公開9日目で興行収入40億円を突破した『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』。映画解説者の中井圭さんは「大ヒットも納得の完成度の高さだ。
本作のポイントは、よくできたイヤミスのような後味。それを引き出したのが灰色に塗られた顔のない島民たちだ」という――。
■絵柄と恐ろしい物語のギャップ
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』(以下、『映画ちいかわ』)が大ヒットしている。その数字にも納得の、よくできた作品だ。本作が大きな話題を集める一因は、愛らしいキャラクターの見た目からは想像しにくい恐ろしさにある。なかでも、質の良いイヤミスのような後味を引き出しているのが、灰色に塗られた島民たち。
「ちいかわ」(『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』)世界の明るく楽しげな画面のなかに佇む、無彩色の彼ら。ひと目では区別のつかない没個性的な造形は、罪の所在を集団のなかに埋没させ、善と悪の境界を曖昧にする。その姿自体が、本作の主題を示している。
この映画がなぜこれほど恐ろしく、それでいてどこか懐かしく、人を惹きつけて離さないのかを考えるには、そもそも原作者のナガノ氏が生み出した「ちいかわ」とは何かまで遡る必要がある。結論を先に言えば、あの灰色は作者の思いつきではない。「ちいかわ」が繰り返し用いてきた「伏せる」という技術の到達点である。

「ちいかわ」は、小さくてかわいいキャラクターたちが過酷な社会を生きる物語とも言える。彼らは働き、資格試験を受け、危険な討伐に出かける。労働をめぐる現代の寓話という面があることは確かだ。だが、それだけでは作品の持つ奇妙な深さを捉えきれない。この作品はむしろ、日本の伝承や民話が持っていた物語の文法を、令和の生活感覚のなかへ置き直したものではないか。
■募集のチラシを見て“異界”の島へ
この世界では、日常と異界が分かれていない。森の奥、洞窟、拾った物、無料の食べ物、条件の良い仕事。暮らしのすぐ隣に、こちらの法則が通じない場所への入口がある。チラシを拾い、道を少し外れ、欲しいものへ手を伸ばしただけで、気がつけば帰りかたのわからない場所にいる。
『映画ちいかわ』の発端も、まさにそれだ。ちいかわたちを島へ導くのは、高額な報酬と実質無料の食べ物をうたう1枚のチラシ。昔話なら神や妖怪が差し出した誘惑を、現代では広告が代行する。
異界への入口は山道や鳥居ではなく、魅力的な「募集要項」として現れる。
海を渡り、異界の島でもてなされ、その歓待の奥に取り返しのつかないものを知る。その型は浦島太郎を思わせる。浦島太郎では、異界での幸福な時間が帰還した瞬間に喪失へと転じる。本作の歓待もまた、やがて別の顔を見せる。
「ちいかわ」は、そこで起きる怪異の原理をほとんど説明しない。主人公は真実を解明して秩序を回復する英雄ではなく、巻き込まれ、その一部だけを見て日常へ戻る。世界は彼らに理解されるために存在していない。この冷たさが、この作品を現代の説話にしている。
■「人魚を食べれば永遠の命が…」
「ちいかわ」において、食事は生きる喜びの中心にある。幸福はたいてい、小さな食卓の周辺にある。だが同時に、食べることは怪異への入口でもある。
正体のわからないものを口にし、食べることで身体や運命が変わる。食べる者と食べられる者の立場が、突然逆転する。
「人魚を食べれば永遠の命が得られる」という言い伝えも、日本各地の人魚伝承を想起させる。代表的なのが、人魚の肉で年を取らなくなった女性をめぐる八百比丘尼(やおびくに)の伝説だ。若狭小浜に伝わる代表的な型では、娘はそれが人魚の肉とは知らずに口にする。そこでの不老不死は幸福ではない。自分だけが人間の時間から外れ、周囲に先立たれ、ひとり残される。
『映画ちいかわ』は、この構造を変奏する。本作で人魚の煮付けを食べさせる動機は、大切な相手を救いたいという願いだ。知らずに得た者の代償が孤独なら、奪って得た者の罰は追跡になる。不死とは祝福ではなく、選択から永久に逃れられなくなることだ。なぜ人魚の肉が不死をもたらすのか、その原理は語られない。
しかし因果だけは確実に残る。
■和歌や俳句にも通じる描き方
こうした民話的な残酷さを漂わせながら、「ちいかわ」の感情の表し方は和歌や俳句のように繊細だ。紀貫之による『古今和歌集』仮名序は、人は心に思うことを「見るもの聞くものにつけて」言葉にすると説く。つまり「悲しい」「うれしい」と先に名づけるのではなく、花や鳥に触れた瞬間、輪郭のなかった心が言葉になる。「ちいかわ」の感情も、この順序で動く。雨が降る。温かい食べ物が出てくる。昨日まであったものが、今日はもうない。そうした小さな出来事に触れて、泣いたり、震えたり、歌ったり、ひとりごつ。
そして、その心を説明し切らず、像と像の間に余白を生む。これは、俳句の「切れ」に近い作法だ。松尾芭蕉の有名な句「古池や蛙飛びこむ水の音」が一瞬の水音だけで前後の静けさを想像させるように、「ちいかわ」もしばしば、説明が欲しくなった瞬間に話が終わる。
楽しい食事の直後に正体のわからないものが映る。笑顔の次に無言の表情が置かれる。物語はそこで切れる。しかし、感情は切れない。
■灰色のモブたちは“推し”を拒む
ここまでに見てきた技法は、実は同じ「伏せる」という操作に集約できる。「ちいかわ」が民話と重なるのは、なぜ怪異が起きるのか、その原理を伏せる語り口だ。和歌や俳句に通じるのは、登場人物がどう感じたのか、感情の名を伏せる作法。そして『映画ちいかわ』は、そこに3つ目を加えた。共同体のなかで責任を負うべき顔を伏せるのである。
その先にあるのが、灰色の島民たちだ。「ちいかわ」は本来、きわめて推しを生みやすい作品である。表情、口調、性格、食べ方、怖がり方。
その差異が観る者の愛着へ変換される。ところが島民たちは、その原則から局所的かつ徹底的に外されている。固有の人格が、集団のなかに沈んでいる。「ちいかわ」世界における反キャラクターだ。
■「かわいいから許す」とはならない
灰色のモブ自体は原作にもいる。だが漫画で群衆を灰色に描くことと、映画の巨大なスクリーンで一群だけを無彩色にとどめることは別の行為だ。漫画ではモブ表現として通過し得た灰色が、映画では巨大な画面と鮮やかな色彩との対照によって前景化する。原作の記号が、映画では演出へと引き上げられている。
そのため観客は、特定のキャラクターへの好悪で判断できない。かわいいから許す、嫌いだから罰してほしいという回路を切断され、そこで行われた恐るべき行為と、そこへ至った思考や選択そのものを見つめざるを得なくなる。
ここでの「伏せる」は、書き手の怠慢でも優しさでもない。判断を受け手の側へ渡すための技術だ。読者に心を委ねてきた作品が、映画では客席に裁きの宙吊りを残す。
■“殺しの罪”と“共同体の罪”
しかも本作の罪は2つある。「人魚を殺した個人の罪」と、犯人を特定できないまま高額報酬を掲げ、島外の者を危険へ呼び込んだ「共同体の罪」。後者を誰が言い出し、誰がどこまで賛同したのか、映画は示さない。責任者が存在しないのではなく、存在するはずなのに指させないのである。
灰色の没個性的なキャラクターを通じて表現される「行為の匿名化」。それは、この事件を特別な誰かがその個性ゆえに起こしたものではなく、状況次第では誰もが選び得る行為として提示する。大切な人を失いたくない。自分たちの生活を守りたい。ひとりが反対しても何も変わらない。どれも理解不能ではない。だからこそ恐ろしい。自分もまた顔の見えない集団の一員になることで、誰かの犠牲を見ないことにしているのではないか。島民たちの「灰色」は、「善と悪の中間色」であると同時に、「観客自身を映す色」でもある。
■単純な“被害と加害”に分けられない
次々と島民を襲うセイレーンもまた、単純な悪とは言えない。報復は関係のない者にまで及ぶが、仲間を奪われた怒りには理由がある。他方、人魚を食べた側にも切実さはあるが、その愛情は別の生命を奪うことを正当化しない。被害と加害、愛情と暴力、救済と捕食が、きれいに分離されない。
だから、ちいかわ自身も世界を正しく裁く英雄にはならない。真相に辿り着いたように見えるが、それを口にしない。実際、何を思ったのかも明かされない。ただ、裁ききれない痛みがある現実を前に、立ち止まったように見える。おそらく、それこそが「ちいかわ」を貫く倫理なのだと思う。ただし、その沈黙を単純な優しさや赦しとして受け取るべきではない。物語が明確な裁きを下さなかったということは、判断が宙に浮いたまま残るということだ。その判断は、最後に客席へ残される。
■罪と報いの物語は観客に託される
前述の「切れ」が効いてくるのも、ここからだ。エンドクレジット後のあのシーンは、宙吊りに救いを与えない。物語は終わったように見えるが、海を進むセイレーンによって因果だけはまだ動き続けていることが示される。しかも映画は、その先を見せない。報いを予感させながら、正当な罰なのか終わりのない復讐なのかを決めないまま、切る。物語は切れても、因果は切れない。物語が長編になっても、最後には本来の短詩的な余白へ観客をもう一度突き落とす。
これほど観客を突き放す映画が、記録的なヒットを飛ばしている。初日の興行収入は約9億9000万円。最初の3日間で約22億4000万円を記録し、オープニング興収は歴代10位。本稿を書いている公開9日目で40億円、動員270万人を突破した。うまくいけば100億円も視野に入る出足だ。海外展開も始まり、台湾では配給側が先行上映2日間の売上を800万台湾ドル超、新作首位と発表。韓国では9月公開が予定されている。
■台湾では6歳未満は鑑賞不可に
ただし、扱いまで同じではない。台湾では6歳未満が鑑賞できない「保護級」に指定された一方、日本の映倫区分は年齢制限のないGだ。同じ映画でも、何を子どもから遠ざけ何を家族の判断に委ねるか、その線引きは国によって異なる。もっとも、理屈で善悪を整理する大人よりも、明るい画面に混じった灰色の異物を子どものほうが直感的に掴むのかもしれない。
『映画ちいかわ』は、かわいいキャラクターによる冒険映画であり、友情の物語であり、質の良いイヤミスのような後味を持つ、「罪と報いの寓話」でもある。ちいさくてかわいいものたちは、世界のすべてを理解しない。それでも食べ、働き、怖がり、友達の手を握って帰ってくる。彼らが帰ったあとも、因果は動き続ける。その小さな生と、外側に残された暗闇を同時に見つめること。それが『映画ちいかわ』を観るということなのだと思う。
大人が肝を冷やす、夏休み映画である。

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中井 圭(なかい・けい)

映画解説者

「映画の天才」「偶然の学校」代表。『文藝別冊 クリストファー・ノーラン 増補新版』『スティーヴン・スピルバーグ 映画の子』をはじめ、各種媒体に映画評寄稿。そのほか、映画イベント登壇、審査も担当。日本酒、台湾、温泉、鮨、旅が好き。

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(映画解説者 中井 圭)
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