■デビュー50周年を迎えた伝説のアイドル
今年8月でピンク・レディーがデビュー50周年を迎える。1970年代後半、いまも語り草になるほどの社会現象を巻き起こした2人組アイドルだが、その凄さはミリオンセラーのヒット曲を連発したことだけではない。
「紅白」辞退から裏番組出演、本格的海外進出など、当時としては常識を超えたチャレンジをしたアイドルでもあった。
ピンク・レディーは、ミーこと根本美鶴代(現・未唯mie)とケイこと増田啓子(現・増田惠子)の2人組。ともに静岡県出身で、中学時代に出会った。その後デュオを組み、いくつかのオーディションに挑戦。最後のつもりで臨んだのが日本テレビ「スター誕生!」だった。そして見事デビューの権利を勝ちとる。
ただ合格はしたものの、期待が大きかったわけではない。「スター誕生!」で2人をスカウトした事務所は、T&Cというできたばかりの無名のプロダクションだった。
デビュー曲の依頼を受けたのは、「スター誕生!」の審査員でもあった作詞の阿久悠と作曲の都倉俊一である。だが2人にとってもミーとケイの印象はそれほど目を引くものではなかった。
■本命からはまったく遠い存在だった
2人がオーディション時に歌ったのは爽やかなフォークソング。衣装もそれに合わせた白いシャツに色違いのサロペット(オーバーオール)。
都倉の印象は、「大絶賛というわけではないが、オーディションで落とす理由もない」というどちらつかずのもの。「本命からはまったく遠い存在」だった(都倉俊一『あの時、マイソング ユアソング』)。
レコード会社はビクターという大手だったが、実は新人ディレクターが気に入って個人の判断でスカウトしてしまったというもの。だがそれゆえ、レコード会社の思惑を気にすることなく阿久と都倉は自由に曲をつくることができた。
常識的な路線としては、オーディションでも歌ったフォーク路線か、当時女性アイドルグループではトップの人気を誇っていたキャンディーズの路線。しかし、それではいずれにしてもつまらない。
そこで阿久と都倉がつくった曲が「ペッパー警部」だった。フォークとは正反対のアップテンポな曲で、詞はコミカルな風味もある恋愛ソング。そして何よりも、振付師の土居甫によるダンスが斬新だった。ペッパー警部が歩いているところをミーとケイが足を大胆に開いたり閉じたりする動作で表現するところもある、アイドルらしからぬ激しい動きの振り付けである。
■「下品な振り付け」と言われたが…
レコード会社の編成会議では揉めた。ビクター側は、てっきりフォーク調の曲になると思っていたからである。
だが都倉が自ら会議に出向いて押し切った。グループ名も、都倉発案でカクテルの名前から採った「ピンク・レディー」(ほかに静岡出身なので「みかん箱」という真逆の案もあった)に決まった。
そこから、誰もが予想していなかったピンク・レディーの芸能史に残る快進撃が始まった。
1976年8月発売の「ペッパー警部」はオリコン週間シングルチャート4位で60万枚以上を売り上げ、例の足を開いたり閉じたりする振り付けはメディアが「下品」と取り上げる騒ぎになった。2枚目の「S.O.S」では初のオリコン週間シングルチャート1位を獲得する。
それだけでは終わらず、翌1977年から1978年にかけてはまさにピンク・レディー一色になった。
「渚のシンドバッド」はオリコン週間シングルチャートで8週連続の1位。レコード売上もとうとう100万枚を超えるミリオンセラーになった。ここから「ウォンテッド(指名手配)」、「UFO」「サウスポー」「モンスター」と、計5作連続のミリオンセラーという前代未聞の快記録を達成する。
■歌のアニメーション化という革命
詞の内容も、従来のアイドルとは違っていた。
当時のアイドルは、純情な恋愛ソングを歌うのが常識。だがピンク・レディーが歌ったのは、恋愛をするにしても強い女性。
たとえば、「渚のシンドバッド」では、海辺でナンパしてくる男に対して「ちょっとお兄さん なれなれしいわ」と軽くあしらう。
さらに「UFO」になると、宇宙人との恋愛が歌われる。「地球の男に 飽きたところよ」というのがその理由で、強さもここまで来るとファンタジー以外の何物でもない。
そして「サウスポー」になると、もはや“アイドル=恋愛ソング”という枠から離れ、ピンク・レディーは魔球を投げるサウスポーのピッチャーとなって、ホームラン世界記録を達成した王貞治と思しき強打者と対決する。
作詞の阿久悠は、これら一連の曲を「非日常性のエンターテインメント路線」とも「歌のアニメーション化」とも呼んでいる(阿久悠『夢を食った男たち』、208頁)。宇宙人との恋愛や王貞治と女性投手の対決など、まさにアニメの世界。言い得て妙である。
■人気絶頂の中、紅白を辞退
ピンク・レディーの人気は頂点を極めた。CM出演も増え、街にはピンク・レディーのタイアップ商品があふれ、子どもたちは皆ピンク・レディーになりきって歌い踊った。まだ家庭用ビデオデッキの普及以前で、ピンク・レディーの新曲が出ると、雑誌などに振り付けの分解写真や解説が載った。
1978年には「サウスポー」で日本歌謡大賞、そして「UFO」で日本レコード大賞をダブル受賞。その前年の1977年には「NHK紅白歌合戦」にも初出場し、「ウォンテッド(指名手配)」を歌っている。

ところがその絶頂期にひとつの“事件”が起こる。
1978年は人気、レコード売上の面で見ても圧倒的。2年連続の「紅白」出場も確実だった。しかし、なんとピンク・レディーの側から出場を辞退したのである。
『紅白』の権威がまだまだ健在だった当時である。辞退だけでも衝撃だったが、しかもピンク・レディーは大晦日、「紅白」の裏番組に出ることを発表する。
「ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分‼」と題された日本テレビの番組は、目の不自由な子どもたちのためのチャリティが目的のもの。ピンク・レディーが子どもたちに絶大な人気を誇っていたこと、そして同じ年に「愛は地球を救う 24時間テレビ」が始まっていたこともあった。
■海外での意外な評価
番組は、ピンク・レディーをメインに芸能人やスポーツ選手がゲストで登場し、歌あり笑いありのステージを新宿コマ劇場から生放送するというもの。当時は日本レコード大賞も大晦日の放送で、「UFO」で大賞を受賞したピンク・レディーが急いでコマ劇場に駆けつけるという『紅白』のお株を奪う場面もあった。
とはいえ、当時の『紅白』の視聴率はまだ驚異的なもの。1978年の視聴率も72.2%(関東地区世帯視聴率。
ビデオリサーチ調べ。以下同じ)を記録した。対するピンク・レディーの番組は8.2%とはるか及ばず。この出来事が、翌1979年以降の人気の失速の一因ともされる。
そしてもうひとつ、忘れられがちだが興味深いのは、ピンク・レディーが本格的な海外進出によって一定の成果を収めた事実である。
1978年のラスベガス公演を経た1979年5月、ピンク・レディーのアメリカでのデビューシングル「Kiss In The Dark」が発売された。阿久・都倉コンビではなく外国人がつくった曲はディスコ調で、アメリカ人の嗜好を考慮してか、大人びたセクシーさを強調したものになっている。
この「Kiss In The Dark」は、「ビルボードHOT100」で最高位37位を記録。日本人歌手が同チャートで40位以内に入ったのは、1963年に1位を獲得した坂本九の「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」以来のことだった。そこまでの大ヒットとはいかないが、十分ヒットしたと言っていいだろう。
■アメリカの3大ネットワークで冠番組
さらにピンク・レディーは、アメリカ3大ネットワークのひとつであるNBCで冠バラエティ番組を持った。「Pink Lady and Jeff」(1980年)というタイトルの1時間番組。
アメリカのミュージシャンや俳優を招いてトーク、歌、コントを繰り広げる王道のバラエティ・ショーである。
ただ理由が定かではない所はあるが、この番組は5回で終了している。そしてピンク・レディーは日本に戻ったものの、すでに一時の勢いは失われ、1981年に解散することになる。解散コンサートの会場は後楽園球場。あいにくの冷たい雨中での公演になったこともあってより寂しさを感じさせるものだった。
しかしながら、アメリカの3大ネットワークで冠番組を持った日本人はいまのところピンク・レディーだけ。立派な功績だろう。
令和の現在、J-POPアーティストの多くが海外での成功を目指す時代になっている。それを見れば、40年以上前にピンク・レディーが海外進出を目指し、最終的には挫折したもののそれなりの実績を上げたことはもっと評価されてよいだろう。
そもそも歌とともにダンスで魅せるというスタイルを日本において確立した点で、ピンク・レディーは後の安室奈美恵やモーニング娘。、そしてPerfumeやNiziUなどへの道を拓いた。
そして歌うだけでなく踊れるピンク・レディーには、それだけ日本という枠を超えて支持される要素があった。完全に重なるわけではないが、同じアジアからアメリカで人気を博したという意味で、K-POPのBLACKPINKなどに通じるものがあるように思う。
■ピンクレディーが日本に踊りを広めた
解散後、ピンク・レディーは再結成を何度か繰り返し、2010年の「解散やめ!」宣言を経て2011年以降はソロ活動と並行して継続的に活動を続けている。
そんなピンク・レディーのコンサートでは、いまも会場が大人も子どもも踊るダンスフロアと化す。
ピンク・レディーの大きな功績は、ダンスを日本人にとって身近なものにしたことだろう。いまや学校の授業科目になったダンスだが、1970年代の当時、アイドルの簡単な振り付けをまねることはあっても、全身を使って踊るダンスは日本人にとって縁遠いものだった。
ところがピンク・レディーの登場によって子どもや若者を中心にダンスを踊ることが日常になった。筆者も目撃した世代だが、当時家庭や学校で我も我もとピンク・レディーを踊る光景は新しい時代が来たことを感じさせた。TikTokなどで誰もがダンスを見せるいまの時代の原点には、確実にピンク・レディーがいた。
要するに参加型エンタメ文化の始まりである。海外進出の件もそうだが、ピンク・レディーはいまのエンタメを先取りし、その礎を築いたパイオニア的存在だった。

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太田 省一(おおた・しょういち)

社会学者

1960年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本、お笑い、アイドルなど、メディアと社会・文化の関係をテーマに執筆活動を展開。著書に『社会は笑う』『ニッポン男性アイドル史』(以上、青弓社ライブラリー)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩選書)、『SMAPと平成ニッポン』(光文社新書)、『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)、『21世紀 テレ東番組 ベスト100』(星海社新書)などがある。

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(社会学者 太田 省一)
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