日本はなぜアメリカとの戦争に敗れたのか。政治学者の伊藤隆太さんは「太平洋戦争中、陸軍は潜水艦を造り、海軍は戦車を造った。
兵器も情報も船も燃料も別々に抱えた両軍は、最後まで一つにまとまれなかった。日本軍は米軍に敗れる前に、『2つの軍隊』という内なる敵に足をすくわれていた」という――。
■味方の潜水艦に「汝は何者なるや」と尋ねた
土井全二郎『陸軍潜水艦――潜航輸送艇(ゆ)の記録』(光人社、2010年、p.20~23)によると、1944年7月18日、マニラへ入港した陸軍の潜航輸送艇に、海軍艦艇は「汝は何者なるや。潜水可能なるや」と信号を送った。
味方の海軍が、陸軍の「潜水艦」の正体を尋ねたのも無理はない。この潜航輸送艇「まるゆ」は、陸軍が海軍とは別系統で独自に建造・運用していたからだ。
こうした軍種の境界を越えた独自装備は、陸軍だけではなかった。海軍も、水陸両用戦車・特二式内火艇「カミ」を保有していた。陸軍は海の装備を、海軍は陸の装備を、それぞれ自前で抱えた。このねじれは、太平洋戦争下の日本が抱えた矛盾を象徴している。
なぜ同じ国の軍隊が、兵器も情報も船舶も燃料も別々に抱え、最後まで一つにまとまれなかったのだろうか。
■「協同」を命じても指揮系統は別々
本稿が示す答えはこうだ。
陸海軍に協同を命じておきながら、両軍の作戦を一元的に立案・指揮する常設の統合幕僚機構を、最後まで置かなかった。調整の仕組みがなかったわけではない。大本営政府連絡会議や陸海軍中央協定はあった。だがそれは会議と協定に頼る仕組みで、陸軍と海軍の命令系統そのものは別々だった。
原因は制度の設計にある。1937年11月の「戦時大本営令(案)」と、1941年7月20日の「大本営陸海軍部及政府ノ申合細綱」の2つを読み合わせると、両軍に協同を求めながら、実際に作戦を動かす組織は「大本営陸軍部」と「大本営海軍部」に分かれたままだったことがわかる。
■一元化を阻んだ陸海軍の「対等」
では、なぜ旧日本軍は、作戦指揮を一元化できなかったのか。壁になったのは、戦前日本の統治機構と、陸海軍の対等な関係だった。
大日本帝国憲法第11条は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定めていた。軍隊を動かす権限は天皇にあった。ただし、「軍の作戦には内閣も口を出せない」とまで憲法に明記されたわけではない。憲法制定前からの慣行や1907年の軍令制度などを通じ、軍の中枢が首相や大臣を介さず、天皇へ直接報告し、指示を仰ぐ仕組みが定着していった(国立国会図書館「憲法条文・重要文書」、同「文民統制の論点」)。

1937年当時、作戦指揮の中枢にいたのは、陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長だった。2人はともに天皇の直属で、互いに上下関係はない。その上に立って両軍を統合する「統合幕僚長」のような役職も存在しなかった。
この体制のまま指揮を一元化しようとすれば、陸軍と海軍のどちらが主導権を握るのかという問題を避けられない。一元化の議論は「陸軍と海軍のどちらが上に立つか」という主導権争いと表裏一体だったのである。
しかも、陸海軍の対等な関係は、当初からのものではない。1893年の戦時大本営条例では、「帝国陸海軍ノ大作戦」を計画する役目は陸軍の参謀総長にあり、海軍トップの海軍軍令部長はその補佐とされた。海上作戦まで陸軍の長が主導する建て付けだった。
日清戦争後、海軍はこの陸軍優位の仕組みの見直しを求めた。日露戦争直前の1903年の改正で、参謀総長と海軍軍令部長は、それぞれ自軍の作戦を担う対等な立場となった。1937年の大本営に「陸軍部」と「海軍部」が並んだのは、こうして成立した陸海軍対等の帰結だった(明治26年勅令第52号明治36年勅令第293号)。
■出発点から異なった陸海軍の軍備構想
陸軍と海軍は、軍備構想でも異なる方向を向いていた。
1907年4月に初めて定められた「日本帝国ノ国防方針」は、ロシアを第一の想定敵国とし、米国、ドイツ、フランスがこれに続いた。一方、軍備の標準は、陸軍が大陸での対ロシア戦を、海軍が太平洋での対米戦を念頭に置いた。
もっとも、当初の年度作戦計画では陸海軍とも対ロシア戦を最重視し、1923年の第2次改定では米国が両軍共通の第一の想定敵国になるなど、優先順位は変化した。それでも、異なる軍備構想を出発点として、兵力・教育・訓練を別々に整える構造は残った。これも統一的な戦争準備を難しくした要因だった(https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C14061024500、防衛研究所「開戦期の戦争指導」、https://www.nids.mod.go.jp/publication/militaryhistory_research/mh_tokushu/eastasia_military_history/pdf/emh01_10.pdf)。
こうした陸海軍の縦割りは、補給、装備、情報、船舶、燃料の各局面で、日本の戦力を内側から損なっていくことになる。
■ガダルカナルの補給難が陸軍潜水艦を生んだ
冒頭の信号のやり取りは、関係者の証言をもとに土井が記した戦後の逸話であり、同時代の信号電文そのものではない。ただし、陸軍が独自の潜航輸送艇を建造した事実は公文書で確認できる。
陸軍が自前の潜航輸送艇を造った直接のきっかけは、ガダルカナル島への補給難だった。
厚生省援護局復員課が戦後に作成した「1 潜航輸送実施の準備」によると、ガダルカナル島への補給が難しくなったことを受けて、海軍は陸軍にひとつの案を示した。
艇を操る要員は陸軍が出し、潜水艦そのものの管理は海軍が持つ、という内容である。参謀本部はこの案を採らず、1943年4月17日、東條英機陸相が陸軍独自の建造を決裁した。
陸軍は、海軍に運用の権限を委ねない道を選んだのである。
1943年11月29日付の陸軍省「経監電第21号 野戦部隊用諸規定送付方の件」は、潜航輸送艇を敵の制空下で人員と貨物を運ぶ「決戦海運資材」と規定した。この潜航輸送艇は、陸軍自身の命令系統と運用体系に属する装備だった。
前線の補給難という戦況に対して、両軍は解決策を一本化できず、「もう一つの輸送体系」を積み増すかたちで応じた。戦況の悪化が縦割りを深め、縦割りが戦力の分散を招いたのである。
■陸軍は海へ、海軍は陸へ進んだ
陸軍による独自建造は、試作だけでは終わらなかった。
国本康文『陸軍潜航輸送艇隊出撃す!』(国本康文、1998年)第6部の艇別行動記録を筆者が集計すると、完成が確認できる艇は38隻となる。これは公文書に一括総数として記された数字ではなく、艇別記録から得た集計値である。
陸軍省「昭和20年度第1次整備計画(海運器材)」にある潜航輸送艇1型70隻、2型10隻、計80隻という数字は、昭和20(1945)年度の計画値であって、実際に完成した数ではない。また、陸軍省「3式潜航輸送艇設計図」と、第十陸軍技術研究所「改装3式潜航輸送艇積載要領書」には、積み込む兵器や弾薬の梱包の寸法を定めた表まで収められている。陸軍が独自の運用体系を細部まで整えていたことがうかがえる。
陸軍が海上輸送用の潜航艇を造る一方、海軍は陸上を走る装備を持った。
館山海軍砲術学校研究部「陸戦兵器要目表」は、水陸両用戦車「特二式内火艇」の名称と性能を掲げている。海軍自身が、これを陸戦兵器の一つとして整理していたことがわかる。
米陸軍省が1944年10月1日に刊行した戦時教範『日本軍ハンドブック』(Handbook on Japanese Military Forces)p.250~251、図250は、「新型水陸両用戦車」として、取り外しのできる前後の浮舟、2基のプロペラ、37ミリ砲を備えた車両を図示している。
教範に日本側の型式名はないが、その形態と構造から「カミ」とみられる。用途は違っても、陸軍は海へ、海軍は陸へと進み、設計から調達、運用までを自前で抱えた。
ただでさえ乏しい資材と工業力が、両軍の別々の体系に分散していたのである。
■主力空母4隻を失っても、陸軍には「作戦延期」
陸海軍が分けていたのは、装備だけではない。ミッドウェー海戦では、主力空母4隻を失った事実についても、情報の共有範囲が厳しく制限された。
佐世保鎮守府の1942年6月戦時日誌に収録された海軍の通達は、ミッドウェー海戦のあと、「損傷艦名ハ一切公表セズ」「海軍部内一般及在外武官ニ対シテハ公表以外一切発表セズ」とした。海軍の部内にも駐在武官にも、公表した内容以外は伝えない、という意味である。
さらに陸軍の部内一般に対しては、「MI作戦ハ海上作戦ノ関係上之ヲ延期セリ」、つまりミッドウェー作戦は海上作戦の都合で延期した、と説明するよう指示した。
一方、第一航空艦隊戦闘詳報「ミッドウェー作戦(1)」(「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(1)」)は、空母の赤城、加賀、蒼龍、飛龍の喪失を記録している。
史料から確定できるのは、陸軍の部内一般へ「延期」と説明する方針が示されたところまでである。それでも、主力空母4隻喪失という情報の共有範囲が、同じ国家の軍事組織内で制限された事実は重い。
正確な戦況を知らされない側は、不正確な前提に基づき、以後の作戦判断を誤りかねない。情報の縦割りは、それ自体が戦力の損失だった。
■船舶の統括責任者はいなかった
船舶の運用は、陸海軍と民需の3系統に分かれていた。しかも、分け合う船腹そのものが不足していた。
1942年3月7日の大本営政府連絡会議決定「船腹ノ現状並ニ之ノ増強対策」は、1941年12月時点で日本が持っていた100トン以上の汽船の船腹量を649万総トンと記録している。
このうち油槽船(タンカー)、官庁用船、徴用船、修理中の船、失われた船などを除くと、重要物資の輸送に使えたのは174万総トンだった。全船腹に対する比率は26.8%である。1942年1~3月の重要物資の輸送量は月平均216万トンで、前年1941年の第1・第2四半期の月平均500万トンの43.2%にとどまった。いずれも、この連絡会議決定が定めた区分と数値による。
米国戦略爆撃調査団(USSBS)が1945年10月18日に行った大井篤海軍大佐の尋問記録「日本の海上護衛と船舶損失」(Nav第11号、米海軍歴史遺産司令部)によると、大井は、船舶全体を統括する単独の責任者はいなかったと証言している。
海軍、陸軍、運輸や通信を担う官庁がそれぞれに責任を負い、1943年11月に軍需省が設置されたあとは同省も強い発言権を持った。出航命令は、陸軍船では各地の陸軍司令部が、海軍所管船では海軍運輸本部または連合艦隊が出したという。
船腹の不足に加え、責任主体と命令系統も分かれていた。限られた船を取り合う体制は、前線への補給と国内の生産をともに細らせていった。
■燃料を運ぶこと自体が「作戦」になった
石油の輸送にも、両軍間の調整が必要だった。1942年10月6日の陸海軍中央協定「昭和17年度下期南方石油取得に関する件」は、昭和17年度下期の「内地石油輸送量」の目標を122万キロリットルと定め、さらに増やすよう努めるとした。
これは油田の生産量や軍種別配分ではなく、日本本土への輸送目標である。1945年1月20日の「燃料並重要物資緊急還送作戦実施ニ関スル陸海軍中央協定要旨」は、燃料と重要物資を日本本土へ急いで運び戻すこと、すなわち緊急還送そのものを作戦の目的に掲げた。
開戦から3年あまりで、燃料を使って作戦を行うのではなく、燃料を運ぶこと自体が作戦になるところまで戦況は悪化していたのである。
■「一体化」の実態は東條と嶋田の兼任
陸海軍の分立は、航空資材の配分にも表れた。中山定義は自著『一海軍士官の回想――開戦前夜から終戦まで』(毎日新聞社、1981年、p.183)で、1944年2月10日の陸海軍間の航空資材配分をめぐり、嶋田繁太郎海相が軍令部や航空本部の求めた水準の海軍航空強化を実現できなかったと回想している。資材配分をめぐる海軍内部の不満が表面化したことがうかがえる。
その11日後の2月21日、こうした陸海軍の分立が続くなか、東條と嶋田に権限を集中させる人事が行われた。東條は首相兼陸相のまま参謀総長を、嶋田は海相のまま軍令部総長を兼ねた。
日本映画社『日本ニュース第195号』(1944年2月、昭和館デジタルアーカイブ)は、この人事を「陸海軍の国務・統帥を一体化」するものだと宣伝した。だが、東條は陸軍の、嶋田は海軍の軍政と作戦指揮の職をそれぞれ兼ねたにすぎない。両軍を横断する常設の統合幕僚機構が、新しく設けられたわけではなかった。
■「東條、嶋田のコンビでは我慢できぬ」
表向きは「一体化」でも、軍内部の受け止めは冷ややかだった。
海軍軍人だった大石保は「大石保日記 昭和18~19年」の1944年2月21日条(防衛研究所戦史研究センター史料室、登録番号①中央-日誌回想-1035、史料目録)で、統合に「理論的には賛成」としながら、「問題は人に在り」と記した。
高木惣吉『高木惣吉日記』(毎日新聞社、1985年、p.201~203)には、同年4月21日、海軍の神重徳が海軍省の課長会議の空気を「東條、嶋田のコンビでは我慢できぬ」と報告した記録がある。人事による権限集中は、陸海軍を横断する制度的統合の代わりにはならなかった。
米軍の反攻が本格化するなか、軍の中枢は統合できず、内側の不和を抱えたまま悪化する戦況に向き合っていた。
■米軍に敗れる前に、「組織の内側」国内で負けていた
陸海軍の分立は、戦場でも最後まで解消されなかった。その象徴がレイテ戦域にあった。
厚生省援護局復員課が戦後に作成した「4 潜航輸送部隊の作戦」によると、1944年11月、まるゆ3隻がフィリピンのレイテ島への輸送に向かい、1隻を失ったが、2隻は到着して精米などを陸揚げした。
米国の国立第二次世界大戦博物館が公開する米陸軍通信隊の写真「1945年1月6日、フィリピン・オルモック近郊の日本軍特二式内火艇」には、同じレイテ戦域にあったカミ1両が写っている。この写真から確認できるのは1両の所在にとどまり、部隊規模や戦果ではない。
レイテ戦域には、陸軍の潜水艇と海軍の戦車が別々にたどり着いていた。この事実は、この戦争の縮図である。
振り返れば、陸軍と海軍の軋轢は、戦況の節目ごとに日本自身の足を引っ張っていた。ミッドウェーでは、主力空母4隻の喪失という戦況の根幹にかかわる情報さえ、味方の陸軍への共有が制限された。ガダルカナルでは、海上輸送の行き詰まりに対して両軍は解決策を一本化できず、陸軍は自前の潜水艦の建造に乗り出した。
船舶は陸軍、海軍、民需の3系統に分かれ、前線への補給と国内の生産をともに細らせた。燃料は、内地へ運ぶこと自体が作戦になるほど輸送が逼迫した。そして、乏しい資材と工業力は二重の開発・運用体系に分散した。
つまり、陸軍と海軍の縦割りは、補給を細らせ、戦況の認識を歪め、戦力の集中を妨げるという形で、日本の戦力を内側から損ない続けたのである。旧日本軍は、米軍に敗れる前に、「2つの軍隊」という内なる敵に足をすくわれていたのだ。

----------

伊藤 隆太(いとう・りゅうた)

政治学者

群馬県立女子大学・東京都市大学非常勤講師。博士(法学)。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同大学大学院法学研究科後期博士課程修了。慶應義塾大学・広島大学助教、日本国際問題研究所研究員等を経て今に至る。Co-Chairs of the IPSA Research Committees (RC12)、APSA Committee of Best International Security Article等を歴任。単著論文はInternational Affairs誌に‘Hybrid Balancing as Classical Realist Statecraft’ (2022)、‘Hubris Balancing’ (2023)、International Relations誌に‘A Neoclassical Realist Model of Overconfidence and the Japan–Soviet Neutrality Pact in 1941’ (2023)、‘Outrage Balancing’ (2026)、単著研究書は『進化政治学と国際政治理論』(芙蓉書房出版、2020)、『進化政治学と戦争』(芙蓉書房出版、2021)、『進化政治学と平和』(芙蓉書房出版、2022)、編著研究書に『インド太平洋をめぐる国際関係』(芙蓉書房出版、2024)等がある。

----------

(政治学者 伊藤 隆太)
編集部おすすめ