提供したとされる、原文が存在しないはずの「田中上奏文」のテキストとは何だったのであろうか。『ロシア対外諜報史概説』では、上奏文が何語で書かれていたのか記されていないうえに入手時期も明らかにされていない。よって、上奏文入手の件は差し引いて読む必要があるだろう。

ロシア側の研究のなかには、ハルビンにおけるGRUのレジデントゥーラを率いていた暗号名「ニコライ」と呼ばれる駐在員が、OGPUのある支局から「田中上奏文」のコピーを入手したというものも見られる。
もっとも、ロシア側はソ連時代から現代に至るもなお、「田中上奏文」は現存した文書であると考えている。すなわち、1928年の張作霖爆殺事件に始まる一連の日本の大陸進出政策は、「田中上奏文」と呼ばれる気宇壮大な大陸侵略プログラムに基づいて実施されたものであるとの歴史認識は、21世紀の現代においても広く認知されているのだ――。
■スパイの「アベ」はソウルで暗躍した
どのような経路で「田中上奏文」が「アベ」からチチャーエフに届けられたのか、今となっては皆目見当もつかないが、そこに記された内容を目にしたモスクワのOGPU指導者達は驚愕したことであろう。
OGPU外国部ソウル支局は中央から次のような命令を下された。すなわち、「日本の対ソ侵略準備に関わるあらゆる事実、特に北満洲、モンゴル、極東におけるソ連の利益を日本が侵害しようと準備しているあらゆる証拠を明らかにせよ」というものだ――。
チチャーエフにとって優れた情報提供者となった「アベ」は、朝鮮軍や憲兵司令部、朝鮮総督府に勤務する日本人を次々と対ソ協力者としてリクルートすることに成功した。
モスクワのOGPU本部が特に関心をもって受け止めたのは、朝鮮軍の動員計画やソ連極東部における日本人による諜報活動に関する書類であったが、これらは「アベ」の協力者である朝鮮軍将校によってもたらされたものだ。
『ロシア対外諜報史概説』によれば、満洲事変勃発後、「アベ」は活動の拠点をソウルからハルビンに移したという。新天地における「アベ」の任務は多岐にわたる。政治情報の収集のほか、ロシア人エージェントによる情報の整理、情報収集源としての日本のハルビン特務機関や警察との連絡を維持すること、ロシア系移民組織との活動、諜報活動拠点を満洲領内に移転させるのを容易にすることなどだ。いかにOGPUが「アベ」を高く評価していたかが分かる。

■「アベ」は日本人か、それとも…
多忙を極めるなか、「アベ」はOGPU外国部ソウル支局に、満洲に到着した日本軍部隊の配置や装備、ソ連に対する軍事行動の準備に関する情報を提供した――満洲事変後の関東軍の動きについて、「アベ」はソ連側に伝達し続けていたのであった。
現在までに分かっているところによれば、「アベ」の対ソ協力活動は1935年頃までで、「サソウ」と呼ばれる関東軍の憲兵大佐の庇護を得て行われていたという。
そして富田武の研究によって、「アベ」は戦後ソ連によるシベリア抑留を経験した阿部幸一、「サソウ」とはウラジオストクの特務機関において荒木貞夫の部下として勤務した歩兵中尉の佐相寅秀であることが明らかにされた。日本の対ソ情報協力者の正体が明らかとなった数少ない例といえよう。

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河西 陽平(かわにし・ようへい)

歴史研究者

新潟県生まれ。公益財団法人中曽根康弘世界平和研究所研究員。2022年、慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。外務省国際情報統括官組織専門分析員などを経て、現職。23年に刊行した『スターリンの極東戦略1941─1950 インテリジェンスと安全保障認識』(慶應義塾大学出版会)で、第36回アジア・太平洋賞特別賞、2024年度国際安全保障学会出版奨励賞、第10回猪木正道賞奨励賞(日本防衛学会)の3賞を受賞した。専門分野はソ連・ロシアの安全保障、インテリジェンス研究。

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(歴史研究者 河西 陽平)
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