若き日のマイケル・ジャクソンさんの栄光と苦悩を名曲とともに紡いだ伝記映画『Michael/マイケル』が好評だ。7月には早くも全世界で興行収入10億ドルを突破したという。
劇中でマイケルさんのターニングポイントとして描かれているのが、ペプシコーラのCMへの出演だ。史実でも米ペプシコ・インク社は1984年、『スリラー』(1982年12月発売)で世界的ヒットを記録した直後のマイケルさんを起用し「THE CHOICE OF A NEW GENERATION.(新しい世代の選択)」キャンペーンを展開、王者コカ・コーラに挑戦する姿勢を鮮明にした。

マイケルさん自身はこの広告出演に乗り気ではなかったと伝わるが、結果としてキャンペーンは若者世代におけるマイケルさんの人気を決定づけるとともに、ペプシvsコークの“コーラ戦争”をさらに激化させ、翌年の「ニューコーク」騒動(コカ・コーラの味を変更したことで消費者から反発を招き、3カ月ほどで撤回に追い込まれた)の伏線ともなった。本稿では映画『Michael/マイケル』のその後の“コーラ戦争”の行方を、日本の消費者と食品産業の視点から振り返りたい。

映画でも描かれた大事故から3年後、米ペプシコ・インク社はマイケルさんと再びタッグを組む。ペプシコーラ全面協賛によるマイケルさん初の世界ツアー「バッド・ワールド・ツアー」(1987年9月~1989年1月)は15ヶ国、123公演のほぼすべてをスタジアムやアリーナで開催するという空前絶後の興行となった。初回公演は東京の後楽園球場。ところがここで大問題が起こる。当時の後楽園球場はコカ・コーラ社と独占契約を結んでおり、会場のそこかしこにコカ・コーラのロゴが飾られていたのだ。日本テレビで当時マイケルさんの招へいに携わった白井壮也氏は著書で次のように回想している。

「球場の中では、コーラの看板(大きな張りぼて)を撤去しろ!このコンサートはライバル会社のペプシだぞ!というクレームが。当時、ペプシとコカ・コーラは全面戦争中。
とくにペプシはマイケル・ジャクソンをキャラクターに起用して売り上げを伸ばしていた。(中略)大慌てのわがスタッフだが、セメントで固めた張りぼては動かしようがない。(中略)大きな黒幕を取り寄せ、張りぼてに全部かぶせ、アメリカ側を説得。『ワンダフル!』と言わしめたのだ。」(「マイケル・ジャクソン来日秘話―テレビ屋の友情が生んだ20世紀最大規模のショービジネス」白井壮也)

ツアーに合わせ、ペプシコ・インク日本支社はコンサートチケットや特製グッズが当たる「ペプシ新世代」キャンペーンを展開するとともに、米国で制作されたマイケルさんのCMに日本語のテロップを付与して放映した。当時の日本のテレビCMでは珍しい手法だったが、日本向けのCMを新たに制作するよりも、米国におけるペプシのモメンタム(勢い)をダイレクトに伝えることが重視されたようだ。

この時期、いっぽうの日本コカ・コーラが国内で展開していたのは「I Feel Coke」キャンペーン(1987~1989)。老若男女が登場し、都会から田舎町まで日本の日々の暮らしにコカ・コーラが根差している様子を美しい映像と音楽で表現したこのCMシリーズは、現在でも広告史に残る名作として評価されている。コーラ飲料で激突した2社が、CMでは正反対のアプローチをとっていたことは興味深い。

当時日本における“コーラ戦争”を取材したAP通信の記事は、依然としてコカ・コーラが日本のコーラ飲料シェアの93%を占め、ペプシコーラが6%で2位、残り1%は日本の清涼飲料メーカー各社が占めていると前置きしたうえで、このように伝えている。

「しかし、ジャクソン旋風が日本を席巻した後、ペプシコ・ジャパンのマーケティングマネージャーである坂本康生氏によれば、ペプシの販売量は昨年の同時期(7~8月)に比べ9倍になったという。『マイケル・ジャクソンは日本人のペプシへの関心を引きつけています』と坂本氏は語る。『以前からペプシは日本では知られていましたが、地域ブランドやマイナーブランドとしてでした。
今では主要な国際ブランドとして認識されています』」(“Michael Jackson boosting Pepsi sales in Japan, Sales jump 100% with ad Campaign” by Terril Jones, Associated Press 1987年9月。日本語訳・筆者)

マイケルさんは「バッド・ワールド・ツアー」の締めくくりとして翌1988年12月にも再来日し、同年に開業したばかりの東京ドームで9公演をこなしてみせた。日本ペプシコ・インク社は特別パッケージのペプシコーラ(缶・ビン)を発売し、前年同様に米国制作のCMを放映した。

マイケルさんが離日してすぐ、元号は昭和から平成に移り変わった。映画『Michael/マイケル』で描かれた“コーラ戦争”の熱波は海を越えた日本にも数年遅れで到達し、市場にはRCコーラ(1989年。ポッカコーポレーション)JOLTコーラ(1990年、上島珈琲)シュウェップスコーラ(1991年、アサヒビール)といった“第三のコーラ”が次々と現れた。

消費者の嗜好の多様化に加え、好景気が背景にあったことは言うまでもない。このトレンドは1993年、円高を背景にダイエーが米国産コーラの低価格販売に乗り出し、「価格破壊」を起こすまで続いた。文字通り泡のように消え去った数年間の、甘く刺激的なタイムカプセルだ。

【岸田林(きしだ・りん)】
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