■清須会議で露呈した秀吉の野望
羽柴秀吉(池松壮亮)は弟の小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)に、こっそりと打ち明けた。「これはわしらだけの秘め事じゃ。信雄様でもない、信孝様でもない。このわしが上様の思いを継ぐ」。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第30回「清須会議」(7月26日放送)。
この「決意」の反映、ということだろう。第30回「清須会議」(8月9日放送)では、信長(小栗旬)と嫡男の信忠(小関裕太)亡きあとの織田家の体制と、主がいなくなった領地の配分を決める清須会議を前にして、秀吉は周囲が意表を突く提案をする。
信長の次男の信雄(山脇辰哉)と三男の信孝(結木滉星)を抜きにして、秀吉自身と柴田勝家(山口馬木也)、丹羽長秀(池田鉄洋)、池田恒興(堀井新太)の4人が話し合う、というものだ。信忠の孫で、信長の嫡孫である三法師を織田家の後継者とし、まだ数え歳で3歳の三法師が成長するまで、この4人で支える、というのである。信長の妹の市(宮﨑あおい)を勝家が娶る、という提案も加わった。
実際、天正10年(1582)6月27日に行われた清須会議では、三法師を織田家の後継者と定めたうえで、それぞれが自分の優勢を主張して引かない信雄と信孝を外し、上記の織田家宿老4人の合議制で政権を運営することに決まった。
■当初は反秀吉ではなかったが…
ただ、この会議終了の時点で、柴田勝家が表立って秀吉に抵抗した形跡は見えない。分けあたえられた領地は、秀吉には山城(京都府南部)と丹波(京都市中部、北部と兵庫県東北部)、河内(大阪府東部)の東部と、広大で要地ばかりだったのに対し、柴田勝家には近江の長浜領(滋賀県北部)だけで、秀吉とくらべるとかなり見劣りした。
しかし、柴田勝家は明智光秀の軍を撃った山崎合戦に参戦していない。最近、秀吉も山崎合戦に間に合っていなかったことを示す書状が見つかったが、秀吉は戦場の近くにまでは到達して光秀に圧力をかけた、という点で勝家と違う。むしろ、山崎合戦で埒外にあったのに、京都に出るための要所に所領を獲得していることから、勝家の存在の大きさがわかる。
その後も、しばらくは勝家が反秀吉の旗幟を鮮明にしていた形跡はない。それどころか勝家の書状などを見るかぎりでは、織田体制の継続を指向し、身内同士が争うことを憂慮している。10月6日付で堀秀政に宛てた書状でも、秀吉が清須会議で決めたことを守らず、勝手に振る舞っている、と苦言を呈しながら、それを機に内輪揉めになり、第三者に付け入る隙をあたえるべきではない、と結論づけている。苦言は呈しても対立までしていない。
だが、10月15日に秀吉が、大徳寺(京都市北区)で信長の葬儀を行ってから、様相が変わったようだ。
■2人が対立するようになったきっかけ
この葬儀には信雄も信孝も反対し、勝家も中止させようとした形跡がある。
だが、勝家は大きな抵抗ができていない。要は、勝家のほうが秀吉よりも「真人間」だったということだろう。秀吉が次々と策略をめぐらすのに対し、常に後手に回ってしまう。
秀吉は織田政権を簒奪するために、信長の後継者である三法師を「傀儡」として手元に置いておきたかった。ところが、岐阜城(岐阜市)の信孝が手元から放そうとしない。そこで秀吉は荒業(あらわざ)に出る。丹羽長秀、池田恒興と企んで、織田家の家督を三法師から信雄へと移してしまうのである。
そのうえで、安土城(滋賀県近江八幡市)へ移るべき三法師を手放さない信孝に謀反の罪を着せ、信孝を謀反へとそそのかしたとして、勝家を弾劾するに至った。ここでようやく秀吉と勝家は、すっかり対立することになった。
■勝家の周囲を崩す
秀吉が勝家を甘く見ていたのではない。
また、イエズス会宣教師のルイス・フロイスも、秀吉にとって勝家こそが「主たる強敵」だったと書き遺している。
勝家を恐れ、勝家こそが自分の前に立ちはだかる最大の難敵だ、という認識があったからこそ、秀吉は早くから、勝家に先回りできるように策略をめぐらした。信孝を謀反人に仕立て、背後に勝家がいると吹聴したのもその一つである。だが、勝家が信孝と早くから結託していたことを示す史料はなく、秀吉の横暴がすぎるなかで、次第に連携するようになったものと思われる。
そして、秀吉が力を注いだのは、勝家の周囲を突き崩すことだった。
■まさかだった”身内”の裏切り
秀吉は天正10年(1582)12月、岐阜城に織田信孝を包囲して降伏させ、人質を提供させた。明けて天正11年(1583)1月に織田家宿老だった滝川一益が伊勢で蜂起すると、その討伐に向かった。むろん、その間ずっと勝家の動きににらみを利かせ、同時に調略を推し進めた。
天正10年12月には長浜城(滋賀県長浜市)を攻め、勝家の養子の勝豊を降伏させ人質を出させている。
勝家の養子が、単に秀吉に屈しただけでなく、以後、反勝家に転じたのは、勝家にとってダメージが大きかった。重病にかかっており、秀吉から名医をあてがわれたのも影響したようだ。
勝家も、足利義昭に京都への帰還を助ける約束をしたり、その延長で毛利との連携に向けて交渉したり、四国の長宗我部元親と連絡をとったりと、味方を増やす努力はしていた。だが、身内に裏切られたのは痛かった。
それでも、雪解けを待って天正11年3月12日に出兵した勝家方は、当初は戦線を有利に運んだ。ふたたび反旗をひるがえした織田信孝を討伐すべく秀吉が美濃(岐阜県南部)に転戦すると、佐久間盛政が秀吉方の中川清秀の砦を急襲。猛将で知られた清秀を討ち取っている。このとき清秀より北方の砦を守っていた高山右近も敗走した。
ただ、戦上手の勝家のねらいどおりにはならなかった。勝家は盛政に、敵の不意打ちがあるから砦をひとつ攻略するたびに、必ず本陣に戻るように指示していた。ところが勝利に驕った盛政は戻らなかったのである。
■戦いの趨勢を決めた利家の退却
だが、一度ボタンが掛け違うと、すべてがずれてしまう。4月20日午前10時ごろ、中川清秀が討たれたと聞いた秀吉は、猛スピードで戦場に戻った。大垣(岐阜県大垣市)を午後4時ごろ発ち、午後8時ごろには、50キロ以上も離れた本陣の木之本(滋賀県長浜市)に着いていた。この「美濃大返し」は、必ずしも速くなかった「中国大返し」と違い、正真正銘の大返しであった。
そして翌日早朝以降、戦場に残っていた佐久間盛政の軍が、「大返し」した秀吉の軍にねらわれた。白兵戦が展開し、秀吉が200~300人ほどの若い馬廻衆らを勝家の本陣に突撃させたのが決定打になったようだ。追撃を受けた勝家の軍は5000~6000人が討ち取られたという。
それでも勝家方の軍がみな真っ当に戦えば、戦況は違っていただろう。ところが、後方に布陣していた前田勝家の軍が突然、戦線を離脱してしまったのである。緊迫した戦いのさなかで、後方の守りの部隊が突如いなくなれば、陣形は崩れ、兵の士気は激しく低下する。
竹中半兵衛の嫡男、重門が書いた秀吉の一代記『豊鏡』にも、利家が秀吉に内通していたと記されている。
前田利家が肝心かなめの場面で退却しなければ、天下の行方は違っていたかもしれない。だが、結局は、「真人間」の勝家は、狡猾さの権化のような秀吉の策略に勝てなかった、ということだろう。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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